第7話:黒猫

 突然の背後の気配に俺は底知れぬ不安を感じていた。

 まさか、クローディアか。辺りを見回すが、誰も居ない。

 脳の奥底では、テロリストという単語も微かに浮かんでいた。

 

 今度は恐る恐る背後を振り返る。しかし背後にも誰も居なかった。

 額に汗を浮かべた俺は、気のせいでよかったと安堵していた。


 ガササ。


 今度は葉擦れの音がした。

 音は、先ほど振り向いた少し先、街路に植え込まれた樹木のあたりから聞こえたと思われる。

 まさか、と思いながら俺はそろりと近づいていくのだった。


 樹木に向かい、足を忍ばせていると、一匹の猫が飛び出してきた。


「うおっ……!」


 咄嗟のことに声が漏れたが、それが猫だと分かると俺は再び安堵した。

 身体からは一気に緊張感が抜け、情けないことに地面にぺたりと座り込んだ。


「なんだ、猫だったか。こいつ、ビビらせやがって」


 思わず小悪党のような言葉を漏らしてしまった。

 飛び出してきたその猫はじっとこちらを見上げると、「ニャー」と鳴いた。様子からして、随分人に懐いていると感じた。

 おそらく餌をくれる者が居たのだろう。


「すまんな、食べ物は持ってないんだ」


 食べ物の一つでも持っていれば俺も与えただろう。

 人間が苦手な者でも動物が好きだったりすることはよくある。かくいう俺もその一人だった。意外だとは思うだろうが。


 猫は、金色の瞳をしていた。こんな真夜中でも、少量の光を浴びて輝くその瞳はまるで月光を放っているようだった。

 そしてそれは何故かクローディアの金色がかった瞳を想起させていた。はっきりとは覚えていないが似たような色をしていた気がする。


 食べ物はくれないと感じ取ったのか、猫はきびすを返した。そして今度は元気なさげに「にゃー」と鳴いた。そして、何かを探すように辺りを見回していた。

 目的のものはここでは得られないのを察したのだろう。賢いやつだ。

 猫は軽い身のこなしで俺の元を離れていった。

 今度会ったら餌をあげよう。俺は心の中でペースト状のキャットフードを買うことを決め、帰宅への道を進んでいった。


♢◆♢


 人気ひとけの無い深夜の静かな路地。そこで、静寂を裂くように足音が淡々と刻まれていた。

 その中に二つのシルエット。片方は、男性のものだろう。がっちりしていて体格の良さが印象的だ。

 もう片方は、少女だった。男とは対照的に華奢さが感じられた。

 二つの影は追いかけっこをしていた。

 

「はぁ……! はぁ……!」


 否。追いかけっこなどという楽しげなものではなかった。繰り広げられているのは逃走劇だった。

 追っているのは少女の方だ。

 何があったのか、男は少女に背を向け、ひた走っていた。彼の背中は恐怖という二文字を携えていた。


 彼はひたいに焦りを浮かばせていた。

 自らを追いかけるのはまだ成人にも満たないだろう外見の少女だった。そんな少女から逃走している今の状況がまるで冗談に感じられ、心の底から「そんなはずはない」と思っていた。


 一方で、少女の方はしなやかに。そして軽やかに。まるで猫のように男を追いかけている。

 息切れのひとつもせず、慣れたような身のこなしでじりじりと男を追い進める。その眼には執念のようなものが宿っているように感じられる。


 片や男の方の呼吸は乱れている。もうどれだけ走ったのかも分からず、半ば興奮状態でもあった。

 何か突破口を開かなければならないと感じていた。もしそうでもしなければ、自身も先刻まで一緒に居た相棒と同じ運命を辿ることになってしまう。

 そう思うのは必然で、数十分前の出来事の記憶は、彼が自分自身に「こいつはまずい」と警鐘を鳴らすのには十分すぎる内容だった。

 男の脳内では鮮明に浮かんでいた。隣に居た相棒が、突然音もなく何かによって切り刻まれてしまったのを。


 長年の経験からか、男は幸運にも瞬時に気づくことが出来た。隣で相棒の肉塊がぼとりと落ちる音がするのをよそに、走り出すことに成功したのだ。

 男は振り返らなかった。相棒の姿を見てしまったら恐怖に足がすくんでしまうかもしれないからだ。


 「ふうん。逃げるんだ」


 男にはそう呟く女性の声が聞こえていた。

 しかし、聞こえたから——相手が女性だから何かが変わるということもなく、突如降りかかった危機から身を守るために走り出す以外の選択肢はなかった。


 どのくらい走っただろうか。無限にも感じられる時の中で、自身の体力がそう長くもたないということを男は感じていた。


「お、俺たちが何したって言うんだ!」


 男は振り返らない。怒りと焦りを多量にを含んだ声で問いかける。

 話し合いで解決出来ることかもしれない。そんな望みもあったのだろう。

 相棒が殺されたとはいえ、話し合いで解決出来れば自身は助かり、情報も持ち帰ることが出来るかもしれない。

 一縷ほどの望みだが、対話を試みる。何にせよ、目的くらいは知らなければ、と。


「なに、君らはさ。……それより、走りながら喋るとより息が切れると思うんだが。大丈夫かい?」


 少女は相変わらず呼吸を乱すことなく追従していた。

 返答には相手を気にかけるような内容まで含まれており、余裕を感じさせた。

 今から殺すであろう相手を気にかける理由はわからないが。

 うっすら浮かぶ少女の笑みは、その余裕さと不気味さをより増長させていた。


「何もしてないなら……っ! なぜ俺たちを——」


 ずっと前から脳への酸素の供給は不足していた。男の筋肉は徐々に従順さを失っていき、少しづつ減速していく。

 息も絶え絶えで全身は疲労と鈍痛に包まれていた。

 もうここまでなのか。心の中ではそう思っているが、身体が言うことを聞く限りは走り続けることをやめなかった。意地もあったのだろう。


 だが、徐々に観念したのか、足を止めた——いや、止めざるを得なかった。

 男の目の前には壁が立ちはだかっている。彼は行き止まりへと追い込まれていたのだ。

 そこで、遂に後ろを振り返り、自身を追う人物の姿を目にした。聞こえていた声の通り、眼前には少女が居た。


 男は少女を睨みつけながらも、下肢の筋力が解けるのを感じた。終いには、地面へぺたりと座り込んでしまった。

 その姿を見て少女も走ることをやめた。そして、ゆっくりと男の方へにじり寄っていく。

 座り込んでもなお、男は後方へと引き下がっていくが、そのうち壁に背がついてしまった。


「やっと観念したね。先程も言ったが、君たちはまだ何もしていない。ただ、君たちが所属している組織が良くなかった……。それだけさ」


 男から諦めと絶望を感じ取った少女は流暢に話し始めた。

 その立ち姿に一切の隙は感じられなかった。

 組織という言葉を聞き、男の顔色は変わった。


「組織……? そうかお前、それを知って……!」


 男の中で何かが合致していた。

 少女が自身を狙う理由。そして、今置かれている状況に得心がいったのだろう。


「誰の差し金だ……! 間違っているものを、世の中を正して何が悪い! だいたい俺みたいな下っ端を相手にしても——」


「うるさいよ」


 男の言葉は少女の言葉に遮られ、そのまま喉元まで返される。

 少女の瞳はまるで発言の権利を剥奪しているかのような鋭さだった。

 男の声は消え去り、抗議の言葉は虚しく消えてしまった。

 一方で、彼の言葉を制した少女は訴えかける。


「だからって、人を犠牲にしちゃうのは筋違いだと私は思うんだがね。君たちが望む世の中だって結局は人があってこそだろう。違うかね?」


 男はすぐに答えなかった。ただ血走った目で少女を凝視しているのみだった。

 少女は、左手で眼鏡のブリッジに触れる。眼鏡の奥では金の瞳が妖しく光っているように見えた。


 男は最後まで望みを捨てていなかった。諦めが悪いというのはこういうことを言うのだろうか。

 あるいは、ここで自身が殺されてしまうという事実を認めたく無かったのだろうか。

 組織という言葉に交渉の余地を感じていた。


「わ、わかった……組織の情報を知っているだけ全て話すっ! だから、命だけは……!」


 男が選択したのは決死の命乞いだった。

 少女が何者なのかは分からなかったが、目的が組織な以上、情報はいくらでもほしいだろうと考えたのだ。

 理念に共感し、長年関わっていた組織だったが、命を失ってまで忠誠を誓う物じゃないと感じていた。

 物事にはタイミングという物がある。組織との縁もここまでだったのだろう。これで、少なくとも時間稼ぎくらいはできるだろう。内心ではそう思っていた。

 しかし、それは誤算であり、少女の返答はその期待を裏切るものだった。


「しまいには仲間を裏切ってまでの命乞いか……。どうやら君は本物のクズだったようだね。そんなクズが偉そうに世の中の是非を問おうだなんてどうかしていると思わないか。この様子じゃあ、正義への理念なんてあったもんじゃないだろ」


 少女は大きめのため息をついた。

 いつだって人間の出来損ない——本物のクズは相手にしたくないものだ。

 少女は心底そう感じていた。


 男を見下ろすその表情は、多くの嫌悪感を帯びていた。

 男は知らず知らずのうちに少女の琴線に触れてしまっていた。それを理解したのだろう。表情は怯え切っていた。

 自身がこれからされる事への恐怖なのか。それとも目の前に居る底知れぬ少女への畏怖からなのか。

 戦々恐々とした心理状態を脱する為か、あるいは悪あがきというやつだろうか、男は狂ったように叫んだ。


「こ、こんな子どもなんかに俺が……! おれがああぁぁぁぁァァ!」


「君は運が悪かっただけさ。冥土の土産にさっきの質問に答えてあげようか。私は、誰に依頼されたわけでもない。暗殺者だとでも思ったかい? これでも人からの依頼なぞ受けたことがなくてね。おかげさまで好きにさせてもらっているよ。自由業なんだ」


 淡々と言い放つ少女に今は殺気などなかった。

 それゆえに、きっと淡々と殺されてしまうのだろう。きっとこの殺人に関してもそこまで大きな意味はないのだろうと。男は肌で感じ取っていた。

 少女が右手に持っていたナイフが月明かりに照らされキラリと光る。微かな風が辺りを包み、長髪が揺れた。

 光ったナイフの切っ先には相棒のものであろう液体がこびりついているのを男は目にした。


「さて、そろそろ終幕としようか。はなむけとして君を殺す者の名前だけでも教えてやろう。知らない相手に殺されるのは嫌だろう?」


 私の名前は————。

 彼女が言い切る前に動いた。無謀だと分かっていても、出来ることはしたかった。それが彼の性分だった。

 ずっと錯乱していたのもある。何より、精神状態が悪かった。不幸にも自身が武器を所持していたというのもあった。

 

「ばけものめ……!」


 前方へと飛び出した彼は叫びとともに懐に隠していた小型銃を抜き、慣れた手つきで撃鉄を起こした。

 組織での長年の経験が生きたのだろう。自身の思う以上にスムーズに動き出せた。そしてそのまま、引き金を引いた

 最終的には勝ちを感じ取ったのか、口元はニヤリとしていた。

 しかし、その様子を見ていた少女はなおも平然としていた。男はその姿を見て反応が遅れていると感じとったようだが。

 弾丸がはじき出されるや否や、少女の身はゆらりと揺れた。


「人の話は最後まで聞くものだろう。おじさん? あの世まで覚えていくといい。私の名前は————クローディア・イル・ノワールだ」


 少女の身は揺れた。瞬間、まるで消えたかと見紛う速さで男の背後へと回り込んでいた。

 男はその姿を目で追えるはずもなく、何が起きたか理解できていなかった。もしかしたら、まだ勝ちを確信しているままなのかもしれない。

 銃口から打ち出された弾丸の先に彼女の姿はなく、またその弾丸はくうを貫いた。そして、大きな発砲音だけが虚しく残る。

 男は、「あ、れ……?」と口にしていた。

 相手が悪かった。実力差は圧倒的で、少女にとっては赤子の手を捻るよりも簡単なことだった。

 結果、彼の捨て身の行動はいとも容易くいなされてしまった。


「クローディア――はっ! まさか……! テロリスト殺し黒猫か……!?」


 諦めの悪さが底なしの男も諦めるほかなかった。彼はそのまま地面にうなだれてしまった。

 男はクローディアという名前を聞いたことがあった。テロリスト界隈では有名な話だった。

 『黒猫』という異名をつけられたそいつは異常なまでの執着心と高い身体能力で狙った獲物は必ず仕留めるという。

 ここ4年くらいの間で噂が広がっていた。命が惜しければと、男もまた自身の先輩にあたる人物から教えられていた。

 男だと思っていた。まさか女だとは思っていなかったのだ。


「私も有名になったものだな。嬉しくはないが」


 やれやれという表情でクローディアはため息をついた。

 そして、彼女は一言。


 ——さようなら。


 そう言うと、まだ幼さの残るその顔に嬉々とした表情を浮かべていた。

 男は、最後に見た少女の表情に、その異常性に鬼胎を抱いていた。

 まだこの世に残している家族の顔を浮かべる間さえもなかった。背中からどろりと何か液体が伝うのを感じるとともに、彼の意識は完全に終焉を迎えた。

 彼の——いや、彼女のものだろうか。どちらの声なのか判別もつかない、悲鳴のような叫びが響いていた。


 クローディアは男の遺体と対峙していた。

 既に事切れていようがそうでなかろうが関係なかった。現在いまの彼女には先ほどまでの冷静さや理性的な気配は感じられない。

 右手のナイフは男の背中を貫いた。一度ではない。何度も、何度も。

 そして、男の身体の一部を抉り取ると、それを引き裂いた。

 首筋を一刀すれば、首元から上が転がり落ちた。

 刺しては切断。

 この工程を何度繰り返しただろうか。

 まるで巨大魚の解体ショーを行う調理人かとも思えるほどの手際の良さだった。

 やがて、いくつものパーツに分かれた。かつては一人の男だったそれは、元の形が分からない程にバラバラにされていた。


「はぁ……はぁ……」


 クローディアは珍しく息を切らしていた。否、人間を処分するときはいつもそうだった。興奮の余り毎回息を切らしてしまうのを、過去の経験から知っていた。

 まるで、執念に憑りつかれているように——人が変わったようになるのだ。

 解体という名の処分作業が終わる頃には憑き物が取れたようになり、元の無垢な少女のような面持ちに戻っていた。

 先ほどまでの狂気は微塵もない。ただ異質なのは、多量の血液を全身で浴びているということのみだった。


「あー、くっさいな。また血だらけになってしまった」


 自身にこびりついている臭気へか、それとも付着した液体のべたつきによるものへなのか、苛立ちを見せた。

 舌打ちをしたのち、彼女はその場を後にする。

 まるで何食わぬ顔をして、屋根を伝い夜の闇へと消えていった。

 立ち去ったその場には、男とその相棒の亡骸が距離を隔てて残されていた。

 彼らの遺体が発見されたのは数時間後、日が昇った後のことだった。

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