44・閑話3
幼い頃の出来事の多くは、正直あまり思い出したいものではない。
当時は会ったことさえ無かった、顔も知らぬ父。
唯一の肉親であった母も決して良い家族とは評し難く、男を連れ込むか酒を浴びるように飲むか、そのどちらかの姿しか記憶には残っていない。
──子供なんて産むんじゃなかった。
事あるごと、母はそう言っていた。殆ど口癖のようなものだった。
そして、それを聞く度、自分は世界で一番無価値な存在なのだと思った。
金切り声で怒鳴られるよりも、頬が腫れるほど殴られるよりも、その言葉が辛かった。
家に居る時は部屋の隅で膝を抱え、常に母の顔色を窺う日々。
そんな暮らしが終わりを迎えたのは、両手の指が埋まるか否かの年頃。
母が死んだ。そうなる以前から、酒浸りと薬漬けで既に身体はボロボロだった。
涙は出なかったし、悲しくもなかった。
けれど埋葬の時、少しだけ肩が震えたのを、おぼろげに覚えている。
身寄りを失くしてからの暫くは、野良犬よりも酷い暮らしだった。
王都西区──取り分けスラムでは、孤児や浮浪者など珍しくもない。
働き口を得るための伝手も学も持ち合わせておらず、たまに来てくれる神殿の炊き出しで辛うじて生き長らえてる住民が半数近くを占める、まさに掃き溜め。
当然のように治安は最悪。常にどこかで怒号が飛び交い、盗みも喧嘩も日常茶飯事。
酷い時には、残飯漁りの縄張り争いで殺し合いすら起こる始末。
衣食が満たされなければ、人など簡単に獣へ堕ちる。
それを、あの街で嫌というほど思い知らされた。
…………。
けれど。何にだって例外はあるということも、併せて知った。
──大丈夫?
幾年経とうと脳裏に焼き付いて色褪せない、世界で一番綺麗な銀色の記憶。
絢爛豪華な都市の澱を全て集めたが如し、下水道も同然の汚濁。
誰もが俯き、這いずるばかりの最底辺に在って尚キラキラと瞬く、月光のような輝き。
──ほら、あげる。食べていいよ。
十日間、土と草しか口に入れられず、餓死寸前だったところに施されたアルパンの粥。
美味かった。あれより美味いものは、後にも先にも食べたことが無いくらいに。
──僕はイヴァン。イヴァンジェリン・マクスウェル。
彼女は半ば死体に等しかった俺を背負い、自分の家へ連れ帰り、ベッドから起き上がれるようになるまで何日も寝ずに看病してくれた。
殆ど年嵩も変わらぬ少女から受けた、生まれて初めての慈愛だった。
──君の名前は?
彼女の優しさが、畜生以下の虫ケラを人間にしてくれた。
以降の生を、人生と呼べるだけのものにしてくれた。
──ヨァヒト……バードレルゴ。
あの出会いは、俺にとっての運命だった。
【Fragment】 イヴァンジェリン(2)
極度のショートスリーパーで、一日九十分眠れば健康を保てる特異体質。
長く周囲の孤児達に施しを与えていた環境から、食が細くなった。
己の価値を他人より低く見積もっているので、泣いて拝めば大抵のことはしてくれる。
いちいち断るのが面倒ゆえ、泣いて拝まなくとも大抵のことはしてくれる。
ただし、側で常にベルベットが目を光らせていることを忘れてはならない。
尚、彼女がイヴァンジェリンをシンカと呼ぶのは『ヴァ』の発音が苦手だからである。
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