70
「あ」
壁の穴をセメントで埋めてたら、結構な揺れ。
推定震度四くらい。折角綺麗に均せてたのに、思いっきりズレた。なんてこったい。
〈ちっ、マナーの悪い奴等め。近所迷惑も考えず暴れやがって〉
公衆道徳ってもんを知らねぇのか、と溜息混じりの苦言を呈すアベル様。
少なくともベルベット様にその手の常識的配慮を求めるのは、あまりに酷だ。
魚に陸地で生きろとか、そういうレベルの要求。無茶振りするこっちが悪いまである。
と言うか。
「今の、工業区の方からなんですか?」
〈あァ? そりゃそうだろ、他に何があるってんだ〉
そんな馬鹿な。
視聴覚のリンクを切っても現在位置くらい分かる。ベルベット様は、あの廃工場近辺から大きく動いていない。
道なりに歩いて一時間近い距離。
なのに、手元が狂うほどの振動を届かせるなんて。
「向こうで一体何が……」
〈さァてね。ま、盛り上がってるのは確かだな〉
肩をすくめたアベル様が、カカカカカッと床板に釘を打ち付けて行く。
……この人、金槌ひと振りにつき一本を根元まで打ってる。しかも真っ直ぐ綺麗に。
ただの馬鹿力じゃ絶対無理な芸当だ。器用過ぎ。
〈ン? まずいな、釘が足りねぇ〉
「あ。じゃあ僕が取ってきますよ」
ついでにお茶を淹れて、とっときのお菓子も出そう。
一人での修繕を見かねた善意に甘えちゃってるワケだし、それくらいは、ね。
日々撒き散らされる癇癪の嵐により、一室また一室と邸内が使い物にならなくなってる中、なんとか守り抜いているキッチン。
ここを喪えば食事の用意に支障が出て、我が主人のストレスは右肩上がり。しかもあの人の辞書に自業自得なんて言葉は無いため、矛先が僕に向きかねない。
まさしく理不尽女王。
「えーっと、確か右端の戸棚に……あったあった」
はるばる皇国から取り寄せた砂糖菓子。
いざという時ベルベット様を宥めるため用意した切り札のひとつだけど、賞味頂こう。
ちなみにカモフラージュとして、敢えて別のお菓子を手前に置いといた。
そっちは見事にやられてる。犬並みに鼻が利く相手を欺くのは容易じゃない。
「んー。紅茶より珈琲の方が合うかな?」
珈琲豆は西側だと帝国の一部地域でしか栽培されていないため、かなり貴重品。
加えてベルベット様の好物。角砂糖に添えて豆のままボリボリかじるほど。
なのでこっちも、しっかり隠して──あちゃあ。
「見付かってたか」
記憶より八割ほど減った袋の中身を覗き込む。
ホント目ざとい人だ。なお鍵をかけても壊しちゃうので無意味。手間が増えるだけ。
「まあ匂いも強いし仕方な……うん?」
ふと微かな違和感に気付き、伸ばしかけた手を止める。
…………。
珈琲豆の隣に仕舞っておいた小箱の蓋が、閉じきっていない。
まさかと思い、取り出して検める。
「げ」
三本並べてあった筈のアンプル。
前に使った希釈液よりずっと濃い色味を帯びた、原液の身体強化薬。
それが一本、無くなっていた。
ご丁寧に、注射器と併せて。
【Fragment】 アベル(2)
カラだ。
カラッポなんだ。
息をするのも、苦しいくらいに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます