第8話 長い夢から覚めて

「……お、落ち着こう烏丸さん」


「落ちついてるけど?」


「いや、なんかその、雰囲気がおかしいっていうか」


 烏丸さんは僕の腹部に体重を預けたまま、線の細い指でマスクを外して、ゆっくりと顔を近づけてきた。


(ま……まさか本当にキスするつもりじゃ!?)


 と思ったら耳元まで顔を寄せてくる。


「んー多分ね、遅かれ早かれ、こうなっていたと思うよ。私たち」


(どういうこと!?)


 ぞわっとする。色っぽいウィスパーボイスが僕の耳をダイレクトに刺激する。


「京坂の方がそれを聞くのはズルいよ。男の子が女の子をリードしないと」


 イタズラっぽい笑みを浮かべた烏丸さんは、ロングストレートの黒髪をふわりと揺らした。


「え……いや、でも」


 僕は鳩が豆鉄砲を食らったように、狼狽える。翼がないので逃げ出すことは叶わないが。

 そんな僕の様子を、烏丸さんは愉快そうに眺めている。


 マスクを外した彼女の相貌は、あまりにも綺麗で、そして蠱惑的だった。こんな見目麗しい女の子とキスなんてしたら、僕はきっと二度と普通の男子に戻れなくなる。そんな気がする。


「京坂はウブだね……じゃあ私がリードしてあげる」


「ま、待って烏丸さん」


「待ったら京坂がリードしてくれるの?」


 熱い吐息が耳の奥まで届き、ゾクリとした快感が脳髄まで駆けのぼってくる。頭の中がどろどろのぐちゅぐちゅになって、目や鼻といった顔のパーツがすべて溶け落ちてしまいそうだ。


「京坂、聞いてる?」


「……は……はい」


(僕はなんで敬語になってるんだ?)


 烏丸さんの細くて長い指が、僕の頬から首筋までを煽情的に撫で回す。

 どくん、どっくん……! ともすれば不整脈になるんじゃないかと思うぐらい、心臓の鼓動が激しい。


(……っ!)


 だ、ダメだ。

 このままイニシアチブを握られっぱなしじゃ、まずい気が。


「あ、あの……小野さんと醍醐さんもいつ帰ってくるかわからないし、早く離れた方がいいと思う」


 僕がやっとの思いで至極冷静なセリフを紡ぐと、烏丸さんがぷっと小さく吹き出した。


「いつ帰ってくるかわからないから、こうしてアピールしてるんでしょ。二人がいないうちに、こっそりキスしとこうと思ったんだけど」


「へあ?」


「私、魅力ないかな?」


「いや、そんなことは……むしろ魅力がありすぎるぐらいだし、ドキドキするし、でも、えっと……こういうことはよくないというか」


「私は京坂としたいよ。キスだけじゃなくて――その先も」


「本気、なの……?」


 こくり、と頷く烏丸さん。

 つまりジョークではないということ。


 さっきから女の子特有の甘い匂いがして、頭がポワポワする。快楽の渦潮に飲み込まれて、そのまま溺れてしまいそうになる。


 一度沈んでしまうと、二度と浮上できない深海に沈んでいくような、そんな感覚。


 このまま溺れてしまいたい、と。

 キャパオーバーの脳はとっくにそう判断を下しているけど、最後の理性がなんとか僕の正気を保たせている。


「京坂は何も悪くないよ。でもさ、時給が発生するバイトだし、私のわがままも聞いてくれるよね?」


(じ、……?)


 僕はその言葉を反芻して、自分が何をしにきたのか思い出した。

 そしてそれと同時に、僕の行動を縛り付けていた『心の待った』の鎖が、音を立てて一つ、また一つと外れていくのがわかった。


 そう。これは

 時給が発生している以上、バイト代をもらうためにも、僕は烏丸さんの要求に応えなければいけない。


「こんなこと京坂にしか頼めないから。私のファーストキス貰ってくれたら、なんでもひとつだけ言うこと聞いてあげる。京坂は、私に何かして欲しいことある?」


 お金をもらって、烏丸さんのファーストキスをもらって、そのうえなんでもひとつだけ言うことを聞いてもらえる。色々とあべこべすぎて、頭がおかしくなりそうだ。


「ぎゃ、逆に……僕に何かして欲しいことある?」


「え、いいよ。そんなの。京坂に悪いし……」


「じゃ、じゃあ僕も、烏丸さんに何かして欲しいとかは求めない。そういうのは違うと思うから」


「じゃあ……キスもダメ?」


「どうして僕なの?」


 つい思ったことを、口に出してしまった。


「私から仕掛けてるのに襲ってこないところとか、京坂のそういうところ、好きだな。そういう男の子ってなかなかいないと思うし、私には、京坂が誰よりも特別に見える……」


 烏丸さんは頬を赤らめながら相好を崩すと、上気した顔で僕の目をじーっと覗き込んでくる。


 うぅ。僕はただ臆病なだけなんだ。

 襲う襲わない以前に男として大事なものが欠けてて、そういう勇気が持てない。


 でも一度箍が外れてしまったら――


「ぼ、僕だって男だ。しちゃったら、きっと烏丸さんのことが気になって仕方ないと思う」


「……ふぅん。じゃあ、してみよ。本当かどうか確かめてあげる」


「え、あ」


 ちゅ……という、柔らかな感触に、僕は頭が真っ白になった。


 何か特別なことが起きてるわけじゃない。

 ただ唇と唇が触れ合っただけだ。


 そんな些細な行為なのに、どうしてこんなにも頭の中が幸せで満たされていくのだろうか。


 大気圏を突破し、宇宙空間を漂っているような。ロケットなんか乗ったことないけど、きっとこんな感じだと思う。


「ん……ぅ――」


 烏丸さんは僕の胸板に柔らかな二つの実を押しあてながら、さらに唇を重ねてきた。


 ……十秒ぐらい、唇を重ねていただろうか?

 艶めいた一級品の唇が、僕の唇からゆっくりと離れていく。


「……うん。これはあれだ。私の方が気になって仕方ないかも」


「……僕もなんだかおかしくなりそう」


 堕ちる。

 とはよく言ったもので、僕も烏丸さんも、もう引き返せないところまできてしまっている気がする。


「私が下でもいい……?」


「あ、うん……いいよ」


 何がいいんだろ?

 二人してごそごそと定位置を入れ替え、お次は僕が烏丸さんに跨る形になった。

 なんだろ、上から見下ろすだけで征服感がこみあがってくる。烏丸さんの蕩け切った顔が、僕の中の男の部分を刺激する。


 じ、自分がSかMかなんて考えたこともなかったけど、僕にはサディスティックな一面もあるのかもしれない。


 知らないことが多すぎて、知ることが怖くて、それでも前に進んでみたくて。

 こんな風に新しい世界へとつながる扉を前にすると、いつも何かしらの恐怖心をおぼえてしまうのが僕の弱いところでもある。

 

「暑いね京坂」


「う、うん」


「ボタン外して」


 烏丸さんが、僕にそう命じてくる。

 これからする行為がどういうものなのかは、さすがの僕でもわかる。


 現実味を帯びない局面に、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。


 ブラウスのボタンを一つずつ外していく。四つ目まで外すと黒いブラジャーに包まれた白い渓谷が一望できた。肩で息をする烏丸さんの動きに合わせて、ふるふるとプリンのように揺れている。


「まだ暑いなー……もうひとつ、ボタン外して?」


「……さ、流石にこれ以上は」


 感情が二歩も三歩も先行していたが、ここに来て理性が追い付き警鐘を鳴らし始める。


「ダメ?」


 烏丸さんの瞳の奥にある深淵に吸い込まれそうになる。


「いいからして。責任は私が……私が取るから」


「ま、待って……それ。女の子に絶対言わせちゃダメな、セリフだよね?」


「ふふっ、わかってるなら、外して。京坂がして」


 それはまるで呪文のようだった。

 僕の理性を根こそぎ奪っていくような、そんな魅惑的な言霊。


 メインヒロインが繰り出したチャームの魔法に、モブの魔法抵抗が通用するわけもなく。


「わ、わかった」


 僕が意を決して、最後のボタンに手をかけた――その時。


 ドゴッ。ふぁさ。

 缶のようなものが落ちる音と、ポリエチレン袋の擦れる音。


「おーいおい」


「抜けがけされたね。わたしだけでも残れば、よかったかな」


 僕は影すら溶かしそうな顔を声のした方へと向ける。

 そこにはコンビニ袋を抱えた小野さんと醍醐さんの姿があった。


「千景~?」


「あは、ごめん司、桜子。つい、ね」


 烏丸さんは僕の身体に両足を回したまま、小野さんと醍醐さんに向かって挑発的に微笑んだ。


「おけいはんも、そろそろ離れよっか」


 小野さんが優しい口調でそう諭してくる。その目はマジだ。笑ってない。

 醍醐さんはというと、鉄仮面のような無表情でレンズ越しに僕をじーっと観察している。


(お……怒ってる、よね)


 僕と烏丸さんはそそくさと距離を取り、ソファーに座り直した。

 すると、小野さんと醍醐さんが僕たちを挟む形でどんっとソファーに腰を下ろした。


「はいはい、事情聴取のお時間がやってまいりました」


「やってまいりました」


「「……」」


 なんだか、刑事ドラマの取り調べみたいだ。

 でも、これは僕が自分で招いた結果だし、言い逃れはできない。


 それに僕がしっかりしなきゃ、三人の関係に亀裂を生じさせてしまう可能性だってあるわけで。


「ごめん。悪いのは全部僕なんだ。僕が烏丸さんにキスをしたいってお願いして、烏丸さんがそれに応えてくれたんだ」


「きょ、京坂?」


 烏丸さんが驚いた表情で、僕を見た。


 うん。やっぱり、男として僕が責任をとらなきゃいけないよね。

 女の子にここまでさせたんだから。


「てことは、おけいはんから千景に手を出したってこと?」


「うん」


「ホントに? 嘘ついてない?」


「うん」


 小野さんが僕と烏丸さんを交互に見つめて、ふぅ、と息を吐いた。


「ここ、私の家だし」


「うん。ごめん」


「初日からこれじゃ、バイトの話もなくなるかもね」


「うん。わかってる。だから烏丸さんは責めないであげてほしい」


「……桜子はどう思う?」


「司は権利を放棄しようとしてる。わたしと千景で京坂君を養うから、司は手を引いてもいいよ」


「ちょ、ちょちょちょ、なんで私が責められる流れになってるの?」


 小野さんは、あわわと両手を上下させた。


「桜子、ナイスアイディアだね」


「千景もよくやったと思う。でも京坂君に罪をなすりつけるのはよくない」


「あはは――……ごめんごめん。京坂に甘えちゃった」


「ね、おけいはん」


「な、なに?」


 小野さんは、こそこそと僕に耳打ちする。


「ポーズだかんね。一応、怒っておかないと千景がまた暴走しそうだし」


「……あ、えと。うん」


 小野さんと醍醐さんは、烏丸さんの性格をよく知っているようだ。

 僕が庇うまでもなく、三人の絆は固く結ばれている。友達の少ない僕にとって、それはとても新鮮で、また、ちょっぴり羨ましい関係性だと思えた。


「でも、二人だけでするのはズルい。私も、おけいはんとイチャイチャしたい」


 小野さんがハリセンボンのように頬をぷくりと膨らませて、拗ねた感じでそう呟く。


「わたしも」


「ファーストキスは私がもらったけどね」


「は? マジ、えっ? おけいはん、マジ?」


「あ、うん……」


「じゃあ司が初めてをもらえばいい。わたしは全部最後でいいから」


「へ!?」


 は、はは、は、初めて? 

 話の流れが速すぎて、ついていけない。


 B級映画並みに展開がぶっ飛んでいる。

 僕は三人の会話に圧倒されて、終始黙りこくるしかなかった。


「あ、あのさ……そういうことはゆっくり、時間をかけて」


「おけいはんは黙ってて」


「どんまい……京坂」


「京坂君は前科一だからね。発言権が皆無」


 確かに、前科持ちと言われても反論はできないかもしれない。僕は烏丸さんとキスしてしまったわけだし、もうそれは取り返しのつかない事実なわけで。


 僕もそれを望んでしまった以上、何も言い訳できないし、するつもりもない。


 こうして僕は成り行きなのかなし崩し的なのか、学校で一番かわいい三人の美少女たちと身体の関係を持ってしまうのだった。


 *


 長い夢を、見ていたような気がする。

 僕は『校内三大美女』にとことん甘やかされていた。


 小野さんちの寝室にあるキングサイズのローベッドは、四人で寝てもまだまだスペースに余裕がある。


(ホントに夢みたいだ……)


 勿論、クラスのみんなはこのことを知らない。

 僕と校内三大美女だけが共有している、特別な『秘密』だ。


「ごめん、みんな。寝ちゃった分は……バイト代から引いといて」


「んー……気持ちよかったし、逆にボーナスをあげたいぐらいだけどね」


「いいじゃん。ボーナス。だそうだそう」


「賛成」


 制服も下着も脱ぎ捨てた一糸まとわぬ姿の三人と抱き合っていると、やはりこれは夢なんじゃないかと思ってしまう。


 でも、夢ならどうか覚めないでほしい。


 一ヶ月以上この関係を続けながらも、僕はまだ微睡まどろみの中にいるような、そんな不思議な感覚に溺れていた――。

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