第10話 図書室で
先日の昼休みの一件から、僕は小野さんのことをつーちゃんとあだ名で呼ぶようになった。
たったそれだけのことなのに……いや、『たったそれだけのことだから』なのか、烏丸さんと醍醐さんは、僕とつーちゃんの距離が縮まったと感じているらしい。
二人から発せられる圧が、日に日に強くなっている。
五月も半ばを過ぎ、いよいよ六月が迫ってきた。
梅雨入りは、もう目前だ。雨は降ってないけれど、今日もどんよりとした曇り空が広がっている。
じめじめとした放課後。僕は醍醐さんに呼ばれて、図書室へ来ていた。
なんでも本を整理するから手伝って欲しいとのことで、醍醐さんと二人きりだ。
グラウンドで部活動にいそしむ生徒たちのかけ声や、上階の吹奏楽部の演奏が聴こえてくる。
僕はブックトラックに所狭しと並べられた返却本を棚に戻しながら、図書室独特の風情を感じていた。
周りの音がよく聴こえるということは、それだけこの空間が静謐ということだ。
(平和だなぁ)
「あ、それKの棚の37番目だよ」
「う、うん。ごめん、ちょっとボーっとしてた」
いけない、いけない。
せっかく醍醐さんとのお手伝いをしてるんだから、ちゃんと集中しないと。
僕は黙々と作業をしていく。
図書委員って一人だけじゃないと思うけど、他の人たちはどうしたんだろう。醍醐さん一人にこれだけの作業を任せるなんて、ちょっと冷たい気がする。
「ありがとね京坂君。おかげですごく早く終われそう」
静かな図書室に、醍醐さんの声が響く。
「いえいえ。醍醐さんの役に立てたなら嬉しいよ」
「これもバイト代につけとく」
「そ、それはちょっと。悪いし」
「司には許可取ってあるから大丈夫」
それはまた、なんとも断りづらい。
時給が発生してると思うと、仕事にも身が入るし、醍醐さんの負担を少しでも減らせるなら、まさに一石三鳥だ。
本を並べながら、僕はふと横眼で醍醐さんを睥睨した。
醍醐さんの髪は、前よりも少しだけ伸びているように見える。ソメイヨシノ色のメッシュが入った、ボブカット。若干、本当に僅かだけど……毛先のふんわり感と立体感が向上している気がする。
そして、視線を下げるまでもなく、校内一豊かな胸が視界に映り込むわけで。
それだけのものをお持ちになりながら、くびれがきゅっと引き締まっていて、まるで精巧な造りの女神像のようだ。
自身の容姿に無頓着なのか、はたまた自信があるのか、醍醐さんは髪をいじったりしない。烏丸さんやつーちゃんはしょっちゅう髪を触ってるけど、醍醐さんが髪を気にする素振りを、僕はまだ一度たりとも見たことがない。
三人の中で一番謎めいているのは、間違いなく醍醐さんだ。
烏丸さんは普段からマスクを着けているのでミステリアスな雰囲気を醸しているけど、それとはまた違った、ベールに包まれた深窓の令嬢のような……掴みどころのなさ。
この機会にもう一歩、醍醐さんと距離を縮められたなぁと思う。
やることをやっといて今さら感はあるけれど、それでも僕は醍醐さんのことをもっと知りたい。
「あとは醍醐さんの分だけだね。僕が全部やるから休んでていいよ」
僕は脚立に乗って、本棚の冗談を整理する。
本の背表紙にはラベルがあり、アルファベットと数字が記載されているので、ラベルの通りに並べれば、迷うことはない。
「そこわたしじゃ届かないから助かる」
「お役に立てて何よりです」
少しおどけた語調で、僕は言った。
返却本を全て定位置に戻し、脚立から降りる。
「おつかれさま京坂君」
「醍醐さんこそ」
「さくらでいいよ。両親はそう呼ぶ。わたしは京けい君って呼ぶね。いい?」
「も、もちろん。じゃあ、僕もさくらって呼ぶね」
心臓がバクバクする。
同世代の女の子に下の名前で呼ばれるなんて初めてだ。
つーちゃんの『おけいはん』はカウントしない。あだ名だし。
僕がさくらと下の名前で呼ぶと、彼女は少し照れ臭そうにはにかんだ。
ホントに、よく目を凝らさないとわからないくらいの、小さな変化だったけれど。
図書室での作業を終えると、さくらは一冊の本を僕に手渡してきた。
年季の入ったハードカバーの本だ。
賞を取ってる作品だから、僕も名前だけは知っている。
「余った時間は、それを京君と一緒に読みたい。いい?」
断る理由なんてない。
僕は一番近くの椅子にかけて、さくらから受け取った本を開いた。
*
(うわ……)
中身は恋愛小説だった。
しかも、官能的な表現が多い作品だ。
「不思議だよね。日本の大きな小説賞に輝く作品って、けっこうどろどろとした恋愛ものが多いんだ。エロを否定する人は多いけど、文学ならあり、みたいな。曖昧な境界線が引かれてることにわたしは納得がいかない。直接的な表現を使用すればアダルトで、独特な表現方法を用いれば大人が読む本になるなんて、おかしい。そういうのってさ、ただ言葉を濁してるだけで形は同じだとわたしは思う」
さくらは活字の海をじっと見つめながら、滔々と語り続ける。
間近に美少女の顔があるから、僕は落ち着かなかった。
シャンプーの香りが、鼻をくすぐる。
石鹸の匂いと、砂糖を煮詰めたような甘ったるい匂いが入り混じっていて、女の子特有の甘くて柔らかな香りに、僕は心臓の鼓動が速くなっていくのを本能的に感じ取った。
肩が触れあうほど近くに座っているから、意識しないよう努めていても、さくらの体温が直に伝わってくる。
「光源氏だって、今で言えばロ○コンだし、浮気だってする。源氏物語は性愛をもろに描写した作品だよね。でもそこがおもしろい。まあ、何が言いたいかっていうと、わたしも司も千景も、文学とか芸術とか芸能を愛してるし、ただただエロコンテンツを制作してるわけじゃないってこと。京君にはそれを理解して欲しい」
さくらは活字の海から視線を上げて、僕を見つめた。
その小さく可憐な顔には、真剣さを帯びた瞳が添えられている。どこまでもまっすぐで、直視するのがためらわれるほどに強い眼差しだった。
「理解できてるかどうかはわからないけど……さくらもつーちゃんも烏丸さんも、自分たちの作品に対してすごく真摯に向き合ってるんだなってことだけはわかるよ」
「ありがとう。こういう活動を否定する人って多いから京君にだけは理解して欲しかったんだ」
「そっか」
「そう」
さくらは頷くと、カーディガンの内側に隠れたネクタイをしゅるりと外した。
そして、ブラウスのボタンをひとつ、ふたつと開けていく。
「な、なにしてるの?」
「それはまだ説明できないけど、京君にはわたしが今からすることも理解して欲しい。物語を書くうえで実体験に勝るものはないから、わたしはこの経験を物語に生かす。なにか感じることがあったら言って」
さくらはブラウスのボタンをさらに開けて、胸の谷間まで見せてきた。
深い深い渓谷に釘付けになる。
「ちょ、ちょっと待って。本当になにしてるの?」
「わたしには男の子の感情がわからないから、妄想で補足するには限界がある。だから、誘惑することで京君がどういう反応をするのかを知りたい」
「ぼ、僕が反応するとどうなるの?」
「もっと刺激的なシナリオが書ける」
「……きょ、協力はしたいけど。さくらがシたくなったとか、じゃないよね?」
「否定はしない。わたしは司と違ってムッツリじゃないし」
つまりさくらは読書をしてる最中にムラムラした、ということだろうか。
「でもシナリオに活かせる……ってのも嘘じゃない」
饒舌な語り口が、必死に女の子を口説き落とそうとするナンパ男みたいで、なんだかあべこべな気がした。そこらへんはつーちゃんとよく似てる。
目の前にいるのは間違いなく美少女で、学校イチ大きな胸を持ってるナイスバディな女神サマなのに、どうしてこうも僕の方が迫られる立場なんだろう。
僕が男らしくないから、なのかなぁ。
女の子にここまでさせておいて、逃げるのは男がすたる気がする。
つーちゃんならいざ知らず、普段から口数が少ないさくらにここまでさせておいて、ただ断るのはすごく無粋だ。
僕は意を決して本を閉じると、椅子に深く座り直した。
「誘惑されたら僕は、さくらに手を出しちゃうと思う」
「いい。もう何度もしてるから今さら遠慮はいらない」
「なら遠慮はしないよ」
僕がそう宣告すると、さくらはそっと僕の手に自分の手を重ね、砲弾サイズのメロンへと誘ってきた。
ぐにゃりと形を変えるソレは、かつて経験したことのない肉感と弾力を有していた。
(う……わ)
指が沈む。
指先に力を込めるだけで、どこまでも沈んでいきそうだ。
思わず乱暴に揉みしだきたくなる衝動をなんとか抑え込む。
「続きは司の家の方がいいと思う。ただ、この先……学校で我慢できなくなったら、わたしは今日みたいに京君を誘惑する」
そう吐露するさくらの心臓が激しく脈打っていることに、僕は得体の知れない陶酔感をおぼえた。
「ここが、わたしの心臓の音が届く位置。司や千景と違って、わたしのおっぱいはおっきいから。覚えておいてね」
「わかった……」
「どくん、どくんって、脈打ってるのわかる?」
わかる。大きくて重くて柔らかな感触の向こう側に、小さな鼓動を感じる。
「わかるよ……さくらの心臓の音、どんどん速くなってる」
「興奮もする。だって、四人でシてる時はわたし一番相手にされてないから」
「え?」
「京君は無意識に、千景と司にだけ気を配ってる。いまは司かな。それって、わたしは司と千景の二の次ってことでしょ?」
僕は手のひらいっぱいに水風船のような柔らかさを味わいながら、なんとか思考を回転させる。
そんなつもりはなかったんだけど……
「わたしにしかできないことだっていっぱいある。特に司じゃ絶対にできないこと。今日はわたしに一番甘えて欲しい」
「……さくら。ごめんね。まだ遅くないなら、さくらの気持ちに応えたい」
僕なんかでよければ、さくらの望みを叶えてあげたい。
「京君。キスして」
「うん」
僕は、さくらの唇に自分のそれを重ねた。
*
そのあと、勢い余って最後までしてしまった。
学校の図書室で。しかも後ろから、だ。
いくらさくらの要望とはいえ、獣か僕は。
でも、それでも……さくらが喜んでくれるなら、僕は悪魔にでもケダモノにでもなろう。と、そう決意を新たにした。
ほどなくして僕とさくらは図書室を後にし、シューズロッカーで靴を履き替え、昇降口から外に出た。
空は、すっかり茜色に染まっている。つーちゃんと烏丸さんは僕らが降りてくるのを待っていたようで、校門のところで合流できた。
さくらが僕の腕を抱くようにして、身体を密着させてきた。
「え……やった? おけいはんと桜子、やってたん?」
「けっこう時間がかかってたよね。本を整頓するだけって聞いてたから、待ってたんだけど?」
「先に帰ってって言ったはず。京君を責めるのはお門違い」
さくらはつーちゃんと烏丸さんを交互に見つめながら、僕を庇い立てるようにそう言った。
「けい……くん?」
烏丸さんの声は、震えていた。
つーちゃんも烏丸さんと同じように神妙な顔付きになる。普段明るい二人だからこそ、静かに感情を露わにするその様は、千言万語を費やしても表現し得ない迫力だった。
二人の目に映るのは僕だ。
特に、烏丸さんの眼力から放たれる圧はさらに研ぎ澄まされていて、とんでもない凄みがある。
「京坂」
「はい」
「おけいはん」
「司は黙ってて」
「はい……はい」
「桜子のことはなんて呼び始めたの?」
「え、あ」
突拍子もない質問に、僕は言葉を詰まらせる。
「その……さくら、って」
「うん、わかった。私だけ出遅れたってことだよね。……とりあえず、ラインで用件だけ送っておいたから確認しといて」
ラインを確認すると、烏丸さんからメッセージが届いていた。
『明日の体育の時間。体育館裏にきて』
短い文面だけど、内容はシンプルだ。
僕は了解とスタンプを送っておいた。
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