急浮上
泡のはじける音の合間を縫って、鳥の鳴く声が聞こえる。
釣り餌を狙って集まっているのだろう。まあ今の私の目には鳥が鳥に見えないのだが。顔を挙げると、案の定胸鰭をばたつかせたマダラトビエイが、きいきいと鳴いている。アンバランスな光景だ。
既にあの女は我が物顔で船着き場にいた。
女は飛び交う海鳥……私の目にはそうは見えない……を興味深げに見つめた後、思い出したように地面に無造作に投げ出していた鞄を漁った。
そこから取り出したのは煎餅の袋。ためらいも無く袋を破ろうとした奴に私は思わず声をかけた。
「おい、野鳥にあまり餌をやるんじゃないよ」
こちらに気付いた女が珍しく驚いたような顔をしているのを見て、初めて私からこいつに声をかけたことを思い出した。
「だって鳥さん可愛いよ?」
出来れば飛び交っているエイの姿をした物の正体が何なのか聞きたかったのだが、『鳥さん』というアバウトな表現に私は若干落胆した。
「鳥に人間が餌をやりすぎると渡り先で餌を取れなくなるらしいよ」
女は袋を破ろうとしていた手の力を緩めた。
「死ぬの?」
「そういう事だよ」
私の目には飛ぶものの本当の姿は見えないのでこれが渡りをするのか港に住み着いたものなのかはわからない。でもやって良いか悪いかわからないのならやらないに越したことは無いだろう。
「でもそしたら海の世界に行けるから良いよね」
女は少し考えた後冗談めかして笑い、そう言いつつも菓子袋は鞄にしまったようだ。
「まあでも餓死って嫌だよね」
空をぼんやりと見あげながら女は尚もくすくすと笑う。
その目線は海鳥と思われる飛ぶものの動きを追ってはおらず、虚空を見つめているように見える。
「あたし絶対やだわ、時間かかりそうで」
案の定、鳥の話はいつの間にか女自身の話にすり替わっていた。
おもむろに立ち上がった女は船着き場の際に立って水平線へと視線を移した。
その背中は背筋は伸びているものの、どこか生気が無く、海底の鷺のようだった。
「やっぱり海に飛び込んで死ぬのが良いよね。誰にも迷惑かからないし、何より海の国に近そうだし」
女は依然として笑いながら話しているが、とんでもない。他人に迷惑を掛けない自殺の方法なんてあるものか。
首を吊れば後処理をする人に迷惑がかかるし、練炭自殺や飛び降りも土地の保有者からすれば値段が下がって迷惑だろう。
ODだって本当に薬が必要で飲んでいる人からすれば風評被害の元だろうし、ましてや入水なんて。
もし死体が漁網にかかったら何億の損害だと思っているのだろうか。
「君も死ぬなら海が良いよね?泡になって綺麗に消えられるかもよ」
良いもんか。運良く死体が上手く海流に乗って深海へ運ばれ魚に食われるとしても、身を投げて死ぬまでの間意識があることが恐ろしい。
溺れたという明確な記憶の無い私でもそう思うのだ。これは本能的な恐怖なのだろう。
こいつは多分、その本能が備わっていないというよりは、死んだ後自分が何処へ行くかということへ意識が行きすぎていて、死ぬまでの間どうなるかを軽く考えているのではないだろうか。
だから最初に出会ったときのように、見ず知らずの相手を突然海に突き落とすようなことが出来るのだろう。
一度酷い目に遭わないと、こういう奴は同じようなことをくり返すだろう。私が呆れてこの場を捨てても、また別の誰かに同じことを言うのだろう。
無性に腹が立った。私の名前も知らないくせに、この女は無意識に私の脳を呆れと怒りで支配している。これでは天秤が釣り合わない。
そして今、ちょうど良いことに奴の眼前は海であり、私は奴の真後ろにいるのだ。
さて、どうしてやろうか。
……いや、私がそこまで使命感を燃やす必要は無い。
こいつが私の知らないところで私の知らない誰かを突き落としたとて、私には何の関係も無い。知るよしも無い。その筈なのだ。
私はスケッチブックを取り出し、いつものように船着き場の光景を紙に焼き付け始めた。
泡立つ空を飛び交うマダラトビエイ。さらにその上空を緩いスピードで通り過ぎていくのはメジロザメ。
それに切り裂かれたイワシの玉が形を保てずに鱗を落としながら散り散りになる。
地上では死人のような顔色の女が、これまた生きているのか死んでいるのかわからないラブカを従えてその光景を見あげている。
……奴にそれが見えているはずはないのだが、今の私にはそう見えた。
女は私が描き終わると同時にふらりと何も言わずに何処かへ行ってしまった。
私が勝手に奴を描いていることに気付いていたのだろうか。そして、私が描き終わるのをわざわざ待っていたのだろうか。
何だか悪い気がしたので、次に会ったら一応謝っておこうかと思ったが、奴のことで頭を悩ますのは酷く無駄なことだという事に気付いて考えるのは止めた。
文句があるなら向こうから言ってくるだろうし、大体私だって初めて会った日に迷惑を掛けられているからお互い様である。
私は出来上がった絵に視線を落とした後、奴がそうしていたように空を見あげた。
普段はあまり自分の絵の出来に頓着しないが、不思議とその出来映えを誇らしく思った。それが何故なのかはわからないけれど。
結局正体のわからない飛ぶものは、いつの間にか目を凝らさないと見えないほど遠く、空高くで弧を描いていた。
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