60・閑話5





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 西方同盟の一角たる、肥沃な山河を擁せし帝国。

 その帝国の中心たる、絢爛豪華なりし帝都。

 その帝都の中枢たる、皇帝一族坐す宮殿。


 そしてここは、その一室。

 中央の書斎机に整然と書類が積み上がった、紙とインクの匂い漂う執務室。


「また第五王子ヨァヒトからのか」


 舌打ち混じりの小さな呟きが、心底忌々しげに空気を打つ。


 声を発したのは、泰然と佇む部屋の主。

 細い指先に摘まれているのは、王国王家の印璽が捺された書状。


 しかし──読むどころか封蝋を割られることさえ無く、それは火にくべられた。


「リュオン様……!?」


 控えていた侍女が青くなるも、焼いた当人は不愉快げに鼻を鳴らすばかり。


「どうせ内容はいつもと同じだ。最早、一語一句諳んじられる」


 乱雑に腰を落とし、微かに軋む椅子。

 眉を顰めた佳人──帝国皇太子リュオン・ザレフェドーラは、肘掛けに頬杖をついた。


「そもそも如何なる条件を持ち出されたところで、余の意向は変わらぬ」


 つまり読むだけ時間の無駄だと口舌を続け、燃え残った灰を払う。


「麗しきイヴァンジェリンは余の姫である。共に育った幼馴染だか知らんが、横槍を入れようつもりならば、全面戦争も辞さん」


 なんとも軽々しく出た物騒な単語に、いよいよ顔面蒼白となる侍女。


「……冗談だ。今の情勢下で大規模な戦など起こせるものか。相手が建国当初よりの同盟国とあっては、尚のこと」


 状況が許すならば本気で刃を向ける意思がある、とも受け取れる語調。

 が、侍女には真意を問う勇気などとても持てず、面を伏せるのが精一杯だった。


「されど余の個人的感情を除いたとて、かの清廉なる神使を帝国に迎えるは急務」


 手を伸ばし、書類の山より引っ張り出される一束の報告書。

 文面に目を走らせたリュオンの表情が、益々険しく移り変わる。


「……遍く水を清める彼女の奇跡が、この国には必要だ」


 近年、帝国にとって頭の痛い問題となっている水質汚染。

 複数の水源から同時多発的に広がっており、リュオンを筆頭とした帝国政府も様々な措置を講じてるものの、解決は元より原因すら掴めていない有様。


 このままでは、本格的に国が傾くのも時間の問題。

 切実な対抗策としても、離れかけた民心を掴み直すパフォーマンスとしても、西方史上最年少の一等神官は、まるで誂えたように好都合な存在であった。


「迎えるまで残り二月ふたつきか。実に待ち遠しい」


 暫し瞼を閉じた後、懐から幾通もの手紙を取り出すリュオン。

 いずれも贈り物の都度、イヴァンジェリンが返した謝状。持ち歩いているらしい。


「姫。余の姫。願わくば、また素顔を見せて欲しいものだ……」


 冷血と評されることも少なくない皇太子の、陶然とした表情。

 こんな一面もあったのかと、未だ側付きとなって日が浅い侍女は心底意外そうに口元を押さえ、主人の姿を盗み見る。






 ──イヴァンジェリンが呪われた廃都マケスティアに連れ去られたという報告がリュオンの耳に入ったのは、この数日後であった。











【Fragment】 リュオン・ザレフェドーラ


 帝国二十八代皇帝の第三皇女にして皇太子。

 炎のような赤髪と、氷のような碧眼を持つ長身の佳人。


 新暦九八年現在、病床へと臥す父に代わって実質的な権限を握る事実上の君主。

 統治者としての能力は極めて高く、水質汚染による国内情勢の悪化が押し留められているのは、彼女の手腕によるところが大きい。


 基本的に冷淡かつ傲慢な人柄だが、イヴァンジェリンには本気でベタ惚れ。その身柄を帝国へと迎えるため、私財の八割を擲つほど。

 ただし同性愛者というワケではなく、見初めた相手がたまたま女だった、とは本人談。





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