第5話 偽典 正也の親友②

 休日だと言うのに、早く目が覚めた。早く目が覚めたからと言って、やる事は特に無い。

 以前は朝早く起き、体を鍛えていたのだが、これ以上の力を持つ必要が無くなった今、体を鍛える必要は無いし、健康だってどうでもいいのだから、眠ってしまえ。

 昼まで眠り、だらだらと起きて、テレビを見て、彩子さんを待ち、飯を食えばいい。

 それを実行した所で、誰に怒られる訳では無い。むしろ平日、朝早くから晩遅くまで働いているのだから、休日は休むのが当然だ。

「……それが出来れば、どれほど楽か」

 僕は独り言を呟き、仕方なく体を起こした。


 僕は休日のたびに焦っていた。休日なのだから、どうせ暇なのだから、春香ちゃんと話をしろと、僕の心がけしかける。

「アイツとの約束だろ」

「ケイジは英雄なんだろ」

「また見殺しにするつもりか」

 そういった言葉が僕を焦らせ、ジッとなんて、させてくれない。やらなくてはいけない事がどれほど難解でも、やらなくてはいけないんだ。

「畜生」

 恐らく僕は、春香ちゃんの件を解決しない限り、彩子さんや家庭に向き合う事は出来ない。いつだって春香ちゃんの事が引っかかっている。いつだってアイツとの約束に囚われている。こんな状態じゃあ何をするにも散漫になり、集中なんて出来る訳がない。

 いや、散漫ならまだ良いほうだ。このままでは全てにやる気が起きなくなり、仕事を辞め、彩子さんが離れ、健太が離れ、そして全てが僕の手から離れていくのだろう。アイツとの約束の、せいで。

「……こりゃ呪いか?」

 死んだ人間との約束なんて、呪い以外の何物でもない。だけど僕には、その呪いが、どうやら大切。だから悩んでいるし、他のものに手がつかない。心が動かない。僕がどう思おうと、それだけは一ヶ月経った今でも変わらなかった。

「畜生」

 結局は堂々巡り。どんなに言い訳じみた言葉を考えてはみても、現状を変えたければやらなくてはいけない。

 運命に弄ばれている。そんな風に感じ、僕の心をさらに憂鬱なものにした。


 僕は部屋のドアを開け、外に出た。冷たい空気が風に乗り、突き刺すように僕を攻める。

「部屋に戻り、暖かい布団の中で過ごせばいい」という考えが頭をよぎった。

 確かに、その通り。春香ちゃんにしてみれば望まない来客だろうし、僕だって出来る事なら行きたくない。

「いい加減にしようよ、僕」

 冷たい風を言い訳に戻るなんて、出来る訳がないだろう。最もらしい言葉を並べ、自分を納得させ、問題を先送りにするなんて、格好悪いにも程がある。

「いい加減……」

 僕は部屋の前から走り出し、階段を二階から一階まで一気に降りようと、飛んだ。時々僕は、こういう事をする。自分を傷つけるような、訳の解らない行為。


 アイツのアパートが近づくにつれて、僕は落ち着かなくなっていた。一瞬走っては止まり、また歩き出し、走って止まる。それを何度も繰り返していた。

 どうにもこうにも、心が落ち着いてくれない。緊張している。アイツが死んでからというもの、昼間にこの辺りを歩く事が全く無かっただけに、僕は「いよいよか」と思ってしまい、視界が歪む。

 とてもとても、嫌な気持ちだ。嫌な気分だ。親友との約束を果たすための行為なのに、何故こうも嫌なのだろう。そもそも僕は、春香ちゃんなんて……。

「あっ……」

 そう考えた瞬間に、急激に理解した。僕は多分、春香ちゃんの事が、嫌いなんだ。きっとずっと、嫌いだったんだ、と。

 理不尽に嫌われているのなら、関わりたくない。関わらないで済むなら、そのままでいたいって、学生の頃から思っていた。

 春香ちゃんも当然そう思っていただろうから、今までお互い会った事さえない。嫌い合っているから、会うのも話すのも、嫌なのだろう。

「……僕にどうしろっつぅんだよ」

 足はより、重いものとなる。顔を上げ、見つめ直したこの道が、どんな坂道を歩くよりも億劫に感じた。


 アイツの部屋の前へと、やってきてしまった。まだ何もしていないが、もう既に僕は後悔している。普段、決して涙を見せる事の無かったアイツが、泣きながら頭を下げてお願いをして来なければ、アイツに妹さえ居なければ、そもそもアイツが死ななければ、僕は今頃、心に多少の引っかかりはあろうとも、彩子さんと幸せに過ごしていた筈なのに。

 どうして僕は、いつもいつも、貧乏くじを引いてしまうのだろうか。

「いつも、いつも……んっとに……」

 僕はブツブツと独り言を呟きながら、震える指に神経を集中させた。そして、扉の横についているチャイムのボタンに、そっと指を当て、力を込める。ピンポーンという音が、部屋の中から聞こえてきた。

 ついに鳴らされた、チャイム。僕の心臓は、飛び出そうなくらい、暴れていた。

「あぁ……帰りたい……」


 まだ眠っているのだろうか、それなら帰ろうか、寝てるなら仕方ない……そう思ってしまうほど、僕はただ立っていた。

「誰?」

 突然、部屋の中から女性の声が聞こえて、僕は驚く。いや、驚くなんてものではない。思わず奇声を発して逃げ出してしまいそうになるくらいの衝撃だった。

「あ、長谷川です。長谷川啓二」

 僕は思わず声を出していた。そして何故か、フルネームを名乗っていた。春香ちゃんにフルネームを名乗った所で通じるのだろうか。「正也君と仲良くさせて貰っていた啓二という者ですけど」くらいは付け加えたほうが良いに決まっている。

 本当の本当に、僕はテンパっているようだ。

「……何か用ですか?」

「え?」

 小さく、棘のある声色で、春香ちゃんは返事を返してきた。どうやら僕が何者かであるかを察してくれたようで、助かる。

「うん。用だよ」

「……私には、ありませんけど」

 ……なんだ? なんだコイツ。

 少し前、数秒前までは「助かる」と思っていた僕の心が、変な方向に向いて来た。

「そう? そうでもないでしょ」

 僕はすれ違いを感じながらも、話しかけた。言葉は上手く思いつかないが、精一杯頭を働かせ、言葉を選ぶ。

「そうでもない……って、何言ってるんですか?」

 春香ちゃんはやはり、棘のある声で、小さく呟くように返事をする。

 僕は瞬間、殺意が涌いた。

「……用がない事もないでしょって言ってるんだけど。僕は啓二だよ。長谷川啓二。タダっちからはケイって呼ばれてた、啓二」

「知ってますよ。だからなんだって言うんですか」

 僕は小さな声で「このクソガキ」と呟く。しかしそれを本人に伝えてはいけないし、機嫌が悪くなっている事を悟られてもいけない。アイツはそんな事を望んではいないし、春香ちゃんが助かる訳でも無いのだから、大人にならなくては。

 僕は小さく深呼吸し、本題を話す事にする。

「……僕と春香ちゃんって会った事無いでしょ。だから会って話してみたいなって思って来たんだけど」

「私は話してみたいって思った事、ありませんから」

 僕は思わず、歯を食いしばる。

「……そうなの?」

「そうなんです」

「そうかぁ……それはお互い様だけどな」


 やっぱり、来なきゃ良かった。そもそも僕は、口下手だ。心が病んでいて、なおかつ僕を嫌っている人間と話して、自分を好いてもらい、助け出す事なんて、僕には不可能。ユキちゃんを救えたのだって、タダっちから尊敬されたのだって、僕の口の上手さが評価されたからじゃない。僕の行動なんだ。

 それに僕は、やっぱり春香ちゃんが、嫌い。アイツとの約束が無ければ、僕は春香ちゃんを助けたいとは決して思わなかっただろう。

「解ったら、帰ってください」

「うん。解ったから帰るね」

 僕は小声で「もう二度と来ないから」と付け加えて、ドアを蹴りたい衝動を抑え、歩き出した。後ろからヒステリーになった春香ちゃんの奇声が聞こえてきたが、決して立ち止まったりしない。

 もう、知らない。

「クソが……クソが……!」

 僕は帰る際、このアパートの壁を思い切り蹴った。


 僕はユキちゃんの家の前で立ち止まった。外観こそ大きく立派に見えるが、この屋敷には人の気配がせず、薄気味悪いと感じる。垣根も屋根も雪下ろしがされておらず、門から玄関までの道も、除雪がされていない。昨日の雪にかき消されてか、ユキちゃんと家政婦兼、養育係である奈緒さんの足跡すら残っていない状態。庭の隅に置かれている奈緒さんの軽自動車も、雪がかぶっている。

 本当に、ユキちゃんは居るのだろうか。

「……絶対、幸せじゃないよなぁ」

 僕は地面を見つめながら、とぼとぼと歩き始めた。


 この感覚は、絶対にまずい。僕は明日から、ちゃんと仕事にいけるだろうか。笑えるだろうか。話せるだろうか。そんな事すらも心配になるほどに、僕は今、やる気が無い。

 アイツとの約束を守れればと、思っていたのに。アイツの呪いが僕に与えたものは虚無。

「疲れた」

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