1−6 如月
プルルルル……プルルルル……
「ん?」
時刻は午後の4時になろうとしていた。日差しのおかげで、まだ外は眩しいくらいに明るい。
自宅で課題のプリントを片付けていたところで、碧のスマホが鳴り響いた。
「電話か……誰だ?」
スマホを手に取り、画面に表示された電話の主の名前を見る。
『千影鈴』
「……!」
連絡をしてくるということは、ハサミ男(仮)の情報を得られたということだろうか?
「思ってたよりも……早いな」
碧の両親は薫の両親と話をするという名目で、4人で外食に行っているらしい。
つまり、今は自宅に碧が1人だけ。少しくらいなら家を空けることになっても、余計な心配をかけることは無いだろう。
「よし……」
意を決して通話開始のボタンを押した。
「もしもーし」
『はぁ……はぁ……』
(……?)
鈴の様子がおかしい。
「千影? 大丈夫か? 息上がってるけど……?」
『先輩……助けて……』
「は……!?」
思っていたものとは違う言葉が返ってきた。
「どうした? 何があった?」
『ケルピー……ケルピーが……!』
「へ?」
『目の前で人が食べられて……!』
「よくわからねぇけど……今すぐそっちに行く! 何処にいるか教えろ!」
電話を耳に当てたまま、靴を履いて外に飛び出す。
『はぁ……はぁ……比良坂駅近くの、立ち入り禁止になってる区画で……知らないうちに入り込んでて……』
千影の方も走りながら通話をしているらしい。
「比良坂駅近くだな? わかった!」
『先輩……なんかここ……変なんです……』
「変? 何が?」
『まだ明るかったはずなのに、急に周りが真っ暗になるし……! さっきからたくさん逃げてるのに……たくさん走ってるのに……行き止まりすらも見えなくって……!』
「は……? それって……」
──ブルルルル……──
「おい……今のはなんだ?」
『はっ!? 嘘! いやぁ!』
鈴は突然パニックになったような声を出した。全速力で走っている足音が、電話越しに聞こえる。
「お……おい! 千影! ちか……」
ツー……ツー……ツー……
「……!」
通話が切れた。無意識に通話終了のボタンを押してしまったのか、落としたか壊れてしまったのか……。
「くっそ……何がどうなってやがる……?」
黄泉坂駅に走って向かいながら、鈴の言葉を整理してみる。
『ケルピー』『目の前で人が食べられた』
エクメネで内容を予習していたおかげで、オカルトの知識に疎い碧にもケルピーが何なのかをある程度は理解できた。
ケルピーが誰かを襲って、それを目の前でみた鈴はケルピーから逃げている。言葉の通りに捉えるとそういうことになる。
そもそもスコットランド周辺にしかいないはずの化け物が、どうして日本にいるのかという話になるのだが、今はそんなことを考えている余裕は無い。
『まだ明るかったはずなのに、急に周りが真っ暗になった』
『さっきからたくさん逃げてるのに、たくさん走ってるのに、行き止まりすらも見えなくった』
明日香が殺された時、そして碧がハサミ男(仮)と戦った時と状況がほとんど同じだ。
相手を倒すか、それとも殺されるかしないと追いかけられ続けるだろう。
鈴に戦う力は無いと言って良いだろう。
(…………)
碧自身が考えていることが現実離れしていようがいまいが、正しいか否か、どちらにしても鈴は碧に助けを求めた。
今の碧には助ける力がある。戦う方法がある。
「だったら……行かなきゃだろ……!」
もう誰も見殺しにはしない。
黄泉坂駅に着き、ちょうどやってきていた比良坂駅に向かう電車に飛び乗った。
比良坂駅までは電車で6分ほど……これが1番早い移動方法だ。
(待ってろ千影……持ち堪えてくれよ……!)
************
電車の音、道行く人の声、午後の日差し
周りにあったはずの全てが、嘘だったかのように消えていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
その静寂の中、鈴は走り続けていた。ずっと直線にしか走っていないのだが、
(出口が……見えない……行き止まりも無い)
建物と建物の間に挟まれた横幅の狭い通路は、無情にも何処までも続いている。
「はぁ……はぁ……けほっ……」
身を隠すのに適した場所も無い。
「はぁ……木谷村先輩……」
走りながらスマホを確認する。通話を繋いだ状態で走っていたはずだったが、いつの間にか『圏外』の文字が画面に浮かんでいた。
(どうして……)
何が起こっているのか解らない。そして……、
──ブルルルル……!──
後ろからは執拗にケルピーが追いかけてくる。本気では走らず、鈴との距離を一定に保ったまま走っている。
抵抗するための気力と体力を削ぎ、楽に捕食するつもりだろう。
現実だ。夢じゃない。むしろ夢であって欲しかったが、胸と脚の痛みが『夢じゃないぞ』と鈴を嘲笑っている。
(どうして私がこんな目に遭うの? 私は何か悪いことをした?)
「はぁ……はぁ……」
脚がふらついてきた。汗で服がびしょ濡れになって重い。
「はぁ……うっ!?」
散らばっていた工事用のヘルネットに躓いて転んで、
「ぶっ!」
顔面から勢いよく倒れ込んでしまった。
「うぅ……いった……」
──ブルルルル……──
「っ!?」
転んだ状態のまま、体の向きを変えた。
ケルピーは鈴をジロリと睨んで、今にも飛び掛からんと構えている。
──キョオォォォォン!──
勝利宣言ともとれる強い声が響く。疲れ切った脚には、もう立ち上がる気力すら無い。
(嘘……でしょ……? 私……死ぬの?)
オカルトが好きだ。たくさんの人と好きな話がしたかった。自分が知らないものを知っている人がいるかもしれない。仲間を作りたい。鈴はそんな期待と欲望を胸にオカルト部に入った。
入部したばかりの頃は鈴以外にも何人か部員がいたが、いつの間にか顧問のお先生を除けば鈴1人だけになっていた。しかも顧問の先生はほとんど部室に顔を出したことは無いらしく、実質1人だけの部活になっていた。
(どうしてみんな辞めてしまったんだろう? どうすれば部員を増やせるだろう?)
鈴は静かな部室の真ん中で、独りで考えられるだけ考えたが何も分からなかった。
(それならたった1人でもたくさん知りたい、好きなものをとことんまで極めてやる!)
そんな考えに至ったものの、具体的に何をすれば良いのか分からなかった。
そんな感じでグダグダしていたところに碧がやってきた。
『オカルトの知識を少し借りたくてね。今は君1人? 話しても大丈夫?』
入部希望じゃなかったのは残念だったが、独りぼっちで何をすれば良いか分からない時に頼ってもらえた。それが嬉しかった。たった1回きりの協力関係だとしても、自分にできることならなんだってするつもりだった。ただそれだけだ。それだけなのに……。
ピチャン
ケルピーが跳ねる。鈴に一気に近づいてくる。
先程の警察官の姿が、ケルピーの身体に吸い込まれ、捕食されてしまうまでの過程が鮮明に脳裏に浮かんだ。
(殺される……? ケルピーに……よりにもよって好きなオカルトに……?)
ピチャン
(嫌だ……)
死にたくない……死にたくない……!
まだやりたいことがある……! やりたいことができた……!
だから……!
「先輩……!」
ピチャン
ケルピーが、その液体の身体がさらに近づく。残り跳躍1回、たったそれだけで、倒れて動けない鈴に触れられる。トドメを刺せる。
対する鈴は、自身にとっての最後の希望、その人物の名前を……、
「木谷村先輩!」
声の限り叫んだ。
『ウルセェな……!』
「……っ!」
ケルピーの背後に、その姿が見えた。
「聞こえてるっての!」
************
比良坂駅に到着した後、碧はすぐにその場所の『入り口』を見つけた。
立ち入り禁止とされている通路はいくつもあったが、その中で1箇所だけ、雰囲気が違うものがあった。
「…………」
全身の毛が逆立つ、確実に異様な何かをその場所から感じた。
「行こう……!」
迷っている暇は無い。自分の感覚を信じて、関係者以外立ち入り禁止と書かれた看板を無視して、その通路に足を踏み入れた。
「……!」
電車の音や、周辺を歩く人達の声が響き、まだある程度の陽の光が射していた駅前の通りから一変、なんの光も音もない暗闇の世界が目の前に広がっていた。
(やっぱり……あの時と同じだ)
自分の仮説が一部正しいことを確信し、ゴクリと生唾を飲み込んだ直後、左耳が急に熱くなった。
「うあっ!?」
バチっと音を出して、いきなり左耳が発火した。ハサミ男(仮)と戦った日から一度も出ていなかった青緑色の炎が、暗闇に踏み込んだ直後に勢いよく出た。
「なんだ……? どうして……?」
発火に戸惑い、転がっていた鉄パイプに足が当たった。
カラン
「うるさっ……!?」
その時の音が、燃えている左耳に良く響いた。
そして、
『はぁ……はぁ……はぁ……』
──ブルルルル……!──
「あ……!?」
聞き覚えのある声と、人間のものじゃない声が聞こえた。
(いる……)
足下にあった鉄パイプを手に取り、脚を進める。
(この先にいる……!)
次第に脚の運びは早くなり、自然と走り出していた。
『はぁ……ぶっ!? うぅ……いった……』
──ブルルルル……!──
(聞こえる……!)
音だけを聞いているはずなのに、エコーロケーションをするコウモリやイルカのように、そこで誰が何をしているのか、どのような状況にあるのかが解る。馬のような動物が走っている様子も、それから逃げている人が顔面から転んだ様子も、全てが立体で、手に取るように解る。
(間に合え……間に合え……)
走るために振る腕に、地面を蹴る脚に、鉄パイプを握る右手に力が入る。
今までで1番速く動いている。
(間に合え!)
──キョオォォォォン!──
『先輩……!』
(見えた……!)
攻撃動作に入っている馬のような生物と、尻餅をついてしまい動けない鈴の姿が見えた。
ピチャン
馬が飛び上がったのと同時に、右足で踏み込んで、馬よりもさらに高く飛び上がる。
そして空中で鉄パイプを振りかぶり、馬の後頭部、うなじにあたる部分に狙いを定める。
ハサミ男(仮)の時と同じ、力が溢れて止まらない。それと同じくらい、自信が溢れる。
「木谷村先輩!」
「ウルセェな……!」
落下の勢いに乗せて振り下ろした鉄パイプは、
「聞こえてるっての!」
『バシャッ!』と水が弾ける音と共に、馬の首を切り落とした。
「ふぅ……」
首を失った馬の身体が、ビクンビクンと痙攣している。切り落とした首は、地面に接触した瞬間に、雨が降った後にできる水溜りのようになった。
(これが水馬ケルピー……?)
碧は思いの外あっけなく倒してしまった相手の姿を見下ろしていた。
(それにしては……)
次に周囲の様子を見渡してみる。
暗闇の世界であることは変わらず、元に戻るような気配は無い。
(時間差かな……それとも……)
「せ……先輩……」
鈴から恐る恐るかけられる声によって、碧の考え事は中断される。
「あぁ、すまん」
まだ尻餅をついたままの鈴に振り返り、手を差し伸べる。
「立てるか?」
「は……はい」
鈴は碧の手を掴み、引っ張られる形で立ち上がる。
「遅くなってすまん。それと……」
ほんの一瞬だけ、明日香の最期の顔がチラついたが、今の碧は振り払うことができる。
「間に合って良かった……!」
今度は少なくとも見殺しにしないで済んだ。
「ありがとう……ございます。それで……先輩?」
「ん?」
「耳……燃えてるんですけど……?」
左耳から火が出ていたら、誰だって信じられないと言わんばかりの反応をするだろう。鈴も例に漏れず、有り得ないものを見るような目で碧と青緑色の炎を交互に見ている。
「害はないから、気にするな」
碧自身にも何故燃えているのか解らないため、そうやって誤魔化すことしかできなかった。
トク……トク……トク……
(……!?)
飲み物をコップに注ぐような音が聞こえ、反射的に振り向いた。
水溜りから馬の首、その切断面まで水が吸い上げられ、失われたはずの首が再形成されていく。
「せん……ぱい……あれは……?」
怯えている鈴の声が、碧の後ろから聞こえた。
「とりあえず、ここから少しでも遠くへ離れろ。動けるか?」
鈴の背中に手を添えて語りかける。
「動けます……けど、先輩は?」
──ブルルルル……──
馬の首は瞬く間に修復され、完全に元の身体に戻っていた。
「躾の時間だ……!」
碧は再び鉄パイプを握る手に力を込め、ケルピーに向かって走り出す。
「先輩! そいつの身体に少しでも触れたら、飲み込まれてしまいます! 気をつけて!」
「……!」
目の前で人が食べられたのを見た鈴の忠告は碧の耳にしっかり届いていた。だが、碧は先程鉄パイプでケルピーの首を切り落とせた。
(素手で触らなければ良いんだろ?)
「オラァ!」
元に戻って間も無いケルピーに、確信を持って再び鉄パイプを振り下ろす。
しかし……、
チャポン……
そんな音と共に鉄パイプは受け止められ、
トプン……
間髪入れずに鉄パイプがケルピーの体内に飲み込まれた。
「……!?」
思わず鉄パイプから手を離し、後ろに飛び跳ねてケルピーから距離を取った。
鉄パイプはケルピーの体内で音も無く変形、吸収され、瞬く間に消滅した。
「武器もダメだってのか……?」
──ケプッ……ブルルル……──
ご丁寧に食後のゲップまでお披露目し、余裕の素振りを見ている。
「ちぃっ……!」
足下に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、
「そらぁっ!」
今度は投げつけた。
チャポン……
「こんのっ……!」
鉄パイプ以外にも、石やヘルメット、スパナ等、近くに転がっていた物を間髪入れずに片っ端から投げ続けた。
チャポン……チャポン……チャポン……
トプン……トプン……トプン……
しかしその全てが何事もなく受け止められ、悉く飲み込まれた。
「クソッ……!」
碧が投げた物が、ゆっくりとケルピーの体内で消化されていく。
(さっき首を切り落とせたのは何故だ? あの時と違うのは……)
最初の一撃が通用した理由を考える。ケルピーが碧の存在を認識していない状態だった。その上で背後からの全力の一撃だった。対して今の碧の攻撃は、全てケルピーの正面から、存在を認識された状態でのものだった。
(じゃあもう一度不意をつけば……どうやって?)
「先輩……大丈夫ですか……?」
碧から少し後ろに離れた場所から、資材の山に隠れた鈴が声をかけてきた。
「お前な……『少しでも遠くへ』とは言ったが、『少しだけ遠くへ』なんて言ってねぇぞ……」
「す……すみません。でも……」
「…………」
碧の中にドス黒い考えが浮かんだ。
(千影を囮にすれば、もう一度だけ確実に不意をつけるか?)
──キョオォォォォン!──
ケルピーの口から、人間の顔をスッポリと包みこめる大きさの水球が発射された。
「っ!?」
顔面を目掛けて放たれた水球を既のところで尻餅をついて避けた。命中していたら碧の首から上を丸ごと溶かしていたであろう水球は、幸いにも隠れている鈴に当たる事も無く暗闇に消えていった。
(何を考えてるんだ俺は……)
ケルピーの攻撃のおかげで冷静になることができた碧は、立ち上がりながら自身の考えを反省する。
上手く不意をついて攻撃できたとしても、また少し時間をおけば再生する。そして2度も3度も同じ手は通用しないだろう。
そして散々酷い目に遭った鈴を囮に使って、再び酷い目に遭わせる。考えるだけでも人としてどうかしている。
(じゃあ……どうすれば良い?)
──フスン……──
ケルピーの鼻息が聞こえた。次の行動に移ろうとしているのだろう。
「……!」
考えながら戦闘態勢をとる。
(俺にできることは……何が残っている?)
武器での攻撃無効──無効
いろんなものを投げつける──無効
不意をついての一撃──非推奨
(他に……できることは……)
ザリッ……ザリッ……ザリッ……
ケルピーが後ろ足で地面を削っている。真正面から突撃するつもりだろう。
(あ……あるじゃねぇか)
碧は自分にとっての最大の武器が、力がまだ残っているのを思い出した。
「スゥゥ……」
少しだけ息を吸う。
上手くやれるか分からない。通用しなかったら、碧も鈴も捕食されて死んでしまう。完全に一か八かだ。
上手くやれたとしても、その後の碧の身体がどうなるか……。
「フゥゥゥ……」
吸った分より少し多めに息を吐く。
「千影」
後ろにいる鈴に声をかける。
「はい……?」
「ちょっと熱くなるかもしれないけど、我慢してくれよ」
「え……?」
──キョオォォォォン!──
ケルピーがこちらに向かって走り出す。
ピチャン ピチャン ピチャン
水が跳ねるような音が、等間隔で聞こえてくる。
「…………」
目を閉じて、音に集中する。
ケルピーが発する音を青緑に燃える左耳で拾うことで、ケルピーの速度、自分までの距離を測る。
ピチャン
ケルピーから見て残り3跳躍
碧は閉じていた目を見開き、ケルピーを視認する。
(薫の時と同じだ。誰かを守るためなら、俺は戦える……!)
ピチャン
残り2跳躍
「先輩! ダメっ!」
悲鳴にも似た鈴の声が、後ろから響く。
ピチャン
残り1跳躍
「大丈夫だっての……」
ボソリと呟いた直後、碧の右脚が発火した。左耳と同じように、青緑色の強い炎が湧き上がった。
(今なら……やれる!)
ピチャン
最後の跳躍
その音に合わせて、左足で1歩踏み込む。
ケルピーは目の前、手を伸ばせば触れてしまえそうな距離まで近づいていた。
踏み込んだ左足、そして燃える右脚に力を込める。
(どこからでも良い。見ていてくれ。これがあなたに見せたかった、俺の……!)
「如月(きさらぎ)!」
居合い抜きを思わせる速度で振り上げられた燃える右脚は、空中にて攻撃態勢のままだったケルピーの横腹を捉えた。
ジュッ……!
一瞬だけ聞こえたその音はケルピーが今までしていた、触れたものを飲み込む音ではなかった。
自身の身体で攻撃を無効化できると信じて疑わなかっただろうケルピーの身体は、蹴りの速度と炎の高熱による両断、水の身体は碧の右脚の炎が触れた箇所から蒸発し、文字通り『斬り裂かれていた』。
碧が目の前で見たその顔は苦痛に歪むでもなく、悔しさが滲むわけでもなく、
──…………?──
『ねぇ、今何をしたの?』という声が聞こえてきそうなものだった。
横腹から斜めに、完全に真っ二つになる頃には、ケルピーは断末魔をあげることも、命乞いをすることもできず、気体となり消えてしまった。
ただの見様見真似だった、調子に乗った相手を萎縮させる程度だった、他人の人生を壊してしまった、守りたかった人を守れなかった碧は、
(やった……!)
この日、確かに1人の命を救うことができた。
蹴った脚の勢いに負けてふらつき、転びそうになった碧は、自分でも分かってしまうくらいに口角が上がっていた。
************
一瞬だった。何が起こったのか、すぐには解らなかった。
ケルピーが碧に後少しで触れてしまいそうになって、
「先輩! ダメッ!」
鈴はそう叫んでいた。
しかしその直後、碧の脚が突然燃えて……、
「如月!」
そんな言葉を碧が叫んだら、ケルピーの身体に碧の上段蹴りが当たって……、
そしてケルピーは……消えた。
蹴りが命中した瞬間に、ケルピーの水の身体、その全てが蒸発し、気体になった。
「あ……え……?」
状況を理解できずに、その場で立ち尽くしている鈴と、
「ふぅ……!」
爽やかな顔をしている碧がいた。
碧の左耳も、右脚も、既に火は消えていた。
「あ……戻ったかな……?」
その声につられて周りを見てみると、暗闇しかなかった場所が、いつの間にか元の立ち入り禁止の通路に戻っていた。
午後の日差しも、少しうるさい生活音も、近くを歩く人達の声も、何もかもがケルピーと出くわす前の状態に戻っていた。
大きな水溜りの痕だけが、今までに起こった出来事が夢でも幻でもないことを物語っていた。
(私は……生きている……? 助かった……?)
「千影、歩けるか?」
「へっ!?」
ボーッとしていた鈴は、碧の言葉によって現実に引き戻された。
「は、はい! 大丈夫です!」
鈴は慌てて碧の傍に駆け寄った。
「そっか……全然元気じゃん」
碧の目の前までやってきた鈴は膝に打撲の痕が残っていたが、それ以外には特に怪我も無かった。
その姿を確認したのとほぼ同時に
「よか……た」
急に電源が切れたかのように、碧がその場に両膝をついてしまった。
「え……先輩、大丈夫ですか!?」
「あぁ……大丈夫……ではないな……」
碧の声は明らかに力が入っていなかった。
「全身に力が……入らない……」
「もしかして……さっきの炎……」
「あぁ……それのせいかも……」
「害は無いって言ってたじゃないですか!?」
「千影に害は無かっただろ……?」
「……っ! あぁもう!」
鈴は碧の身体に手を回し、何とか立たせた。
「座って休めるところまで行きますよ! 頑張ってください!」
生き延びた余韻に浸る余裕も、考える時間も与えらなかった鈴は、碧と共に安全な場所に向かって移動を始めた。
「すまんな……カッコ悪いな……俺」
金曜日、多くの人にとっては何でもない、いつも通りの平日最終日の夕方。
比良坂町にて連日発生していた行方不明事件はこの日、この時間を境に、一度も発生しなくなった。
そして鈴は、碧の身に何があったのか、真相を全て聞いた。
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