第30話 ジュリアン
ノベックさんは私たちを家の前で降ろすと急いで帰っていきました。
久しぶりに帰った実家は、呆気ないほど小さくて古びています。
「ねえジュリアン、家ってこんな感じだった?」
「そうだよ? 姉さんはエルランド伯爵家に慣れちゃったんだろう。没落寸前までいってたんだもん。こんなもんだよ。さあ姉さん、お手をどうぞ」
「まあ、恐れ入りますわ、オースティン伯爵様」
去年爵位を継承したジュリアンは私をエスコートして玄関を開けました。
「お帰りなさいませ」
懐かしい顔が並んでいます。
ああ、男の子を産んだあの女性もいますね。
元気そうで何よりです。
「ただいま。みんなに会えて嬉しいわ」
「俺はまた出掛けなきゃいけないから。姉さん疲れただろう? 部屋はそのままだからゆっくり眠るといいよ。明日は仕事も休みだから俺もゆっくりできるし」
ジュリアンはそのまま忙しなく出掛けて行きました。
もう成人ですし、働いているのですから夜遊びするのも仕方がないとは思います。
でもできればクモノスのようなお店には、行ってほしくないと思ってしまう姉心です。
ああ、クモノスというのはアリジゴクの後にできた男性専用クラブのことです。
居抜き購入してくれたお礼に私が命名して差し上げました。
大人気らしく、すでに複数店舗を展開しているとか。
アリジゴクで借金を作ってしまったご令嬢方がクモノスで働いているそうです。
因果は廻る水車のごとく?
「疲れたからお風呂に入ったらもう寝るから、あなたたちも休んでね。戸締りと火の用心はよろしく」
使用人たちにそう言うと、私は懐かしい自室に向かいました。
私にとってこの部屋は、心の闇をさらけ出せる唯一の場所であり、これで良いのだと自分に言い聞かせていた場所です。
両親はともかく、弟にだけは絶対に泣き顔を見せたくないと、歯を食いしばっていた私を優しく包んでくれたのも、この部屋の闇でした。
「ただいま」
そういえば裁縫箱以外は何も持ち帰っていません。
心配しながらクローゼットを開けると、きれいに洗濯された懐かしい寝間着が置いてありました。
さっさと着替えてお風呂に向かい、久しぶりに狭い浴槽に浸かります。
エルランド伯爵家のタウンハウスに行ったばかりの頃は、お風呂の大きさに一人ではしゃいだものですが、いつの間にそれを普通と思うようになったのでしょうか。
ずっと使ってきたこの浴槽がこれほど狭く感じるとは。
気づかないうちに驕っていたのかもしれません。
「初心に帰らなくちゃ! また貧乏暮らしになるのだものね」
私はそう声に出して自分を励ましました。
そうでもしないと声を上げて泣いてしまいそうだったからです。
もしかしたらジュリアンはそのことを予想して、出掛けてくれたのかもしれません。
どこに行くにも後をちょこちょこ付いてきて、私が登校する時間になると泣いて制服のスカートを握っていた弟が……時の流れを痛いほど感じます。
「さあ、寝ようっと」
自分の行動をいちいち口に出している自分に気づき、ああ1人なんだなぁと思います。
かび臭いことを覚悟しながら入ったベッドは、おひさまの匂いがして思わず顔を押し付けちゃいました。
前から準備してくれていたのでしょうね。
ジュリアン、ありがとう。
「う~~~~~ん」
起き抜けに伸びをするといつもと違う景色に少し戸惑いました。
「ああ、家出したんだっけ」
「姉さん、おはよう」
ジュリアンが古びた小さなソファーに座っていました。
「おはよう。いつからいたの?」
「う~ん? 昨日の夜中からずっとかな?」
「そこで寝たの?」
「寝たような寝てないような」
「寝なさい」
「はいはい。朝ごはん一緒に食べようよ」
「うん。準備したらすぐ行くね」
「ああ、姉さんがいつも使ってたワンピースを何着か持ってきた。クローゼットに入ってるよ」
「まあ! ありがたいわ。取りに行ってくれたの?」
「うん、後でゆっくり話すよ。早く来てね」
私たちは顔を見合わせて笑いました。
なんというか時間が巻き戻ったような気がします。
でも、目の前に座るジュリアンはもう大人で。
不思議な感覚です。
ランディさんがいつも作ってくれていた、みんなと一緒に食べていた朝食より各段質素な朝ごはんに少しホッとした私は、根っからの貧乏性なのでしょう。
紅茶を一口飲んで口を開きました。
「それで? 後でゆっくり話すって言ってたけど」
「ああ、昨日の話だよ。あれから俺はエルランド邸に戻ったんだ。みんなが心配だったし」
「戻ったの? それにみんなが心配って? 私が応接室にいる間に何かあったの?」
「いや、大したことじゃない。義兄さん以外はこうなるだろうって思ってたからさ」
「ごめん、さっぱりわからない」
「順を追って話すね。まずは全てが片付いて日常が戻ったら、姉さんはあの家を出るだろうってみんな思ってたんだ。もちろん出て行って欲しいわけじゃなくて、姉さんの性格ならそういう選択をするだろうってこと」
「そう、バレてたんだ」
「うん。かなり分かり易かったよ。姉さんってさ、義兄さんに本気で惚れちゃったんだろ? だっていい男だもんね。顔だけじゃなく性格もさ」
もしかしたら心のつぶやきを全部口にしていたのでしょうか?
だとしたら恥ずかしすぎるんですけど。
「姉さんは愛がない政略結婚だったから受けたんだよね。お互いに愛がないなら相手が何をしても干渉しないし、傷つくこともない。だから耐えられると思ってたはずだ」
私は食べかけていたロールパンをポロッと落としてしまいました。
恐るべしジュリアン。
「だから義兄さんが帰ってこないことも、手紙の返事を寄こさないことも、姉さんはみんなほど怒ってはなかった。俺は姉さんの性格を理解しているから、下手に慰めたり心配しない方が良いって思って、俺も学生だったし必要以上に行かないようにしてた」
なるほど、確かにあの頃ジュリアンの顔を頻繁に見ていたら心が折れていたかも。そう考えながら、テーブルの上に転がしてしまったロールパンを拾って食べました。
「俺が最初に疑問を持ったのは、王宮に出仕してすぐだった。だって義兄さんが結婚したことも、それが俺の姉さんだってことも王宮の誰1人知らないなんて絶対におかしいだろ? だから調べた。でも核心に近づくとなぜかみんな隠すんだ」
いつの間にジュリアンはこんな思考ができるようになったのでしょうか?
なんだか話が面白くてワクワクします。
まるでサスペンス小説を解説してもらっているような高揚感で食欲が増します。
「それまでの付き合いで、エルランド家のみんなは状況を把握していないことは分かっていた。だから俺は2つの可能性を考えた。1つ目は義兄さんが姉さんを世間体のためのお飾り妻として迎えた可能性。そして2つ目は何らかの陰謀が存在して、義兄さんが身動き取れない状況に陥っている可能性だ。まあ2つ目がビンゴだったわけだけどね」
ビンゴ? 今ビンゴって言いました?
聞いたことの無い言葉ですが、新しいお菓子でしょうか?
「もし1つ目の予想だとしたら、あそこまで徹底して音信不通を貫くのは不自然だ。そこまでするなら偽装結婚する意味がないもんね。だから2つ目の可能性が高いと考えた。それならあれほどのスペックを持ったエルランド家のみんながコンタクトを取れないことも納得できるからね。真相は本人から聞くしかないだろ? そこであのオペラだよ。ロイヤルボックスに近い席で、しかも千秋楽公演。給料の2か月分が吹っ飛んだよ。でもそのピンポイントを突くしかチャンスはない。そこなら絶対に女王陛下は義兄さんを連れて来るからね」
まあ! 給料の2か月分って……いったいこの子はどのくらいのお給料なのでしょう。
ちゃんと定期積立とかしているのでしょうか?
心配は尽きません。
「姉さんを喜ばせるだけならBチケット1枚で良かったんだ。でも今回は、あの席にアレンさんが姉さんと一緒にいないと意味がない。2人が来ていることを義兄さんに認識して貰わないと、あちらからアクションは起こしてこないから、アレンさんにはちょっと頑張ってもらったんだ。でも義兄さんを見たアレンさんの怒りが予想以上でね、その場で話をする予定だったのにダメだった。アレンさんが珍しくへこんでたよ。まあ義兄さんの方から来てくれたから助かったけど」
アレンさんがひとりで会場に戻ったのは、腹痛のせいでは無かったのですね。
心配して損した気分です。
「それであのミッションが始まったのさ。でもまさか姉さんが裏ミッションを考案するとはね。みんな感心してたよ。姉さんには陰謀の才能があるってさ。自分がまだ現役だったら絶対スカウトしてたってノベックさんが言ってたよ」
「ん? ノベックさん? あの温和で優しいイケジジのノベックさん?」
「あれ? 姉さん知らないの? あの人があのメンバーの中で一番凄いんだぜ? 暗部伝説の猛者だったんだって。現役時代のあだ名は破壊神だってリリさんが言ってた。リリさんはノベックさんに憧れてエルランド家に就職したんだってさ」
イケジジは神だったのですね……
「そもそもあの屋敷自体がエルランド家の特殊部隊だからね? まあ俺も最初は知らなかったんだけど、そんなみんなにあれほど慕われる姉さんってやっぱ才能があるのかもね」
何の才能でしょうか? まったく心当たりがないのですが?
「姉さん、紅茶早く飲んじゃってよ。一緒に買い物に行こう」
私は慌てて冷めた紅茶を飲み干しました。
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