静気泡
不規則な波の音とつながれた船が軋む音が耳を擽る。幻の泡の音は・・・今日は聞こえない。幻が見えないなら絵は描けない。それに昨日の奴とまた鉢合わせるかも知れないことに対する煩わしさもあり、今日は船着き場に行かないという選択肢もあった。
しかし、学校へ行くことに対する面倒臭さが勝ってしまったので、今日も私はここにいる。久々に見る、魚が横切らない空と澄んでいるとは言いがたい海水のコントラストは得体の知れない不安感を煽った。沈みかけた気分を持ち直そうと、戻ってきた漁船が水面に弧を描くのをぼんやり見ていると肩をとんと叩かれた。
「やっほー、描いてる?」
大方の予想通り、昨日の女だ。昨日と同じように、落ち着き無く動き回っている。
女は正面に回って初めて、私がスケッチブックを手に持っていないことに気が付いたらしい。
「何だ、今日は描かないんだね」
言葉とは裏腹に、その声色にはそこまで落胆の色は無い。
女は何の断りも無く、それが当然というように私の隣に陣取った。
何もしないなら帰れ、と言いかけた私の喉は、薄笑いを浮かべた女の視線に押し殺された。この目は何かに似ている。何だっただろうと考えているうちに、女は先ほどよりも笑みを深くした。
楽しくて笑っているわけではない。反射的に口元だけが笑顔の形を作っている。そんな笑いだった。
笑顔の機嫌は外敵から身を守るための威嚇行動である。
そんな説をぼんやりと思い出す。
「あたしね、陸の何処にも居場所が無いんだー」
女は勝手に語り始めた。手前の事情なんぞ聞いてねえよ、という言葉を嘔吐する直前で飲み込み、目は合わせずに黙って聞く。
どうせ暇なのだ。聞いても何の役にも立たない話であることは明白だが、毒にもなるまい。適当に付き合っておこう。
「多分あたしってさ、もともと海にいたんだと思うんだよね。だからね、死んだら海の世界にいけるってお話を読んだとき、すっごく嬉しかったんだ、いつかちゃんと帰れるんだって」
海中を死後の世界と捉える話と言えば、メジャー所ではケルト神話のマグメルか琉球神話のニライカナイ辺りの伝説だろうか。
精神の均衡のために、自分の妄想と聞きかじった神話を強引に結びつけて納得したと言うことだろう。そこまで珍しい話では無い。人間は皆、空想によりどころを求める。それが勝手に泳ぎだして知覚を支配している私のような者は明らかに異常なのだろうが。
「何回か試したんだけど帰れないから、まだあたしが帰る時じゃないんだと思う」
女は私の目の前に躍り出て、その場でくるくる回り始めた。忙しない奴である。
「だから君が海の世界の絵を描いてるのを見て嬉しかったなー」
奴は喋りながらもくるくる回る。その輪郭が徐々にぼやけ、周囲の空気が泡立ち始めた。今日は見えないはずだったのに。女が海を連れてきている。
「あたしにはまだ海の世界は見えないけど、君には見えてるんでしょ」
回る女を中心に、海が広がっていく。既に視界全体に水が溜まり、海底を打ち鳴らして泡立たす女の周囲を、黒い帯が取り巻く。
「だからあたしには見えなくてもちゃんと海の世界はあるんだよ、ユーレイとかと同じように」
・・・いや、あれは鮫だ。肉をえぐり出されたような色の鰓耙がひらりと蠢き、胸鰭がゆらゆらと揺れ、深い緑の目玉が虚ろに女を映す。あの目だ、と思った。女と同じ、丸くて、光沢を孕んで、それでいて虚ろな目。
「それってあたしの考えが正しいってことじゃない?」
確か、ラブカだ。奇妙な風貌の深海鮫が、奇妙な考えの深海魚のような女の周囲をぐるぐると取り巻いている。類は友を呼ぶと言ったところか。この地上の何処にも居場所が無くたって、寄ってくるものはいるものだ。
「これであたしの話はおしまいです。ご静聴ありがとうございました~」
女は回転を止めて、ぺこりと頭を下げた。その肩にはさっきまで周囲を回転していたラブカがちょこんと頭を乗せている。
……ご静聴と言ったって、後半はラブカが気になって殆ど聞いていなかったが。
「それでは、今日はこの辺でさようなら~」
好き勝手に喋りたいだけ喋って、奴は退散するらしい。
こちらの返事も聞かずにふらふらと歩き出す。回りすぎて平衡感覚がおかしいのだろう。そのまま船だまりに落ちてしまえ。
多分こいつは、私の見ている幻はさておき私そのものには興味が無い。一方的に名乗っておいてこちらの名前を聞いてこないのがその証拠だ。
私も幻のラブカに見入って奴の話を聞き逃しているのでお互い様だが。
私は船だまりに落ちること無く視界から消えた女に対して舌打ちしつつ立ち上がった。
なんとなく消化不良な気分を振り払うべく今から学校に行こうかと思ったが、時計を確認すると既に昼前だったので、止めた。
ふと辺りを見回すと、知覚を満たしていたはずの海はすっかり引き、油凪の水面に今日の勤めを終えた船が揺れていた。
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