春の標に、朧月。

朝霧に唄う。

春の標に、朧月。




記憶にあるのは、母の髪から香った桜の匂い。

あたたかく、やわらかい安心感のある家の匂い。

そして、隣から聞こえてくる別の産声だ。


暗い夜空で微かに光りを放つ月光に思わず目を細め、上を見上げた。自分を抱く女の瞳からは大粒の涙が溢れていた。


「あなた達を共に生かせてやれなくて、ごめんなさい。この母を許してくれはしませんか。」


涙混じりの声。


「奥方様、この子達には沐浴を致しますので一旦離れて下さいまし。ハツ、奥方様をあちらへ。」

年老いた女の冷静な声、それに呼応する若い女の透き通った声。

それらの声が、耳に残る。

この幼い彼の心へ深く刻まれたのだ。



かねてより父は、教育や子育ての殆どを使用人に任せており、彼、大湊おおみなと 朧次郎るじろうもその例外では無かった。裕福であったから金に困ることは無く、満足のいくまで勉学に励むことができたのだ。

六つの時分には教育係が付き、十八の時には海軍兵学校に入学。そして、二十七になる頃には海軍の一員として軍務に励んでいた。

実家を離れて、軍にて勉学に励むのに抵抗が無かったと言えば嘘になるが、国を護りたいという義務心の塊の彼にとっては、海軍は非常に魅力的な場所であった。

母とは、幼少期に死別していた。朧次郎を産んで間もなく、身体が弱り、心臓病に犯されていた。父や、親族等は大層心配し、良い医者に診てもらうべく、引越した程であったが、母はそれを良しとしなかった。『信頼できる、前の医者の方が良い』と言い、越した後も、以前居た家の付近にある町医者へ通っていた。きっと頭もおかしくなっていたのだろう。使用人達は、そんな噂をしていたものだ。

そんな環境下で育った彼であったので、朧次郎にとっては、家に対する執着よりも、兄と共に働ける喜びが胸を浸す思いである。


そうして、海軍兵学校を首席で卒業した彼は、大日本帝國海軍少尉候補生だいにっぽんていこくかいぐんしょういこうほせいとして特別運送船福井丸に乗船し、『第二回旅順港閉塞作戦だいにかいりょじゅんこうへいそくさくせん』に参加していたのだった。

第二回旅順港閉塞作戦は、明治二十三年三月二十七日に行われた作戦である。日本軍は日露戦争で、それまで露軍艦隊へ攻撃していたが、旅順の艦隊だけは陥落する事が無かった。このまま旅順艦隊へ脅かされたままでは、陸戦にも悪影響を及ぼす。そう考えた大日本帝國聯合艦隊だいにっぽんていこくれんごうかんたい司令長官・東郷平八郎は、旅順港の狭い入口を塞ぎ、動きを封じようという作戦を立てた。

それが、旅順港閉塞作戦である。その実態は、海軍兵が古くなった複数の運送船に乗り込み、旅順港口へ侵入後、船を爆破させ沈めるというものだ。一度露西亜艦隊と相見えれば突進する他に道は無い。退路はあって無いようなものであり、休養を取れていたとしても、旅順港へ着けば戦争の始まりである。そういった状況下であったので、船内では緊張した空気が張り詰めていた。


「大湊はこの作戦どう思う。」

静かな船員室。同室の杉野すぎの 麟之助りんのすけ上等兵曹が読書中の朧次郎に声を掛けた。彼等、爆破装置点火係は、現在睡眠時間の最中であったが、朧次郎は眠るに眠れず、寝所にて身動ぎをしていた。そんな彼に起こされたのか、はなから眠れて居なかったのか。何時の間にか杉野も起きて居た様である。時計を見遣れば、そろそろ旅順港へ到着する頃合であった。

船の外は暗く、月明かりに照らされた波がさざ波を立てている。朧次郎は顔を上げた。

「どうとは何だ。」

「今回のものは決死の作戦と言ってよいだろう?我々の隊が全滅したら、どうするつもりなんだとは思わんか。」

杉野は、以前から朧次郎と親しく、階級を気にせず話す仲であったが、今回の話は流石の朧次郎も注意せざるを得ない内容である。

「別に死滅したとして、露軍の戦艦を沈め、我々日本軍の脅威を消せるのなら、それで良いだろう。御国のためになる。」

旅順港は今の日本軍にとって脅威だ。露軍が侵攻してくれば、大勢の国民が死ぬ。それを防ぐのが朧次郎たち海軍兵の仕事だった。

杉野はため息を吐く。呆れているようだった。

「朧次郎はばか真面目だな。上層部はおれ達のことを決死隊と呼んでいるらしい。」

「…何か不満でもあるのか。」

外の波は相変わらず穏やかに揺れている。杉野は徐ろに立ち上がった。

「不満しかないだろう!俺は死にたくないんだ。故郷に結婚を約束した人間だっている。そいつを残して死にたくない、普通の事だろう。でも、おれ達の上官は士気が下がると言って、普通の事を言っただけの奴を罰する。使い捨てとはなんだ。国が守れても死んでは意味が無い。なあ大湊、ただ生きたいと、そう願うのはそんなに無理な願いなのか?」

縋るような目で、彼は朧次郎を見つめる。朧次郎は彼の方に目をやらぬまま答えた。

「…無理な願いだろ、おれやお前みたいな兵士には。」

静かに吐き捨てる。それに。

「おれもお前の上官だ。」

ここで初めて朧次郎は本から顔を上げ、杉野の顔を睨んだ。彼ははっと一笑し、侮蔑の表情を浮かべる。

「たかが少尉候補生のお前を上官だと認めた覚えは無いな。」

そう言い捨て、杉野は席を立った。

「おい、起床時間前に勝手な行動をするのは止せ。」

その様な朧次郎の声が、聞こえているのか否か。杉野は身支度をすると、一足先に外へ出て行ったのであった。


暫くして、外から声が上がった。

「総員、起床!!」

瞬間、多数の兵卒の身支度の音と、次々と扉が開く音がした。即座に外へ出れば、兵卒達が慌てて各々の位置へ着いているのが見える。雨水で洗濯された白い軍服へと着替え、千にも及ぶ弾丸を詰めた弾薬箱と三八式歩兵銃さんぱちしきほへいじゅう(当時の陸海軍で使用されていた銃)を携帯し、各々が部屋前へと整列した。手入れされた靴を履き、各々の等級証を身に付けて並ぶ。その洗練された姿には、目を見張るものがある。素早く準備をした朧次郎も、列へ倣った。

「点呼!」

水兵長が報告をし、合図が出るやいなや持ち場へと着く。沖の方角へ目をやれば、露西亜の艦隊が目の前に鎮座していた。

信号兵は旗を持ち、それぞれの船に信号を送っている。みれば、朧次郎の乗る福井丸と共に旅順港へ向かっていた船、弥彦丸・米山丸が艦隊へ向け、突進していた。誰ぞの叫び声が聞こえたかと思えば、鼓膜をつんざく大きな音がする。

「我々聯合艦隊は露軍と接触した!!!!!総員、用意!」

窓硝子は割れ、船が大きく揺れる。少佐の声を合図に、朧次郎含めた爆破装置点火係は位置に付き、爆破装置へ火をつける。朧次郎達が発火させた装置は、時間が経てば発火し、爆発することだろう。これで、露軍の戦艦に衝撃を与えられる。後に残された任務は、用意された小型船に乗り込み、撤退するのみである。


然し、入隊したばかりと見える兵士は震え、狼狽しており、撤退が遅れていた。戦場の喧騒に慣れていないのだろう。船内の淀んだ空気が、揺れる。このままでは爆破に呑み込まれ、命を落としてしまう。そう考えた朧次郎は、彼を助けまいと口を開いた。

「お前はどこの聯隊れんたいの者だ?名は?与えられた場所はあるのか?」

瞬間。彼が言葉を口にしたとき、再び大きな破裂音がした。先のものより大きいものだ。しかし、音の発生源は朧次郎が乗船する福井丸でも無ければ、他の日本軍艦隊でも無かった。

露軍の迎撃だ。

焦燥の波が、彼の心を浸す。船艦が激しく揺れ、目の前にいた兵士が爆ぜた。兵士は、爆発の衝撃により船体に身体を打ち付け、骨があらぬ方向へと曲がっている。頸が折れている所をみると、死んでいるのは一目瞭然であった。

ふと、朧次郎が辺りを見渡せば、船内は血の海である事に気が付いた。打撲の衝撃で死んだと思われる者、飛び散った血。片足を負傷しながらも、歩き続ける者。見るも無惨な光景だ。然し留まる事は出来ない、怖気付く事は出来ない。生き残った者は兵卒達を纏め、指揮を取っている。兵達は、各々の役目を全うしようと、戦禍の中でも粛々と動きを続けていた。次々と、予め用意された避難船へ乗り込み、避難を試みている。休む暇など無かった。朧次郎は避難船に乗り込んだ兵達へ向け、口を開いた。

「総員、点呼はしたか!!」

「人員確認は行いました!然し、杉野が!杉野麟之助上等兵曹が居りません!彼以外の兵は居るのですが…。」

朧次郎は思わず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。あいつ、何処へ行ったのだ。

「成程、良いか!南へ進め!事前の作戦とは異なるが、露軍からできるだけ離れるのだ!北に行けば連絡船が通る場所へと出る。連絡船と出会ったら、通信兵は、通信機を借りて上官に報告をしろ!」

今は一分一秒が惜しい。早口で、然し聞こえやすいような声で、兵卒達へ指示をする。

「杉野はおれが探す。お前たちは、避難を第一としろ。返事は不要!行け。」

朧次郎の合図を聞いた兵卒らは、一斉に南へと漕ぎ出す。離れていく避難船を尻目に、朧次郎は船に戻った。

船内は、先程より静かになっていた。朧次郎が指揮を執っている間にも避難は進んでいたようだ。

「杉野!おい、杉野麟之助!何処に居る。」

船を三周しても、朧次郎は彼の姿を見つける事が出来なかった。

「杉野!聞こえるなら返事をしろ!」

そう叫んだ瞬間である。がたり、と後方で音がした。音の鳴る方を仰ぎみれば、瓦礫に足が挟まっている男の姿が目に入った。顔を確認する間もなく、朧次郎は地面を蹴り、駆け出して行った。

「気張れ!いま手伝いに行く!!」

そう言葉を発した瞬間、鼓膜が破れる程の音が鳴ったかと思うと、再び露軍の爆撃が福井丸を襲った。荒れる波に、船内へ海水が侵入してくる。激しい音と共に、上から瓦礫が落下した。避ける間も無く朧次郎の上を落下したそれらは、彼の左半身へと直撃する。痛みに強い朧次郎でさえも悶えてしまうような燃えるような痛みに、思わず声を洩らした。考えという自我の入り込む余地など無く、只『痛い』という感情のみが、彼を支配していた。再び露軍の水雷が、福井丸に着弾する様な音が、辺りを包む。

ばきりばきりと、船板が崩壊していった。白む視界は彼に終を感じさせる恐ろしさがあったのだ。

血の不味い味が口に広がり、唇を食む。視界にひろがった朱を最後に、彼の意識は遠のいていったのだった。



鼻腔から感じるのは、硝煙と血、そして磯の匂い。長い戦乱の後に、辺りを包んだのは静寂であった。

ざあ、ざあと波が揺れる。瓦礫に当たった膿んだ腕の傷口に海水が染み込み、刺すような痛みが朧次郎を襲っていた。爆弾が掠めたのは左半身であり、火傷した身体では、海上に散らばった近くの瓦礫を浮き具代わりに掴むのがやっとだ。

冷えた海水の波が、肌に触れる度に寒く、瓦礫と共に沈んでいた仲間達は、時間が経つにつれ海上へと浮かぶ。

血と肉片が混じる海。それがどうにもこの世ならざる様相で、まるで地獄に落ちたのかと錯覚する程であった。露軍、日本軍の船がどちらも見えないのを見ると、大分沖まで流されていたらしい。

ぷかぷかと浮いた仲間だったもの達が、死を朧次郎に感じさせた。


なるほど、おれは死ぬのか。


怪我の対処が出来たとて、こんな沖の方では救命船はおろか、人に見つけてもらうのも難しい。万事休すといったところだ。果たして彼にできるのは、静かに死を待つのみなのかもしれない。

そういえば。ふと、同室の杉野兵曹長が放った言葉を思い出す。

『ただ生きたいと、そう願うのはそんなに無理な願いなのか。』

無理な願いだ。それが我々の仕事であり、我々の犠牲と引き換えに、大勢の国民の命を守れるのだから。国を守れるのだから。おれの考えが間違っているなど、誰が言えよう。

朧次郎は痛む頭で考えを巡らす。思考する間にも、怪我をした体はじくじくと朧次郎の体力を蝕んでいった。


露軍の攻撃の最中、彼はどこに居たのだろうか。そういえば、婚約者が居るとか言っていた。

そのひとは、彼が死んだら悲しむのだろうか。果たしておれに、そんなひとは居ただろうか。

朧次郎は自身の家族へ思いを馳せた。

彼の家族は、母と死別してから、それぞれの心が離れてしまっていた。陸軍に入団後優秀な将校として活躍している朧次郎の兄は、休暇を取得する事のできる身分でもあるにも関わらず、家へ帰ってくる事は無く。父は、朧次郎に教育投資はしてくれていたものの、事の他子育てに関しては人任せなところがあった。祖母も女中も、複数いる弟達の世話で手一杯であり、彼は家に居て居ないようなものだった。

そんな環境にて育っていた彼にとって、杉野の意見を理解するなど、違う世界の価値観を理解するようなものである。

彼は思考を巡らす。

そろそろ瓦礫に掴まる体力も無くなる頃であった。無い筈の桜の花弁が、視界の端へちらりと見えた気がする。そうして朧次郎が溜息を吐いた、その時であった。

声が、聞こえたのだ。

「もし、そこの御方、お身体は大丈夫ですか。」

ふと思わず声のした方に振り返れば、そこはどうにも奇妙な光景であった。いつから居たのだろう。彼の後ろには、小さな船が在ったのだ。

声の主の乗る船は何の変哲もない。普段軍医や救命隊などが使う救助船の小さいものだが、船長がどうにも奇妙である。

新雪を浴びたような麗しい白髪を後ろに束ねており、葡萄色えびいろの簪で留めている。解れた髪の一部が、太陽に反射して光っていた。その瞳は、朝焼けをそのまま閉じ込めたかのようなものだ。駐在武官ちゅうざいぶかん時代に、露西亜で朧次郎が見た絵に描いてあった天使のような姿であった。

幻覚としては酷く出来すぎている。

「お前は、おれを黄泉の国へ迎えに来た天使か。」

思わず突拍子も無い問いが口からつい出る。すると、少年は眉を下げ、困ったように笑みを零した。戦場に似つかわしくない、少年の笑顔。

「…残念ながら天使では無いのです。僕は医者です。見た所、左半身を負傷しているようですね。」

少年は言葉を続けた。

「言葉を話せる所を見ると、肺は損傷していないようだ。火傷した身体で海水に触れると炎症を悪化させます。掴まれますか?」

彼は朧次郎へ手を伸ばす。朧次郎は朦朧とした頭で彼の手を右手で掴み、少年に手伝って貰いながら船へと乗った。

「酷い怪我だ、それに雑菌が入り込んてしまっている。これは早急に船で治療した方が良さそうですね。」

少年が言った。これは幻覚ではなく、現実。

助かったのか。

朧次郎の頭がそう認識したとき、空腹から来る頭痛に暫く食事を取っていなかったことを思い出した。

「腹が減っていそうですね。」

少年の問に彼はこくりと頷いた。



少年は自身の懐から、携帯外科器(携帯用の救急具)を取り出し、朧次郎へ簡単な手当を試みた。

「火傷が炎症になっていますので、この冷水で軽く雑菌を流して下さい。」

少年は水の入った瓶の栓を空け、朧次郎の火傷痕を水で冷やす。服の上からとはいえ、流れる水はとても冷たく、彼の怪我の痛みを和らげる。

「船に着いたら、きちんと手当をしますので、差し当たってはこれで応急処置としましょう。これを左半身へ巻いておきますね。」

そう言って少年は、朧次郎の服を慎重に捲り、左半身に包帯を巻く。その所作は優秀な医者のものであった。

「…慣れているのだな。」

ぽつり、と朧次郎が呟く。少年はふ、と微笑んだ。

「医科大学を卒業しておりますから。」

「お前、名はなんだ。」

ふと、朧次郎が尋ねる。

「蛍です、廣瀬ひろせほたる。」

「……おれは大湊朧次郎だ。」

「成程朧次郎さん…。よろしくお願いします。」

にこり、と蛍はその笑顔を朧次郎へと向けた。

彼の透き通るような声は、その距離の近さを不快に感じさせないものがある。笑みを浮かべた、琥珀のような瞳が彼を捉えていた。


暫く時間が経てば、船は進むのをやめた。

ふと、見上げれば、そこには旅客船ほどの大きさの船が鎮座していた。びしりとこびり付いた貝と錆が、見るものに威圧感を感じさせる。少し洋風でもある、奇妙な船だった。蛍の言っていた、『船』に着いたのだろう事は想像に容易だ。

蛍は大きな船の横に自身の船をつけ、梯子を登った。

「いま人を呼んできますから、貴方はここで安静にしていて下さいね。まだ処置が完了していませんから。」

少年の言葉に頷けば、暫くした後に複数人の男が来、朧次郎を担ぎ上げた。等は先の船を紐に繋げ、船内へ引き揚げた。

船内は、朧次郎の知る船とは随分と様相が違っていた。心做しか客船に近いような形である。撞球台など、遊戯用の玩具が無いところを見ると、客船を改良したものなのかもしれない。赤十字運動等で使われている病院船とも違うそれは、奇妙であった。

部屋に入れられ、近くの寝所へ横にされる。暫く待てば、蛍がお盆に乗った汁物と白米を持ち、扉を開けた。

「ゆっくり食べて下さい。」

彼は朧次郎の怪我を思ってか、匙を置く。これなら片手でも使えるだろう。朧次郎は匙に手を掛けると、香ばしい匂いが鼻を掠める。懐かしいような、暖かいような気持ちが胸を浸した。ふと、朧次郎は言葉を零した。

「母の料理を思い出す。あのような時間が、真に大切なのかもしれん。」

そっと言えば、先刻まで朧次郎の怪我へ消毒などの手当をしていた蛍が、顔を上げる。

「あのような時間とは?」

朧次郎は思わず瞳を伏せた。

「平穏に、平和に、暮らしている時のことだ。おれは昔から戦争の為に生きてきた。戦地で戦うことを夢見、日本軍が勝利したと聞けばそれは喜んだ。然し、戦いが起これば人は死ぬ。国を護るために戦っているのに、国民が死ぬのはおかしな話だ。」

蛍はただ黙って話を聞いていた。

「人を護るために、人が死ぬ。おれ自身、戦地の喧騒に慣れ過ぎて、平穏に暮らしている時間を大切にしていない気がしてしまう。」

蛍は彼の話を聞いて暫く瞳を伏せた。そして、優しい笑顔を朧次郎へ向ける。

「僕は、この海で起こっている戦争に付いて行っては、貴方のように傷付いた兵達を癒していました。先程貴方を引き揚げた者達も、先の戦争で療養が必要になった方々です。今はあんなに動いて、私の仕事を手伝ってくれていますが、初めは箸を握るのもやっとでした。時折、何故私が戦場の天使紛いのことをしているのか聞かれますが、それは、戦地の人々を救うのが私の正義であり、私の望むことだからです。彼等が療養を終えて、御礼を言って下さる時にはもちろん充足感を感じます。平和であれば、良いのです。私にとって、医者としての仕事が無いことほど貴いことはありません」

蛍は一呼吸おき、再び言葉を紡ぐ。

「私達にとって一番大切なものは、平穏な日々です。つい、忘れてしまいがちですが。」

彼はにっこりと微笑みを浮かべた。


きっと、この男は人という生き物を心から愛しているのだろう。其のような考えが、心を支配せずには居られなかった。

彼は、軍で様々な種類の人間がいるのを知った。私利私欲を肥やす上官、威張る事しかせず、下士官の事を考えぬ同期。しかし、そんな愚図ばかりかと思えば、強い信念を持ち、下士官の為に、ひいては国の為になる事が何かを常に考えている者や、戦いや任務により生命を落とした者の墓参りを毎年している者もいる。

しかし、そのような人々の存在を知ると同時に、この世界で生きていく上で、見返りを求めずに人を愛する事がどれだけ難しい事なのかを、彼は知ったのだ。


蛍のその立ち振る舞いからは、彼のこれまで生きてきた半生を感じさせる。底無しの愛によって、人を救おうとしていた。

朧次郎は自身と同じくらいであろう彼の真実力を、間近で見た気分になったのである。

出会って間もない少年を信頼し、尊敬している自分に、何とも言えぬ心持ちであった。

思わず、無言で手元にある料理へ口を付ける。蛍はその様子を、じっと見ていた。


出されたスープを、火傷跡の残る手を使い、匙で掬う。茶色く、程よい焦げ目の付いたビーフスチウの匂いは、彼の空腹を刺激する。口へ運べば、彼は目を丸くした。それは、驚く程に美味であったのだ。

柔らかい肉が溶け、肉汁が溢れる。噛めばほろほろと崩れ、溶けていく。一目見ただけでは気付かなかったが、同じく煮込まれた人参は噛みやすいように小さく切られており、黄金色の玉葱も出汁が出ていて、頬が落ちる美味さであった。何より、具材に絡んだ程よく甘いスープが、非常に美味である。

これを彼が作ったのだ、と考えると驚きであった。白米との相性も抜群である。朧次郎は思わず、感嘆の声を漏らした。

そんな彼を傍目に、蛍は朧次郎の左半身へ包帯を再び巻き、処置を終える。

ふと、何かを思い出した顔をすれば、そのまま彼は近くの書棚の引き出しへと手を掛けた。数刻何かを探す素振りを見せた後に、小さな箱を取り出し、朧次郎の前へと置く。

「さっきの話を聞いて思い出しました。これ、差し上げます。」

箱は細長く、掌で覆うことの出来る大きさであった。

「これは、開けて良いのか。」

食事を食べ終えた朧次郎がそう問えば、彼はこくり、と頷いた。

何か神聖なものに触るかのように、箱の包をとけば、中からは黒く奇妙な形のペンが出てきた。

「何だ、ペン…か?」

朧次郎は思わず眉を顰め、怪訝な顔をした。

持ち手と推察される部分は黒く光沢がある。

ペンの部分は鋭く尖っており、菱形に象られた金色の部分の裏にあるカラクリのようなところにインクを染みさせているようだった。

金の部分には刻印がされているようで、英語で書かれたとみられる文字が小さく印字されていた。

きらきらと反射する光が、ほんものの金を思わせる。これは…

彼からの贈り物にやっていた視線を移し、じっと彼の目を見つめる。

「個人的な貴方への贈り物なのですが…そうですね。貴方の心の病を治す為の、医者からの贈り物だと考えて下さい。此方は萬年筆と言うものです。羽根ペンなどと同じ使い方をします。」

蛍はさらりとした口調で答える。

「それを差し上げます。それで、故郷の方へ手紙を書いてください。」

「手紙?」

「はい、手紙です。貴方はきっと、軍での生活に慣れ親しんでしまったが故に、軍から離れても心は置き去りにしたままになってしまうのです。手紙は、離れている心を本来の場所へ戻す手助けになると、私は思っております。」

何とも突飛な話だった。朧次郎には文才も無く、自分の手紙を家族が望むなど想像もつかない。

「手紙を書いたとて、おれの家族は読んでくれるかも分からん。そもそも女中は文字が読めなかった。」

少し俯く。しかし、蛍は明るい声色で、言葉を紡いだ。

「読めずとも良いのです。そもそも、朧次郎さんの戦地にある心を取り戻す為のものですから。日記を書き連ねる気持ちで、日々の出来事を書いたらよろしい。」

彼の言葉には、朧次郎を納得させるものがあった。流石医者、といったところだろうか。


そうか、手紙を。


朧次郎が納得している様子を見て、蛍は微笑んだ。



朧次郎が船舶生活を初めて二日。南下を続けていた船であったが、未だ港に着くことは無かった。

さて、蛍の元で生活を始めて、朧次郎が分かった事が三つある。

一つ目。蛍が匿っている怪我人は複数いるという事であった。

彼は度々小さな船に乗って、戦場に向かう。そして、怪我をしている海軍兵を連れてきてはその治療と世話をしていた。然し、船の上では専門的な器具も少なく、大掛かりな手術を行うことも困難であろう事は朧次郎も理解している。そんな状況下にも関わらず、船にあるもので手術をし、出来得る限りの治療をしている蛍の医師としての実力は確かである。

二つ目。蛍は意外にも、顔が広い様であった。大型船とはいえ、無論、食糧等の物資補給を行っていない訳では無い。彼が言うには、二週間に一度は物資補給と入院が必要な患者の引渡しを兼ねて小樽おたる港へ上陸を行っているらしい。小樽港は天然の良い港であり、近くの札幌は、大きい町である為物資補給にはもってこいの場所であった。蛍は、赤十字病院のうちの一つに旧知の仲の知り合いがいるらしく、赤十字病院にて、患者の引渡しを行う事もあるらしい。然し、幾ら補給を行っているとはいえ、物資の少ない船内では、昨日朧次郎が口にした牛肉が如何に高級なものかは伺い知れない。船員の話によると上陸は二日後であり、朧次郎が望むのであれば、赤十字病院にて専門的な治療を受けられると伝えられた。

三つ目。旅順港閉塞作戦は失敗した、という報告が上がっている様だった。朧次郎は、体が動くようになるやいなや、船内の通信室へと向かった。無線機、所謂無線通信機と云えば、当時は殆ど使われておらず、本格的に軍にて使用され始めたのは明治三十六年頃からである。然し、ヨーロッパ諸国では既に無線機が開発されており、運の良い事に、朧次郎達の乗っている船は海外で乗り捨てられて居た船を再利用したものらしかった。

一刻も早く、情報を手に入れなければいけないという危機感に襲われていた朧次郎は、さして得意でも無い機械に手を出した。

通信室にある壊れた無線機の周波数を合わせ、軍の無線を受信する。

電力を供給し、軍の使っている周波数に合わせれば、海軍同士の通信を辛うじて聞き取る事ができる。

報告によれば、朧次郎達率いる福井丸は、露軍の迎撃を受けた後に、露西亜駆逐艦の砲弾を受けて沈没した、との事だった。その他の艦隊も自爆や、被弾による沈没等で、旅順港を閉塞させるには至らなかったらしい。


運が悪かった、の一言で済ませて良いものなのか。


この頃、朧次郎は軍に対して懐疑的な意見を持ち始めていた。軍の無線によれば、今回の戦では信号兵が一人、機関兵が一人、そして。

杉野と朧次郎の四名が行方不明になっており、戦死扱いとされていた。

平時であれば、一刻も早く戻り、生存を報告。戦前復帰としたい所であったが、何故か気が進まなかった。怪我が全治していない為と云えば、そうなのかもしれない。然し、自分が正しく、御国の為と盲目的に信じる事が困難になっていた。

日中の仕事の手伝いを終え、夕食を馳走になった後、まだ完治したとは言えない足で、廊下を進む。床板の軋む音と、仄かに薫る木の匂いは今や安心感さえ生んでいた。


おれは何故、国の為に人を殺せなくなったのか。


夜の帳が降りた後の船内は、静寂に包まれている。黒黒として、右も左も見えぬ程の闇が、辺りを覆っていた。然し闇に慣れた目は、艷めく水面と、白く泡立つ小波を視界に映している。考え事をするには持ってこいの場であった。当てもなく歩を進める。

ふと、廊下の先を見やった朧次郎は、動きを止めた。人影だ。他の患者だろうか。

彼は視線を人影の方へやった。


そこには男が居た。

その男は左肩から下を失っており、其の断面と思われる箇所には包帯が巻かれていた。左足にも怪我を負っているのか、右手で持った松葉杖に力を込めながら、時折引き摺るように歩いている。彼の顔に在る火傷跡と、灰色に変色した薄明を閉じた左眼は男の経験した痛みを想像させた。

その男の変わり果てた顔に、否、変わる前の面影のある顔に、朧次郎は確かな見覚えを感じた。

「杉野、、。」

彼の眼前に居るのは、かつて同室であった杉野兵曹長であった。顔の火傷跡が目立つものの、その顔は、紛れも無い当人である。

「ああ、大湊か。」

「おまえ、何故此処に居るんだ、生きていたのか。」

思わず、夜というのを忘れ、大きな声を出す。杉野は、視線を朧次郎へやったかと思えば、再び足元に視線を戻した。

「…死んだ様なものだ。爆風から逃げ遅れて、爆発に巻き込まれた。瀕死の所を、廣瀬蛍という奴に救われた。」

溜息を吐きながら、呟く。

「生きていて良かった。」

「お前もだ、」

心からの言葉であった。



「ああ、杉野麟之助さんの事ですか。」

蛍は、医療具の消毒をしている手も止めぬまま、朧次郎の話に耳を傾けていた。彼は随分と骨ばった手をしており、さほど筋力は無いように感じる。

「麟之助さんは、朧次郎さんよりも二日前に救助した方です。酷い怪我を負っていらっしゃったので、たった三日であそこまで回復されるとは、素晴らしい事です。」

此の儘だと、医者の仕事が無くなってしまいますね。彼は、少し嬉しそうに笑った。

「それにしても、お二人がお知り合いとは知りませんでした。世間とは、狭いものですね。」

朧次郎も、うむ、と頷く。にこりと笑顔が返ってくる。ふと、朧次郎は彼の髪へ視線を移した。蛍が微笑む度、光を溜めた白髪が揺れるのだ。窓から差し込む月明かりを反射し、煌めいている。

「お前の、その髪は。」

そのまま距離を詰め、彼の髪へ手を触れた。葡萄色の簪が揺れる。桜の香りが、薫った気がする。朧次郎は言葉を続けた。

「その白髪は、生まれつきのものなのか。」

いきなり触れられた事に驚いたのか、蛍は目を丸くし、暫し固まっていた。その様な彼の反応に、首を傾げていた朧次郎であったが、次第に我に返っていった。

「…すまない。幾ら親しくとも、いきなり人に触れ、人の容姿を指摘すべきでは無かった。先の非礼を詫びさせてくれ。」

申し訳ない、と頭を下げる。蛍は、暫く考える素振りをした後に、漸く口を開いた。

「先天性白皮症。肌や髪の色素が薄い症状で、『白子』や『アルビノ』とも呼ばれます。突然変異で生まれる、皮膚が白く、赤い瞳を持つ生物の総称、だと言えば分かり易いでしょうか。瞳の色に関しては、赤のみでは無いので、私の場合も目が赤い訳ではありませんが、髪と肌に関しては、生まれつきの病なのです。」

朧次郎は、目を見開いた。彼が自身の事を話すなど、滅多にない事である。

「少し、昔話をしましょうか。」

蛍は、何時の間にか用具を片付け、手を止めていた。近くにある椅子を引き、朧次郎にも座るよう促す。平時は他の患者が座っている事もある場所であったが、煤をぶちまけたかの様な夜の帳が降りている今。そんな刻では非常に静かな空間である。

「私は、双子だったのですよ。」

彼は瞼を伏せた。良く見れば睫毛も綺麗な白髪で、隙間から美しい瞳が覗いている。

きれいな人だと思わない奴は居ないだろう。朧次郎は、思わず見蕩れてしまっている自身に気付いた。蛍は構わずそのまま言葉を続ける。

「多胎妊娠だったそうで、私は双生児として産まれたんですよ。然し、日本で双子は忌み子として扱われて居るでしょう?双子であり、白髪の赤子。目立った赤子であったが故に、生まれて直ぐに母親は、親族から私を殺せと言われたそうです。」

彼は自嘲気味に笑う。

「この容姿であれば、気味悪がられるのも分からなくはありません。私だってそう思います。でも、私の母は親族の言う通りにはしなかった。彼等の目もあり、私を育てる事が困難だと悟った彼女は、町医者の家の前に事情を書いた手紙と、僕を置いて去ったそうです。育ての親から聞きました。」

朧次郎は、この時やっと、目の前にいる男も同じ人間なのだと感じた。普段温厚で、人を愛して止まない蛍も、皆と同じように怒りを感じる事もあるのだ、と。彼は心做しか冷たい口調で続ける。

「哀しいという気持ちはありません。放っておけば、死を迎える予定だったのですから。でも、血を分けたもう一人の兄弟は私の事を知らずに生きている。少し悔しいとは思いませんか。」

蛍は眉を下げ、困ったように微笑んだ。その表情を見れば、そうか、と言おうとした言葉も引っ込んでしまう。


哀しくない、か。


冷めた瞳で虚空を見つめる蛍に、暫し沈黙していた朧次郎だった。然し、ふと、決めたかのように沈黙を破る。

「……俺に嘘を吐くのは一向に構わん。真実を言う必要など無い。しかし。」

朧次郎は、蛍の瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を紡いだ。

「…自分に嘘を吐くのだけは止めておけ。それは後に呪いとなって、お前を縛り付けてくる。」

蛍は、はっと息を飲んだ。

「何故…?」

思わず、問が零れ出る。その目は見開かれている。

「さあな…。強いて言うなら勘だろうか。お前が無理をして自身に言い聞かせて居るように感じた。」

目の前の朴念仁の黄金の瞳に蛍の瞳が反射する。その景色は、まるでこの世の中で一番美しい景色だと、蛍へ感じさせた。

「……そう、ですか。」

蛍は暫し黙り、考えこんだ。数度目の静寂。どうしようも無い寂寞のみが、その場に残っていたのだった。冷たい海風のある宵が、そこにある。

浮かんでは消える波が、淋しさの様に二人の心を満たし続けていた。



朝、彼等の乗る船が小樽港へと上陸した。日の出が、遠い海の向こうから滲んでいる。日の光は、寝所に設置された窓の隙間から顔に落ちていくのを感じた。あたたかな空気に触れ徐ろに瞼を開き、辺りを見渡せば起きている者も数人居る様であった。

洗濯と補修をして貰った軍服へ、袖を通し、蛍のいる医務室へと向かう。医務室の傍からは蛍の話し声が聞こえた。他の患者の診察を行っているのだろう、と静かに扉を叩いた。

「少し待って下さいね。」

蛍が、そう言葉を発する。暫し待っていれば、扉が開かれ、綺麗な包帯を巻いた杉野と、器具を消毒している蛍が目に入った。

「あ、朧次郎さん、お早う御座います。麟之助さん、歩けるまでには回復されていて。本日船から降りられるから、淋しくなると話をしていたのです。」

杉野は口を開いた。

「大湊は軍に戻るのか。」

朧次郎は思わず口を噤んだ。

「…分からん。ここ数日、自身の信念が揺らいでいる気がするのだ。暫く休暇を貰おうかと考えている。」

朧次郎の言葉に、杉野は軽く頷いた。

「俺は除隊する。この怪我では戦えぬだろうし、田舎で静かに療養しようかと考えている。喧騒から離れれば、少しは落ち着いてくるだろう。」

彼は、不器用に笑った。杉野は徐ろに立ち上がると、松葉杖を使い、扉の方へと歩を進めた。

「俺は先に降りている、廣瀬、助かった。後で手紙を出す。手伝える事があれば、何時でも訪ねてきてくれ。」

そう蛍へ伝えると、深々と礼をした。蛍はといえば、作業の手を止め、にこりと笑顔を浮かべていた。然し、どこか心此処に在らずといった雰囲気で、何やら考え込んでいる様だった。杉野は、蛍の返事も待たずに、ぎこちない足取りで外へと歩いて行った。爽やかな波風と磯の匂いが、相変わらず船を包んでいる。

「変わらず忙しないやつだな。」

朧次郎は、そう呟くと、蛍に向き直った。

「さて、改めて感謝させてくれ。数日間ではあったが、本当に充実していた。美味い手料理も、床に寝なくて良い暮らしも、久々だ。本当にありがとう。」

蛍の瞳を見つめる。彼はゆっくりと呼吸をした。

「僕は、私は、そこまで。」

蛍はぼそり、と零した。朧次郎は再び口を開く。

「おれは、お前程優しくは無いし、こんな性格だ。人の感情の機微など分からないし、気にせず生きてきた。お前のその優しさが、沢山の人を救っているのは確かだと感じる。現にお前の目の前にいる男は、お前が救った人々のうちの一人だ。」

明瞭な声で話せば、蛍はゆっくりと顔を上げる。朧次郎は続けた。

「おれが戦争について、命を護ることについて語ったときを覚えているか。軍では、あの様な世迷言を言えば、真っ先に処分される。まず降格は免れないだろう。しかし、お前は、そのような考え方もあるのだ、と肯定した。お前の様なひとに出逢えて良かったと、心からそう思っている。」

蛍は少し困った顔をした後に、照れた様に笑った。最後に深々と礼をして、朧次郎も扉へ歩を進める。

「朧次郎さん。」

扉へ手を掛けた時、蛍は彼の名前を呼んだ。蛍は、言葉を発するつもりは無かったのか、声を掛けた自分に驚いていた様だった。口を開けては閉じ、を繰り返した後、黙ることにしたのか口を噤む。零したのは、ただ一言。

「お元気で。」

彼はそう口を動かした。


朧次郎は、歓笑を頬へ浮かべた。



朧次郎が家へと戻れば、兄弟や使用人達が、涙を流して迎えてくれていた。心配を掛けてすまない、と一言伝えれば、生きて返ってくれただけで良いと、皆口を揃えて話した。

変わらぬ部屋の椅子に座り、腰を落ち着ける。

蛍に貰った萬年筆を、くるくると回した。

瞬間、ペンの先が回り、中の螺やら部品やらが、飛び出してしまった。壊していないだろうか、と慌てて部品を拾おうとしたその時である。中に、何か薄い紙が、筒状に丸められているのに気が付いた。

とんとん、と空いている部分を机に叩けば、その紙はいとも容易く落ちてきた。どうやら、現像された写真の様だ。

潮風にさらされていたのだろう、所々滲んでいたが、写真に写る二人の人物の顔は、明瞭に見る事が出来た。その人物は、若い頃の母と。


蛍の面影のある子供、であった。


驚きの余り、目を見張る。すると、使用人の一人が、朧次郎へ声を掛けた。年老いているというのにきびきびと働く、非常に優秀な者だ。

「朧次郎坊っちゃん、その萬年筆を何処で?」

朧次郎は、顔を上げた。

「ハツ…知っているのか。」

自身の背に、厭な汗が流れるのを感じる。彼女は不思議そうな顔で言葉を続けた。

「知っているも何も。それは、亡き奥様が大切にされていたものです。」

その一言で、もう十分だった。

朧次郎の琥珀の様な瞳が揺れる。鋭い電撃が脳内を駆け巡るのを感じた。

全てに合点が行く。頭がおかしいと言われていた母の行動には、最愛の息子の様子を見たいという、母として子を思う気持ちが隠れていたのだ。彼が朧次郎と同じ琥珀色の瞳をしているのに気付いた時に、考えるべきであった。

母は、彼を捨てたまま、放っておいていた訳では無かったのだ。病魔に犯される前から、蛍を預けた医者の元へ通い続け、様子を見ていたのだ。

病の為に越した後も、わざわざ元の医者へ母が執着していたのは、その医者以外を信用出来なかった訳では無い。

蛍の事を気にかけていたのだろう。


暗く、暗雲の立ち込めていた海に一筋の光が射したかのように、明瞭な考えが朧次郎を支配する。

この写真を撮り、丁重に萬年筆の中へしまい込んでいた蛍は、自身と朧次郎が血を分けた兄弟であると、知っていたのだろうか。

朧次郎の顔に、亡き母や、自身を見捨てた父の面影を、見たのだろうか。

朧次郎の心には、情念が熱を帯びて溢れていた。

気付けば彼は、萬年筆を片手に、小樽港へ走り出した。

蛍は何故、自身の生い立ちを語ったのか、何故、母の形見である萬年筆を朧次郎へ渡したのか。


気付いて欲しかったのだろうか、只の気紛れだったのだろうか。別れ際に、彼は何を言おうとしたのだろうか。

聞きたい事が山積みである。

吹き荒ぶ春風と、散り際の桜の花弁が朧次郎の頬を掠めた。


どうか、出航までに間に合ってくれ。


腕を振り回し、脚で地面を蹴りながら、ずっとそう願っていた。




藺草の薫る畳の一室で、月明かりに照らされた机で一人の女が萬年筆を片手に紙に向かっていた。

心臓病の病を患っている女にとって、ものを書くのは、非常に困難な事であった。それでも、書くのを止める素振りは無い。

静かな夜の空間に、萬年筆と紙が擦れる音だけが響く。

彼女は手を止めると、机の上に置かれた封筒に、紙を入れた。

廣瀬と宛名の書かれた封筒に、手紙を入れれば、ふわっと桜の匂いが鼻を掠めた。

ふと、女は窓を見やった。空いた窓から吹き込む風と桜の花弁が、彼女に春を感じさせる。

舞い降りてきた桜の花弁を見、女は微笑んだ。黄金色の瞳を伏せる。


春の空へ浮かぶ月のように、川辺のほたるのように。

我が子が光を、しるべを見つけられますよう。


春の朧月はただ煌々と闇を照らすのみだった。

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春の標に、朧月。 朝霧に唄う。 @Shell67297

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