018

 昨夜は悶々としてあまり眠れず、今日は授業中に何度もあくびを繰り返してしまった。


 そんなこんなで放課後。


 僕は早速バイト先に行くことになったのだけど、小野さんは美術部、醍醐さんは図書委員の用を優先させてから合流する予定だそうで、必然的に烏丸さんと二人きりで下校することになる。


「京坂、私ね、今日は自転車通学なの」


「そうなんだ」


「どうしてだかわかる?」


 駐輪場へと二人並んで歩きながら、僕は首をひねった。


「もぉ、京坂ってば鈍いね。京坂と二人乗りしたいの」


「危ないからやめた方がいいよ」


「京坂が倒れないように後ろで支えてあげるから。ね、いいでしょ?」


 じとーっと、湿度のある眼差しで訴えかけられると、ノーとは言いづらい。


「そういう意味の危ないじゃ、ないんだけどな」


 自転車の二人乗りは道路交通法第五十七条第二項に違反する、れっきとした違法行為だ。


 とはいえ、ここで頑なに拒否して烏丸さんを悲しませるのも気が引けるし。


「まっ、いっか。烏丸さんの自転車はどれ?」


「これだよ。ミーちゃん号っていうの」


「可愛い名前だね」


「そうかな? うちで飼ってる猫の名前からつけたんだよ」


「へぇ」


 烏丸さんの自転車は、黒色でシックなデザインのママチャリだ。僕は受け取った鍵を差し込んで、サドルの高さを調節したあとペダルに足をのせた。


 荷台に横向きに座る烏丸さん。


「ふふっ、男子と二人乗りするなんて初めて。ちょっとわくわくするね」


「はしゃぐのはいいけど、落っこちないように気を付けてね」


「こうすれば大丈夫じゃない?」


 後ろからしなやかな腕が伸びてきて、ぎゅっ、と身体を抱きしめられる。

 むにん、と背中にとても柔らかな感触が伝わってきて、僕は思わず自転車を蛇行させそうになった。


「京坂の背中、あったかい……。これならずっと抱きついていられるかも」


 僕の背中に顔を埋めて、烏丸さんはラムネを舌で溶かすような声を漏らす。


 その清涼感のある甘い声はいつもよりもワントーン低い感じで、ドキっとした。


 二人乗りという青春イベントの真っ最中だというのに、烏丸さんの顔を見れないのが残念でならない。


 そうこうしている間に、目的地に到着した。


 おお……でっかい。伏見区の一等地にそびえる六階建てのマンション。二車線の道路を挟んだ向こう側に、そこそこ駐車場の広いコンビニもある。


 外観は高級感があって、家賃が高そう。


 建物の左側に駐車スペースがあり、自転車を停めた僕は、烏丸さんが降りるのをお手伝いしてからエントランスへと足を向けた。


 エレベーターに乗って五階へ。


「「………………」」

 チン。


 烏丸さんはまるで勝手知ったる自分の家のように、迷うことなく歩を進めている。


 そして、廊下の一番奥にある部屋の前に到着して立ち止まると、ポケットから鍵を取り出してがちゃりと開錠した。


 ドアを開きながら手招きする烏丸さん。僕はおっかなびっくり、玄関に足を踏み入れた。


「おじゃまします」

「はーい。入って入って」


 間取りは3LDK。小野さんの自宅兼作業場とのことだけど、一人暮らしするにはちょっと贅沢な広さだと思う。


「すごいね。漫画家さんの部屋って感じ」


 僕は物珍しそうに周りを眺めながら、そう言った。

 雑然としているけど、本や資料、作品作りに使う機材などがそこら中にあって、三人の創作活動にかける情熱が伝わってくる。


「フフッ、京坂は名探偵になれるね。シャーロック・京坂だ」


「え? ホントに漫画家さんの部屋なの?」


「うん、もともとは司のママンが使ってた作業場なんだけどね、今は私たちが使わせてもらってるんだ」


 ブレザーを脱いでハンガーラックにかけた烏丸さんは、青いネクタイをキュッとブラウスのVゾーンまで上げる。


「小野さんのお母さん?」


「そそ。『ろまん三分の一』とか『猫毘沙』とか描いてる小野まち子先生だよ」


「……へ、へぇ。そうなんだ」


 驚いた。たくさんのヒット作を生み出している有名な漫画家さんだ。親子そろって創作家かぁ。小野さんには偉大な母親のDNAがしっかりと受け継がれているらしい。


「ほら、いつまでもそんなところに立ってないで。こっちおいで」


「あ、うん」


 リビングのソファーに腰掛けた烏丸さんが手招きするので、僕もそれに倣った。

 近い。何が、って距離が。嗅いだことのないシャンプーの香りがふわりと漂ってきて、気持ちがゆるゆるになりそうだ。シトラスチックな甘い香り。


「ね、司と桜子が揃うまで、何してよっか?」 


「あー、えっと。じゃあ、バイトの説明をしてもらってもいいかな?」


「もぉ。それは司と桜子が揃ってからするから、私と何するかって話でしょ?」


 うーむぅ。


「特に思い付かないから、烏丸さんが決めていいよ」


「ふーん……ね、じゃあさ、京坂のことケイって呼んでもいい?」


「え?」


「で、私のことは千景って呼んで」


「今の流れからどうして急に下の名前で呼び合う流れになったの?」


「さあ、どうしてだろうね。これもバイトの一環だから、かな?」


 バイトの一環って。今さっきバイトの説明はしないって言ってたよね。

 しかも疑問形だし、どこまで冗談なのかが読めない。


「つまり私は面接官ってわけ。ま、ケイの採用は決まってるんだけどさ。名前呼びぐらいで戸惑っちゃうようじゃ、この先バイトやっていけないよ?」


「何その無茶ぶり」


「ふふっ」


 烏丸さんはソファーの上に足をあげて体育座りの体勢になり、膝のあたりに頬杖ついて、 なんだか、すごく嬉しそうに微笑んでる。これは期待をしている目だ。


 ドクンドクン。ともすれば不整脈かと疑ってしまうほど、鼓動がさっきから速い。


「一回呼んじゃえば慣れるんじゃない? ち、か、げって。はいリピートアフターミー」


 それができればここまでキョドってないってば。バイトの一環とはいえ、同級生の女の子の下の名前を呼び捨てにするのはすごくドキドキする。


「(これはバイト……これはバイト)……ち、千景。これでいい?」


 なんとか言えた。


「うん、悪くないね」


 ふぅ。これから毎回こんな緊張するのだとしたら、ちゃんと呼び慣れなきゃ身がもたないな……。


「ねえケイ」


「な、なに?」


「ううん、なんでもない。ただ名前を呼びたかっただけ」


 それが一番心臓に悪い。


「ねえケイはさ、どうして俯いてるの?」


「あぁ。それはその……」


 反射的に顔を上げてしまい、眉根を寄せる烏丸さん改め千景と目が合う。


「……僕、女の子と二人きりで話すのって、あんまり慣れてなくてさ。現在進行形で、けっこう……緊張してて」


「かわいすぎるんだけど。何その理由」


「え?」 


「うぅん、なんでもない。実はね、私も緊張してるんだ。好……気になってる男の子とふたりっきりなんて、初めてだからさ」


 千景はマスク越しでもわかるほどほんのり顔を赤らめながら、恥ずかしそうに指で毛先をいじり始める。


「それってどういう」


「そういうのは……訊かないお約束でしょ」


 僕の言葉を遮るように、千景はそっと人差し指をマスク越しに唇に触れさせる。


「ね、ケイ。お互いに緊張をほぐすためにさ、私と一緒に練習してみない?」


「練習? なんの?」


「んーっと、ハグとか、かな?」


「それはちょっと、ハードルが高すぎる気が……」


「一回したでしょ? あの時は司も桜子も一緒だったけど」


「……あれはほら、みんなを安心させるためっていうか、そういうやむにやまれぬ事情があってのことっていうか」


「うん。だからもう一度、安心させてよ。緊張してる私をぎゅーってしてさ」


 千景の瞳には好奇心と期待の色が見え隠れしている。


 光の中に闇を宿しているというか、意外とやんちゃな性格が垣間見えていた。


 二面性……というか。この誘いに乗っていいものか、僕は迷ってしまったけれど、ブレーキをかけても無駄そうだというのはなんとなくわかったので覚悟を決める。


「よ、よろしくお願いいたします」


「はい、お願いされました。てか、ケイの方が緊張しちゃってない?」


「そりゃそうだよ。千景もなんか、いつもとキャラ違うし」


「んー……それについては、私もちょっとびっくりしてるかな。好きな人のまえではけっこうガサツな女になっちゃうんだなーっ、て」


「え、なんて?」


「ん? あー、ごめん、なんでもない……今の忘れて」


 慌てた様子でパタパタと顔の前で手を振る千景。

 忘れるも何も、小声だったからよく聞こえなかったんだけど。


「じゃ、するよ。はい、ぎゅー」


 ベストポジションを探すように、千景は首をあちこちに向けながら、僕に身体を近づけてくる。


 あくまでソフトタッチの軽いハグなのだけど、お互いの上半身が密着し、僕の胸板に押し付けられた柔らかな膨らみがむにんとブラウス越しに形を変えた。


 ドッドッドッドッド……。

 自分の心臓がかつてないスピードで脈打っているのがわかる。 


「柔軟剤の……香りがする。ケイの匂い」


「そ、そんなに匂う?」


「ケイ……ケイ……けぇ……」


 うわ言のように僕の名前を繰り返し呼びながら、僕の肩にすりすりと鼻筋をこすりつけてくる千景。


 ドッドッドッドッドッドッ……。血流がとんでもない速度で体内を循環しているせいか、頭がクラクラしてきたし、身体もどんどん熱を帯びてきてる気がする。


 これ以上はダメだ。活動限界に達しかけている脳が、そう判断を下す。


「ち、千景? そろそろ離れて……欲しいんだけど?」


「じゃあ、キスしてくれたら離れてあげる」


「きすぅ? って、キス!?」


「うそうそ、じょーだんだって。……でも、それっぽいことをするからさ、ケイもちゃんと空気読んで、ね?」


 そう呟いた千景の耳たぶは、ファジーなピンク色に染まっていた。

 ……な、なにかくる。僕のサイドエフェクトがそう言っている。


「す、ストップ、たんま! いったん冷静になろ?」


「私は、いたって冷静だけど?」


「いやいやいやいや! それっぽいことっていうのがなんなのか僕にはさっぱりだけど、その練習相手が僕っていうのは多分、絶対、間違ってるよ!」


 動揺して早口になりながらも、なんとか説得を試みる。


「んー、むしろケイしか考えられない、かな」


「……またまた」


「だって、私……男友達ケイしかいないし、彼氏とかもできたことないから。他に練習相手なんて、いないもん」


「彼氏ができたことが、な い?」


「あ、そこ繰り返すところじゃないから」


「はい」


 僕は即座に口を噤む。


 千景が三桁レベルの告白をぜんぶ断ってるって噂は、僕も耳にしたことがある。


 でもまさか、彼氏いない歴=年齢だとは想像もしてなかったというか。


 将来スパダリになりそうなイケメン男子と付き合ってそう、っていう勝手なイメージがあったけど、そうじゃなかったらしい。


 僕が言えたことじゃないけど、小中高と進学する過程で恋愛経験なしっていうのは、けっこう珍しい部類に入るんじゃなかろうか。僕が言えたことじゃないけど。


「その、えと。今後そういう予定とかは?」


「べつに。……そういう予定はないかな。予定は、ね。でも予約をしておきたい相手はいるよ?」


「じゃあその人に頼めばい――あいひゃたたたっ」


 ほっぺたをむにーと引っ張られる。


「私が予約しておきたい相手、知りたい?」


「あーいや……それはなんというか」


「知りたい?」


「えと……千景の胸にしまっておいた方が、いいんじゃないかな。なんて……」


「答えになってないから」


 千景の双眸から光がふっと消える。線の細い指が、僕の両頬をガシッと包み込む。


「言葉って難しいよねー……伝えたいことがうまく伝わらないし、だから、こうするね」


「え、あ」


 千景の顔がゆっくりと近づいてきて、僕の視界を埋め尽くす。


 ドグンッ! と、心臓が悲鳴をあげる寸前だった。もう少し近づけば、マスク越しに唇と唇が触れ合ってしまう……というくらい距離になったその刹那。


 ガチャリ。


「じゅ、じゅうべえキャパはめ波……」

「落ち着いて司。まだ未遂の模様……」


 ゴトッ。ふぁさ。

 僕は影すら溶かしそうなくらい熱を帯びた顔を、くるりを振り向かせる。そこには買い物袋をその場に落としてカチコチとフリーズする、小野さんと醍醐さんの姿があった。


「その『まだ』っていうフレーズが生々しくね……? わざわざコンビニのトイレでアタシ史上稀なレベルでばっちりメイクキメてきたのに何この展開、マジぴえん」


「トイレが長かったのはそういう理由? 待たされたわたしのことも考えてほしい」


 まずいですね、この状況。


「チ~カ~ゲぇ~?」


「ち、ちがうってば。これはその、ちょっと練習をね」


「な・ん・の?」


 小野さんは僕たちを見つめながらジト目になる。


 千景はばつが悪そうに頰を搔きながら、ソファーの端までゆっくりと後ずさった。


 そして僕はと言うと、動揺して目を泳がせるしかないわけでして。


「京坂くん」


「は、はいっ!」


「釈明の余地はない。問題は京坂くんか千景どちらから先に手を出したのか。それだけ」


「どっちも……まだなにもしてないよ?」


「『まだ』? つまりこれから何かするつもりはあったワケ?」


「は、ハグの練習……をしてたんだ。僕がその、女の子に慣れてないから……千景が練習に付き合ってくれてたんだよね?」


「それだとニュアンスが、ちょっと違うかな。……私から強引に迫ったんだよ。ケイは優しいから断りきれなかっただけ」


 そう千景がフォローしてくれる。


 対して小野さんと醍醐さんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。


「さ、桜子やい。千景とおけいはんが下の名前で呼びあってる気がするんですケド?」


「一歩前進。悔しいけど、ナイス千景」


 なぜそこでサムズアップをするのか、醍醐さん。


 僕は僕で、この状況をどう説明したものかと考えあぐねていると……


「とりま、ふたりとも離れた離れた。おけいはんにバイトの内容セツメーするから」


 と小野さんが、あっさり不問に付してくれた。


 但し配置は、ソファーの真ん中に僕、右隣に小野さんが座り、左隣に醍醐さん、対面する形で千景が正座をするという形に。


 やや気まずい雰囲気の中、僕は改めてバイトの説明を受けたのだった。

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