第6話:日常と血の匂い
ここはどこだろう。理由はないが前にも来たことがあるような気がしていた。
無機質なくせに、やけに温かみのある部屋だった。
目の前にはシャーロットが居た。
シャーロットはいつもの澄ました顔で、俺の方を見ていた。
「兄さん、どうしたの?」
シャーロットは不思議なものでも見るような表情で話し出した。
いつもと変わらない姿で話すものだから、思わず口元が緩んでしまう。
「珍しく夢なんて見て。寂しくて私の顔が恋しくなったの? そうだったらうれしいなぁ! もしかしたら、私たちに会いに来たくなっちゃったのかな……」
まるで楽しそうに、踊るような声でシャーロットは話し続ける。
その言葉に、「ああ、これは夢なのか」と疑問すら持たずに納得してしまう。
「でも、まだ駄目だよ。こっちに来るのは、兄さんには早すぎるよ。やることもいっぱいあるでしょ。私たちはこっちで楽しくやってるから。三人で気楽に待ってるよ」
どうやら家族三人仲良くしているようだ。俺は、自身が安堵しているのを感じた。
夢の中だと分かっても、その空間はとても居心地が良かった。妹が居て、俺が居る。きっとそのうち父と母もやってくるのだろう。
そんなぬるま湯のようなこの夢にいつまでも浸かっていたいと感じていた。
夢でもなんでもいい。この状態がいつまでも続けばいいと。
だが、どうやらそういうわけにもいかないようで。
その空間は、突然何者かに蓋をされるかのように、だんだんと影が差していった。
夢の時間が終わっていくのだと、まるで知っているかのように感じていた。
夢とはそういうものなのだろう。何も疑問も持たず、与えられた状況を享受する。そして、目が覚めてから、それは現実ではなかったと知らされる。
そういうものなのだ。だから、俺は覚めつつある世界で叫ぶしかなかった。
待ってくれ! すぐに——。
すぐに――――なんだ?
叫びはかき消され、突然の現実が俺を襲った。
その光景が夢だったと気づくまでに少し時間がかかった。
全てを鮮明に覚えているわけではないが、多くの温かみと少しの寂しさが、胸に残っていた。
頬には涙の流れたような痕があり、家族の夢を見ていたのだと確信した。
そんな夢は俺の奥底でまた一つ疑問を産み落としていた。俺は何を叫んでいたんだっけ。
夢の余韻に浸り、しばらくすると体を起こした。まだ昼前だった。
眠りから覚めた俺は、時計を見る。針は午前の終わり頃を指していた。
閉じたカーテンの隙間からは陽光が差し込んでいる。
その光は部屋に微かな明るさを与えていて、朝特有の
いろいろな出来事があったからだろう。昨日は頭の中で整理しなければならないことが多かったように思う。
その結果深い眠りにつき、夢も見たのだろう。
いくつもの考えが頭を巡っていた気がするが、目が覚めてしまえばそれらはあっけなく忘れ去られてしまうものだった。
だが、そのおかげもあり、俺の脳内は非常にすっきりしていた。
眠りから覚める瞬間は、時間の流れが遅く感じられる。脳が起床を拒むことも少なくはない。しかし、今日は自然と目を覚ますことが出来た。
今日もバイトまでの時間を利用し、魔術本を読んでおこうと考え、鞄から分厚い本を取り出した。
その本は比較的丁寧に装丁されており、厚みのあるページが特徴的だった。
『魔術に慣れてきた君へ~ステップアップブック~』と書かれているその本は、ラフなタイトルとは裏腹に魔術理論や実践に関する貴重な知識や、それらを応用するための具体的な方法や手法が記されている。
手に取り、ページを読み進めていると俺は微かな違和感を覚えた。
実際には本ではなく部屋全体——主に鞄からだった。
鞄からは微かに血液の類の匂いが漂っているかのように感じられた。
気づかないうちに怪我でもしていたのだろうか。
改めて鞄を手に取り、血液の付着や異変を確認するが、特に何もなかった。
ただの勘違いだったか。そう自覚すると、違和感は消え去った。
深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、再びページへと目を落とす。
光陰矢の如しとはこういうことを言うのだろう。魔術本の内容は非常に興味深かった。気づけば、時計の針は夜の始まりを告げていた。
活動の時間が始まる。
♢◆♢
店内ではBGM代わりのラジオが流行りの楽曲をランダムに垂れ流していた。
いわゆる大衆向け飲食店。安さと提供までの速さがウリとなっているこの店で、俺は調理スタッフとして働いている。
来客数が一日のピークとなる夕食時の店内に、また新たに客が入ってくる。
女性スタッフはそれに対して、「いらっしゃいませ!」と明るく元気に挨拶していた。
ホールでは客同士の
調理場に居ても、店内がやや騒がしいのが気になるが、指示に従っていれば特に何か言われることもなかった。24時間営業しているので、自身の都合に合わせて働けるし、人との関りも最低限に抑えることが出来ている。
俺はこの店に働きやすさを感じていたのだった。
今日もいつものように、黙々と決められた作業を続けていた。
過去には、もしかしたら工場のラインで働く方が向いているのかもしれないと感じたこともある。だが、勤務時間等を考慮するとやはり現状がベストだと感じる。
他スタッフによる俺への反応は様々だった。
「愛想が悪い」と言う者もいれば、全スタッフ平等に接する者。
事故の事情を知っているのか、腫れ物を触るかのように接する者。
中には、「クールでかっこいい」などと評価する変わり者も居るようだ。
お世辞の可能性が高いとは思うが、仮に本気なのであれば理解が出来ない感性である。
そんなことを考えつつも作業をしていると、気づけばピークの時間はとっくに過ぎており、もうすぐ深夜二時になることをデジタルの時計が示していた。
もうすぐ退勤の時間だった。
「おつかれさまでした」といつもの調子で短く挨拶をし、休憩室へと向かった。
手元には自身がつくった『まかない』があり、それを持っていく。
このまかない制度もこの店で働く理由の一つだった。食費が浮くという点でとても助かっている。
というより、俺の食事は基本的にはバイト時のまかないのみとなっていた。
「おつかれさまでした」
「はい、おつかれー。最近物騒だから気を付けて帰ってね」
深夜の食事を済ませると、他のスタッフたちと再度挨拶を交わす。
軽く会釈をすると店外へと出た。
店を出る際、客の居なくなった店内では、スタッフ数名が噂話をしているのが耳に入った。
猟奇的殺人事件がどうのと言っていた。
なるほど、本当ならば確かに物騒な話だ。
先程、挨拶を交わしたスタッフの言葉に得心がいった俺は店を後にした。
店を後にした俺は、本屋に立ち寄ることを思いついていた。
幸運にもこの街には24時間営業している本屋がある。魔術書の類はないものの、それに近しい参考書——ファンタジー等に関する書籍や資料等がある。内容に論理性が乏しいものが多いが、時たま、それらから着想を得ることもあるので侮れない。
その本屋は普段の帰宅路からは少し外れた場所にある。そして、その通り道には以俺が貧血で倒れた場所があった。
クローディアと初めて出会った通りのことだ。
また会うかもしれないな。
不安を含んだ予感のようなものが頭を
昨日の今日だということもあり、少し気だるいような、複雑な気分になる。
どうしたものかと少し悩んだ末に、本屋に立ち寄ることを決めた。
参考になる書籍があるのであれば、買うのは早い方がいいと思ったからだった。
それに、彼女の用件は済んだし、付きまとわないと約束はしてくれた。そう何度も会うまい。
心の中で身構えつつはあったが、本屋へと向かって歩き出した。
結論から言うと、通り道に彼女との遭遇はなく、あっさりと本屋に着いた。
付きまとうのは本当に止めてくれたようだと内心で安堵し、あるいは俺をからかうのに飽きただけなのかもな、とも感じた。
広い本屋へ入店した俺は目的のコーナーへと向かっていた。街の中でも1、2を争う広さなのもあり、様々な書籍が取り揃えられている。
深夜営業を行っているのもあり、この時間でもそれなりに客が居た。
魔術本が売ってないのだけが本当に残念だと思う反面、こんなところに売っていても胡散臭くて買わないのだろうなとも思った。
そういったものは、古くからある書店だったり、路地裏やアンダーグラウンドな場所にあるような、怪しさ満載の書店にこそあるものだし、あるべきだとも思う。
目的のコーナーに辿り着いた俺は改めて種類が豊富だなと感じた。
いったいどの層をターゲットにしているのかわからない本も多数あった。
その中から、『クリエイターの為の大魔術百貨』と書かれている書籍を手に取った。
この『クリエイターの為の』シリーズは名前の通り、作家やゲーム開発者に向けられて作られているのだが、やけに設定に凝っていた。
例えば、魔術発動手順における補足や制限等、参考文献をよく調べて作成されたのだろうと実際に魔術をかじっている俺でも感心するほどだった。
余談だが、他にも『クリエイターの為の剣術指南』や『クリエイターの為の命名百貨』等他にも数種類売っている。かくいう俺も『クリエイターの為の初級魔術』はもう何度読み返したか分からない程だった。
そんな経緯もあり、内容に期待を寄せながらその書籍を購入し、店内を後にした。
本屋を後にした俺は、普段の帰宅路へと合流し、歩き進めていた。
昨晩深く眠れたことも関係しているのか、足取りは非常に軽かった。本意ではないが睡眠の大切さを知らされたような気がする。
だが、生活スタイルを変えるつもりはなかった。少なくとも目的を達成するまでは。
結局クローディアに会うことはなく、杞憂だった。
不意に彼女のことを考えてしまうことがあるのは付け回された過去の経験によるものだ。そうに決まっている。
「————」
そんな不毛なことを考えていると背後から気配を感じた。
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