青被り

今日も現実の波の鼓と、幻の泡の音が重なって私の耳を擽る。


私は学校をサボって、船着き場から見える景色をスケッチしていた。まあ見えると言っても、私の知覚において、だが。

その証拠にスケッチブックの中の船着き場には、目の前の本物の海から上がってきたカタクチイワシが船の上で星雲を形作り、それを玉になったギンガメアジが狙っている。

現実では両方もっと外洋の魚だっけ。でもそういう風に見えているのだからこの光景は私にとって紛れもなく真実である。


ふと、スケッチブックに影が落ちる。

誰かが、私が絵を描くのを覗いているんだろう。無視して手を動かす。珍しいことだが、無いことじゃない。

サボりを叱るでも無く、人の作業を黙って覗いてくるような気まぐれな人間なら、よっぽど上手く描けているか、その真逆でも無い限り、そのうち飽きて何処かに行ってくれるだろう。私の知る限り私はそのどちらでも無い。

視線を感じながらも、スケッチブックのページ一面に幻覚を焼き付けた私はスケッチブックを閉じて一息吐いた。

結局私が描き上げるまで視線の主は私の背後に立ち続けた。全く物好きな奴だ。人の作業、それも幻覚のスケッチなんて見ても楽しいものでは無いだろうに。

私は若干呆れつつ荷物を抱え、船着き場から立ち去ろうとした。絵を描き上げてしまえば用は無い。


立ち上がろうとした私は、背中に衝撃を受けてつんのめった。

船だまりに落ちる寸前で踏ん張り、スケッチブックごとびしょ濡れになることは何とか免れた。

自分だけならいつも海の幻に脳漿を浸しているのだから本物の海に沈んでも何も変わらないが、買ってそう経っていない画材がまるごと使えなくなるのは惜しい。

非難を込めて振り返った先に居たものは、幻の水面から落ちる反射光に照らされて尚、まだヒトの形を保っていた。

自分と同じくらいの歳で、性別は女。長い髪を低い位置で二つに縛っている。ファッションは学校制服のように見えるが、知らない学校の物だ。成人しているのに女学生のふりをしている酔狂なコスプレイヤーである可能性も否定できない。何故か不思議そうに、未だ地面に這いつくばっている私を見下ろしている。

どういう意図で私を船だまりへ突き落とそうとしたのかはよくわからないが、私自身がそうであるように、平日に学校をサボってこんな所でふらふらしている奴なんてろくな奴じゃ無いだろう。


「死にたいんじゃないの?」

意図のわからない女が発した第一声もまた、私にとって全く意図の読めない物だった。

否定も肯定も出来ずにただ女の目を見つめる。丸くて大きいのに、何処を見ているのかはわからない。多分本人の脳内ではちゃんと行動に理由を付けられているのだが、その理屈は多分他人には通用しない物なのだろう。

深海魚みたいな女だな、と私は心の中で呟いたが、それは深海魚に失礼か、と思い直した。人間から見て意味の分からない造形をした深海魚だって、環境に適応して必死に生きている。日々を無駄に過ごす人間とは違うのだ。


「君も死んで海の国に行きたいって、そういう事なんじゃないの?それ」

「は?」

女がますます訳のわからないことを言う物だから、私は殆ど無意識に聞き返していた。そしてその声が意図せず擦れていたことで、私は今日一日で初めて声を出したことに気が付いた。

暫く無言で見つめ合い、女の言う「それ」が私の幻のスケッチであることにようやく気付いた。

要するにこの女は私の描く絵が死後の世界であり、一心不乱にそれを描く私のことを自殺志願者だと思い込んだらしい。

私が言えたことでは無いかも知れないが、中々突拍子も無い思い込みである。

「そういう事では無いよ」

私は女に向かって吐き捨てた。


「なーんだ」

女は安心するでも落胆するでも無く、至って変わらないテンションでそう言う。

そのまま立ち去ってくれという私の願いも空しく、そのまま軽い足取りでスケッチブックをかすめ取り、何枚かページをめくった。

「じゃ、何?これ」

女はスケッチブックのページをぺらぺらとめくりながら、私の周りを落ち着き無くうろつき始めた。

私が黙っている間にも女はぐるぐる回る。生け簀に捕まった鮫みたいだ。

こちらの様子をうかがいながら飽きもせず視界の端を行ったり来たりしている辺り、どうやら私が言うまで返す気は無いらしい。

「こういう風に見えるんだよ」

私は単刀直入に事実を伝えると、女はそれを聞いて微かに笑った。笑うなら笑えば良い。できればこれで興味を失って立ち去ってくれ。

そんなこちらの心中を知ってか知らずか、半端な笑みをそのままに、例の不気味な瞳でしばらくこちらを見つめたのち、

「いいな」

確かにそう呟いた。


「じゃああたし、行くね。また明日」

やりたい放題やった挙句、女は波音に背中を押されるように勝手に立ち去ろうとした。深追いする気は無い。

というか、明日もここに来る気なのか。私と同じように学校をサボって。

「あ、あたし、『ふかみ』」

少し離れた位置から女が告げたそれが、女の名前であることに気付くのには多少時間がかかった。

ふかみ。恐らく「深い海」、か「深く美しい」と書くのだろうが、私の頭に真っ先に浮かんだ漢字は「ふか、すなわち鮫だらけの海」だった。

動きだけじゃ無く名前まで鮫かよ、と私は独りごちた。

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