第9話 私は主にふれられて 新しく変えられた
僕が小学校のとき少しだけ通った教会で、ある二十歳くらいの女性が教壇の前でお証(おあかし)をした。
小柄でおとなしそうな、人形のような女性。
生身の人間というよりも、ガラスケースのなかから抜け出してきた、色白の小柄な女性。はにかんだような笑顔に、ういういしさえ感じた。
しかし証の内容は、僕の知らない、いや想像もつかない世界のあっと驚くほど意外なものだった。
「皆さん、こんにちは。初めて会う人も大勢いらっしゃいますね。
今から私は伊藤さゆりといって、山陰地方の出身です。今は神学校二年です。
今から私の生い立ちをお話ししますね。
私の両親は、私が生まれてすぐに、離婚しました。母はいつも働きづめでした。私は生来、無口であまり友達ができませんでした。
中学入学当時から、勉強が苦手ということもあり、不登校になりました。
田舎の公園や街をフラフラ歩いていると、一見やさしいお姉さんに声をかけられました。お姉さんには、家ではとうてい食べられなかった高級なおかずパンや洋菓子をよくご馳走になりました。
まあ、後からわかったことですが、そのお姉さんはいわゆるアウトロー系の人だったんですがね」
僕はそのとき、アウトローについては何の知識もなかった。
ただ、大きな刺青を入れ、刑事ドラマでは目の敵にされ、周りから避けられている集団としか知識はなかった。
「そのお姉さんに言われるがままに、万引きをしました。盗みという罪の意識はありませんでした」
まるで終戦直後だな。終戦で生き残るためには、万引きやスリをしなければ飢え死にしてしまう。
また、少年を「敵方の暴力団の親分の玉(命)をとると、組をもたせ大金を稼げるようにしてやる」という言葉に騙され、利用された挙句の果て、殺されるという少年も少なくなかったそうである。
まあ、終戦直後というのは、予科練など兵隊から戻ってきた人でも乱れていて、スリや万引きをしなければ生きていけない時代だったという。
まさに食っていくためには、仕方がなかった時代だったという。
伊藤さゆりと名乗る神学生はお証を続けた。
「そのお姉さんは、いわゆるスカウト係だったんですね。
私みたいに何の目的意識ももたない未成年に、覚醒剤の売買をさせていたんですね。未成年だったら少年院に一年ほど入院してれば、出て来られるわけですが、そうしたらまた覚醒剤の売買に利用する。これが通常のパターンです」
そうすると、教会の集会に来ていた中年女性から質問の手があがった。
「親しい友人とかは、いなかったんですか?」
さゆり氏は言った。
「一人だけいました。隣の地区の子供食堂のスタッフをしている人で、私はときどき、子供食堂に出入りしていました。
しかし、私はそのスカウト係の女にそそのかされ、その友人から金を奪おうとしてしまったのです。
スカウト係曰く、その子はあなたと本当に友達だと思っているの?
本当の友達かどうかを確かめるために、友達テストをしてみようよ。
そのテストというのは「ああ、肩が痛い。カバンをもってくれないか。
そのカバンに傷がつかなかったら、私があんたに五万円プレゼントする。
しかし、傷がついてたら五万円払ってもらうことになるよ」
私の友達は、なんの疑いもなしに、一分間カバンをもってくれました」
聴衆は、ただ黙って聞いていた。
「そのことをスカウト係に告げると「うん、まあここまでは、友達としては合格。
しかし、本当の友達かどうか試してみない?」
私はその言葉に、まんまと乗ってしまったのです。というのも、私は友達のいない人だったからですから」
その友達から、五万円せしめようよ。そして後から五万円に利子をつけて返してあげればいい。そうしたら、その友達も小遣い稼ぎになるでしょう。
これから私の言う通りの演技をしなさい。さあ、あんたは今から女優だよ。
才能あるかもね」
私はその言葉を信じようとしました。そしてスカウト係の言いなりになって、友達かどうかを確かめるための演技をすることにしました」
聴衆は、まるで舞台を鑑賞するかのように、興味津々に聞いていた。
私はさっそく、元友達に
「カバンもってくれてありがとう。ところで、傷がついてたんだ。だから
五万円払ってくれないか。虫眼鏡で調べると傷がついてたんだよね」
当然、元友達は
「傷なんてついていないよ。というより、一分間カバンをもっただけで、傷が付くわけがないでしょう」
ん、ごもっとも。しかし、私はスカウト係に従い、演技を続けることにした。
私にとっては、危険な演技だったが、友達かどうか確かめるためには必要である。
私はスカウト係の言う通り、いきなり元友達の頬を平手打ちした。
「じゃあ、どうして五万円払うと言ったりしたんだ?」
元友達は当然「私は払うとは言っていない」
私は、深呼吸しながら演技を続けた。
「さゆりは少年院出だ。このことは誰にも言うな。もしこのことがバレたら、お前を待ち伏せしてボコボコにするぞ」
といって、再び元友達を平手打ちしたのだった。
それから十分もたたないうちに、その友人は一連の出来事を子供食堂のスタッフである年長者に話したのだった。
私は年長者に正直に一連の出来事を語ることにした。
「友達かどうかを確かめるために、ゆすりまがいのことをしてはいけないよ。
もうお互い、住んでる世界が違うようだ。これからは近づかないように。
あっ、それと子供食堂は一週間出入り禁止。
二度と、ゆすりまがいのことをしないとここで念書を書きなさい」
念書の中の「著しく迷惑をかけるようなことをした人は、一週間出入り禁止とする」の欄にサインをした。
それから私は子供食堂にめったに参加しなくなった。
スカウト係の女性は、最初からそれが狙いだったのだろう。
ゆすりまがいのことをさせて、罪の意識を植え付けさせ、一般人から引き離そうとし、結局悪の仲間に引き入れようとする。
一般から相手にされなくなると、行きつくところは悪の世界以外にあり得ない。
スカウト係に誘われるままに、私は覚醒剤に手をだすようになっていました。
確かに気持ちいい。嫌なことはすべて忘れられる。
そしてスカウト係の親玉である、暴力団組長とも出入りすることになりました。
そう悪い人ではなかった。ときどき、私にお寿司をご馳走してくれました。
私の母は、パートで働いていましたが、私が覚醒剤に手を出してからというもの、母とも生活を別にすることになりました。
母には、私の住んでいる世界ー覚醒剤や暴力団ーがまったく理解できませんでしたので、どうしたらいいかわからない状態でした。
私と母は、地味で平凡な顔立ちという容姿も似ていましたので、やはり母は、私が非行に走ったのは自分が原因であるなどという考えに捕らわれるようになりました。
しかし、現実にはどうすることもできない。
そんなある日、母はクロスのネックレスをしていましたが、教会の屋根にクロスが掲げてあるのを見て救いのようなものを感じ、教会の牧師に私のことを相談するようになりました。
牧師は、祈ることによって神に委ねなさいと仰ったといいました。
実際、祈るしかほかに方法はなかった。
とうとう私は、医療少年院に入院することになりました。
少年院に入ったときは、正直ほっとしました。
これで覚醒剤とも暴力団とも縁が切れる。
少年院の建物の周りにはりめぐされた高い塀のなかで、世間の悪から守られているような気がしました。
もうこの塀の中にいる限り、誰をも私を誘惑することもなければ、脅迫することもない。ここが私の体験した初めての安全圏でした。
そんなとき、少年院の慰問で、元暴走族で覚醒剤中毒、しかし現在はキリスト教の牧師をしているという男性に出会いました。
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