第2話


 目覚めると、肩にひどい痛みを覚えた。思わず呻いてしまいそうなほどだったが、表に出すと、両親が気にする。上手に説明できる自信がないから、隠さねば。腕を回したり伸ばしたりすることで、無理矢理にでも痛みに慣れる。十分近く寝床でもぞもぞと過ごし、漸く起き出せた。

 あの男の死は夜遅くのニュースでも、朝刊でも、そして今見ている朝のニュースでも、報じられなかった。おかしい。ただでさえ乏しかった食欲は、完全になくなってしまった。母親に不審がられないよう、サラダのレタスとオレンジジュースだけは口にしたが、味は分からなかった。

 日直なのと嘘をつき、普段より四十五分早く家を出た。昨夜の決心に従うなら、銃を捨てに行くところだけれども、事件がニュースにならないという異変を目の当たりにして、警戒心が働いた。軽々に銃を捨てるのはまずい気がする。先に、あの現場に行ってみる。全てはそれから。

 線路下の薄暗い通路に、変わったところは見られなかった。歩行者達は、特段騒ぎ立てる様子もなく出入りし、平然としてそれぞれの目的地に向かう。その上を、電車が朝から頻繁に行き来していた。日常的な風景が展開される。

 訝る心を抑え、通路を進む。すぐに視界に飛び込んでくるはずの死体は、どこにも見当たらなかった。できたはずの血溜まりもない。

 私はその場で立ちすくみ、考え込んでしまいそうだった。だが、ここに長居していて、果たして吉なのか。早々に立ち去る方がよさそう。いや、よいに違いない。いつもの通学路の途上だから、この早い時刻でも、顔見知りが通りかかることは充分に考えられる。自分では平静を装ったつもりでいても、他人の目には挙動不審に映りかねない。

 ソックスを直すふりをしてしゃがみ、地面を見る。血を拭い取った痕跡ぐらい見つかるはずと期待したのだけれど、認められない。一瞬、場所を間違えたのかと、自らの記憶すら疑ったが、それもあり得ないこと。

 現実的に考えられるのは……ちょっと思い付かない。夢か幻とでも解釈しないと、理解不能。だけど、手に残る銃の感触が、手首や肩の疼きが否定する。夢や幻とは絶対に異なる。

 記憶と現在との折り合いはうまく行かないが、当面のお荷物を処分するかどうかは、早く決断を下さないといけない。銃を捨てる捨てない、どちらを選ぶべきなのか。

 事件が表面化していないのをいいことに、警察に届けるのはどうだろう。拾った場所と時間帯だけ正直に伝え、あとは嘘で塗り固めた説明をすれば、何も疑われずに済むのでは……?

 だめだ。もう一人の自分が真っ向から拒絶。

 レイププラス殺人体験という突発事に上積みして、死体が消えてなくなったという異常事態。何か裏がある気がする。論理的に説明できないけれども、強いて言い表すとすれば……人工的な非日常感。

 私は不意に思い付き、この場所を携帯電話で写真に収めた。どこか分からないが、この場所にも何らかの手が加えられた気がしてならない。無論、死体が消えているのが一番大きな変化だが、それ以外にも細々とした何かが。


 学校に到着した。普段より少し早い時間。

 下足箱をざっと見渡して、少なくともクラスメイトはまだ誰も来ていないことを確かめる。

 靴を履き替えようとしつつ、迷っていた。教室に入って、一人でこの奇妙な出来事について推測を巡らせるか。それとも、事の発端を担った拳銃について考えるべきか。

 後者を選んだ。靴を履き替えるのを中止し、外に向かう。拳銃を拾ったのは校内、中庭の片隅にある溝の奥だった。そこへ行ってみる。警戒を怠らずに。

 拳銃は落ちていたのではなく、隠されていたとするのが多分正しい。不透明なビニールにくるまれ、ガムテープで留められ、側溝の蓋で隠れるように押し込まれていた。そんな状態の物を見付けたのは、私が歴史の丸尾まるお先生から命じられた掃除を渋々と独り、やったせい。見付けたあと、誰かに知らせようとか警察に届けようとか考えなかったのは何故だろう。その時点では本物の銃とは思いもしなかったのかもしれない。あるいは……殺したい人間がいるせいかもしれなかった。

 そんな訳だから、溝を見に行くと言っても、あまり近付いてしげしげと観察するのは避ける。隠した主と鉢合わせする恐れや、既に拳銃が消えたことに気付いた持ち主が、見張っている可能性もある。何故、あんなところに拳銃があったのかはこの際、考えないでおく。深夜、警察に追われた犯罪者か何かが校内に一時的に逃げ込み、銃を隠したあと、また逃げたとか、そんなところじゃないか。うちの学校は警備が緩く、防犯カメラも三箇所ある門を写しているに過ぎない。

 くだんの溝の周辺は、昨日立ち去ったときと変わっていなかった。少なくとも見た目は一緒。拳銃がなくなったこと自体、知られていない可能性が高い。

 言うまでもないが、あそこを掃除する私の姿を、拳銃の持ち主が万が一にも見ていたとしたら話は違ってくる。ただ、その場合、持ち主は学校関係者であることになるだろう。だとしたら、拳銃のあるなしにかかわらず、拳銃の存在に気付いたかどうかを確かめようと、一刻も早い私への接触を図っているはず。今になってもそれがないのは、この推測は恐らく外れということ。先生が私に掃除を命じた事実が、拳銃の持ち主の耳に入らない限り、安泰と言える。

 散策を装った観察を切り上げ、教室に向かうことにした。


           *            *


 丸尾一正かずまさは極力、意識しないように努めた。閉じられた窓ガラス越しとは言え、一生徒をじっと見つめているところを第三者に気付かれでもしたら、余計なさざ波を立ててしまいかねない。

 しかしながら、目線を外したあとも、気になりはする。何をしに戻って来たんだろう、と。


 丸尾は教師ながら、困った癖が二つあった。その一つが、無類のギャンブル好きである。賭け事に強いならまだましかもしれないが、よくてとんとん、大抵はマイナスという成績では、借金が膨らむ。給料日毎にまとめて返していたが、それも徐々に厳しくなり、今では貯金を切り崩す有様だった。

 独身で、結婚を意識するような相手もいないからやっていけるが、周りからはいつまでも若くはないんだしそろそろ身を固めてはどうかと縁談を持ち掛けら始めた。中には本当に良い話があり、心動かされるものがある。結婚を考えると、ギャンブル癖は断ち切っておくべきだし、借金もきれいにしておくべきだと分かっていた。

 そんな決心が固まるか固まらないかのタイミングで、丸尾は大負けを喫した。これまでとは一桁違う負けで、おいそれと借りられる額でない。一気に追い込まれた丸尾に、ギャンブル相手の男が持ち掛けてきた。

「高額のバイトをしてみる気はあるか?」


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