1ー5 水馬

「碧くんは本当に元気だねぇ」

 家の近くにある公園、そこに設置されているブランコに腰掛けて、その人はぼくを見ていた。

 ぼくは見様見真似で、テレビで見たヒーローがやっていた動きを、その人の前でやって見せていた。


「碧くん、怪我しないでね?」

 だいじょうぶだよ。ほら!

「もう側転できるの!? 碧くん凄いね……」

 そうでしょ? それにケガもしなかったし!

「うん。碧くんは強いね」

 うん。ぼくはつよいんだ。だから、どこかケガしてもヘッチャラさ。

「本当に怪我しちゃダメだよ? お父さんとお母さんが泣いちゃう」

 わかってるよ。ケガなんてしないし、カゼもひかないさ。

「そうだね。それが1番だよ」

 それにね……ぼくは、みんなを守れる人になりたいんだ。

「守る? 皆を?」

 うん。お母さんも、お父さんも、トモダチのみんなも、

「うんうん」

 カオルのことも……アスカさんも、みんな守れるようになりたいんだ。

「そっかぁ……ふふふ……」

 ん……? ぼく、へんなこと言ったかな?

「違うよ……碧くんは変じゃないよ。守りたい人、たくさんいるんだね」

 そうだよ。だからもっと強くなるんだ。

「じゃあ、頑張らなきゃだね?」

 そうだ! ぼくね、わるいやつやっつけるヒッサツワザを……


『おーい、2人とも』

 2人だけの時間に邪魔が入った。

「薫? どうしたの?」

「どうしたのじゃなくって、お父さんがそろそろかえってこいっていってたよ」

「あ……もう夕陽が出てる。じゃあ、今日はもうおしまいだね」

 えー? いいところだったのにー!

「ブーブーいうなよ。男の子だろ?」

「薫、そういうこと言っちゃダーメ」

「う……ハーイ」

「それじゃ碧くん、またね」

 うん……バイバイ、アスカさん……

「次会った時に……必殺技、見せてね?」

 ……うん!


************


「フガッ!?」

 碧は情けない声を出していた。

「……?」

 自分の部屋で照明をつけっぱなしにして、プリントが数枚散りばめられた机に顔をうずめていたようだ。

 頭がボンヤリとした状態ではあったが、どうにか自分の記憶を整理してみる。

「えっと……学校から帰ってきて、晩飯食って、風呂で身体洗って、もらったプリントに一通り目を通して……見ているうちにだんだん眠くなって……」

 机に置いてあるデジタル時計に目を向けると、既に日付が変わっていた。

「俺としたことが寝落ちか……しかも……」

 碧が以前まで夢として見ていた、相手の腕を折ってしまったシーンは、退院してからは全く見なくなっていた。またフラッシュバックしてしまうことがあるかもしれないが、碧の精神的には良い兆候だった。

 その代わりに見た夢の内容が、まだ無邪気なちびっ子だった頃の記憶の一部だ。

「…………」

 過去に囚われている、または執着しているということになるのだろうか?

 誰かに言ったら『忘れて生きろ』なんて言われるかもしれないが……、

「楽しかった思い出は……忘れたくないだろうが……」

 誰に向けたものでもない文句が、自分以外誰もいない部屋に流れていく。


「…………」

 碧が明日香にお披露目したかった必殺技……当時テレビの中で活躍していたヒーローが、トドメの一撃として必ず使っていたものを真似したものだった。

 一歩だけ踏み込み、居合い抜きのような速さで蹴りを放ち、相手を吹っ飛ばす。そんな一連の動き、命中した時の音がカッコよかったが、実際はただの上段蹴りだ。

(今になって思い返してみると、あれに付き合ってくれた明日香さんは本当に優しかったんだなぁ……)

 結局あの後、必殺技を明日香にお披露目できたのか……そこまでは思い出せなかった……。

「そういえばあの技には……どういう名前をつけていたっけな……?」

 誰が答えてくれるわけでもない問いもまた、静かな部屋に流れていく。

 そうしてボーッとしているうちに、朝の日差しが顔を出していた。


 碧が鈴との協力体制を結んだ翌日。

『ねぇ、これからどうする?』

『カラオケとか行く?』

『ごめん。あたしバイト行かなきゃなんだわ』

 今日は金曜日、黄泉坂第一高校では『金曜日の放課後は部活や居残りはしないで早く帰りましょう』というルールが設けられている。

 そのおかげか、毎週金曜日はどのクラスも上機嫌な生徒で溢れるのだ。

『なぁ、久しぶりに比良坂(ひらさか)のバッティングセンター行こうぜ。ホームランかっ飛ばしたくてよ〜!』

『やめとけ。比良坂駅周辺で何日か連続で行方不明者が出てるってニュース記事が昨日出てたぞ。学校からも、比良坂には帰宅する以外では絶対行くなって言われてたじゃないか』

『ぐぬぬ……俺のホームラン……』

 比良坂町……黄泉坂駅から3駅離れたところにある地域だ。

 黄泉坂町の殺人鬼がまだ見つかっていないのに、今度は距離的に行けなくもない範囲で発生した行方不明事件……警察の方々の苦労は想像しきれない。

(さてと……千影からの連絡は……)

 帰宅する前に、スマホを開き、鈴からメッセージが来ていないか確認してみる。


『改めまして、千影鈴です。木谷村先輩、よろしくお願いします』

『情報を集めてまとめ次第、すぐに連絡しますので! しばらくお待ちくださいね』

『おぅ、苦労かけてすまない。よろしく頼む』


 昨日のやりとり以降、鈴からのメッセージはまだ来ていなかった。

(流石に1日では無理か……)

 メッセージアプリを閉じて、その流れで千影に見せてもらった『エクメネ』を、今度は自分で開いてみる。

 これから鈴とやりとりをする上で、できる限りオカルト関連の知識をつけておけば、多少は話がスムーズに進むだろうと考えたからだ。

 それらしき本や動画を探してみるのも考えたが、やはり紹介されたエクメネをみるのが手っ取り早い。

(今の俺にできることはこのくらいだろうからな……)

『エクメネへようこそ。こちらでは様々なオカルトを取り扱っております。まずは掲載されているオカルトを気楽に閲覧してください』

 と言う挨拶からスタートして、デイリー閲覧数ランキングやジャンルごとに区別されたオカルトなエピソードがズラリと掲載された画面が展開された。

 アカウントを作って登録すれば、気に入ったオカルトにコメントや高評価、さらには自身でオカルトを投稿することもできるらしい。

「本当に作り込まれてるな……」

 感心しながら、デイリーランキングを確認してみる。

2位以降はいくらか変動していたが、1位は変わらず『水馬(すいば)ケルピー』となっていた。

「…………」


『水馬ケルピーは主にスコットランド地方周辺の水場に生息している恐ろしい水魔である』

『地域によっては「エッへ・ウーシュカ」「アッハ・イシュカ」と呼ばれている』

『目を奪われるほど美しい白馬という説もあれば、心惹かれる馬具一式を身につけていたという説もある』

『何かしらの方法で人間を誘惑し、水場へ誘き寄せて溺死させる』

『その身体にうっかり触れてしまうと離れられなくなり、指を切断する等の処置をしない限り逃げられない』

『その全身が水でできており、触れたものを自身の体内へと飲み込み、吸収してしまうという説もある』


 碧が見た限りで理解できたのはこの程度。有識者によるコメントで『女子供は襲わない』とか『下手に関われば末代まで呪われる』等の情報が追加され、『某ゲームでも登場したなぁ』というどうだって良いコメントまで記載されていた。

「…………」

 オカルト好きであれば、ここから様々な角度でさらに会話や想像ができるのかもしれないが、それに関して素人な碧にとっては、エクメネで見ることができた情報を噛み砕いて理解することが精一杯だった。

「うーーーん……」

 特に理由も無かったが、無心になって画面をできる限り早くスクロールしてみると、予想より早く一番下に記載された、閲覧者数が『0』と表示されているものまでたどり着いた。

「『見守る者』……?」


『とある理由によって離れ離れになった両思いの男女がいた』

『かなりの年月が経ち、成長した女は、男がいると聞いた場所までやってきた』

『しかし、男と出会う前に、女はとある事件に巻き込まれて致命傷を負った』

『動けずにいたところに男がやってきた』

『女の方は直ぐにわかった。傍に寄り添ってくれるこの男が、成長した想い人であることを』

『しかし男の方は、死にかけている女が想い人であることをわかっていなかった』

『男がそれを初めて知ったのは、女が息を引き取った数日後だった』

『霊となった女は、酷く後悔する男を見守り続けた』

『男は時間をかけ、せめて女に対して胸を張って自慢できるような生き方をしようと心に決めた』

『男の決意を見届けた女の霊は、優しく微笑み、光に包まれて消えた』


「…………」

 閲覧者数を示す数字が『1』に変わり、碧が初めての閲覧者であった事を誇張する。

ランキング上位のものと比べてしまうと、圧倒的にインパクトやスリルが少なかったが、どこか優しさのようなものを感じた。

(こういうのも1つや2つはあっても良いと思うんだけどなぁ……)


「ふぅ……頭痛くなってきた……」

 どうやら碧がオカルトの世界に慣れるまでには時間がかかるようだ。


パキッ


「……!」

 反射的に音がした方向を振り向いた。

『お前さ……読み終わったら返すって言ってたよな……?』

『ちょっ!? ごめんって! あれから色々あって漫画読む余裕が無かったんだよ……!』

『へぇ……』

『こ……今度ラーメン奢るよ……その時に漫画も返すよ……だから許して? 拳パキポキやめて? な?』

『もう言い遺したい事は無いんだな?』

『いやぁぁぁ!!』


「…………」

 呼吸が荒れたわけでは無いが、心臓がバクバクと激しく動いている。

 自分のトラウマを振り切るのにも、まだ時間がかかるようだ。

(俺は……)

 ふと、今までに自分がしてきたことを思い出す。

 他人の腕を折って、人生を壊した。そしてそれを引きずって、色んな事を避け、逃げ続けた。そうして大切だった人を見殺しにして、感情に任せてまた他人を壊して……。

壊して逃げて……逃げて壊して……。

(あれ……それしかやってなくね?)

 ハサミ男(仮)を追い詰め、また戦うことができたとしても、今度は『壊さない』とは限らない。

 今度こそ警察に突き出し、法律で裁いてもらうことができたとして、その後はどうするのか?

 自分の身体の状態、青緑色の炎の正体を明らかにする。その後はどうするのか?

 再び何かから、誰かから逃げるのだろうか?

(俺は……そんな生き方しかできないのか……?)


 いろいろと考え事をしていたせいか、

『木谷村』

「おぉう!?」

 碧は薫が近づいてきていたことに全く気づいていなかった。変な声を出してしまうのは3回目である。

「おぉうじゃねぇよ……いつまでボーッとしてるんだよ?」

「ん?」

 ふと周りを見てみると、クラスメイトのほとんどが教室から姿を消していた。

「あ……」

 碧は現在の状況を突きつけられ、恥ずかしさで少し顔を赤くした。

「木谷村は帰らないの?」

 碧には昨日のような用事は特に無い。先生に怒られない内に帰るべきだ。

「いや、もう帰る」

「そう……」

 薫の前で荷物をまとめ、立ち上がり……、心の中で1つだけ決めた。

「行こうぜ」

「え?」

 碧は薫と一緒に帰ることにしたのだ。薫と少しでも話をすれば、気持ちの整理ができるかもしれないと考えてのことだった。

「どうした? 帰るんじゃなかったのか?」

「あ……うん」


 そうして碧は、昨日できなかった『薫と一緒に下校』をしていたのだが……、

「…………」

「…………」

 気持ちの整理どころか、気まずさから普通の話すらまともに出来ていなかった。

「空手部にはいつ戻るんだ?」

「早くて来週……」

「そっか」

「…………」

「…………」

「龍三さんは大丈夫か?」

「父さん? 元気に仕事してるよ。元気すぎるんじゃないかって母さんが心配してたけど」

「ははは……あの人らしいや……」

「…………」

「…………」

 辛うじて話ができたとしても、一言二言程度の言葉を紡ぐのが限界だった。

 踏み込みたくても踏み込めない気持ちがお互いの間にあった。何をどのように言えば良いのかがまるで分からなかった。

 気まずい雰囲気が続くこと約20分、とうとう碧の自宅前まで来てしまった。

(あ……もうこんなところまで……)

「碧」

(……!?)

 唐突に下の名前で呼ばれ、碧は身構えてしまった。

「なんだ?」

 薫が碧を下の名前で呼ぶ時は、感情的になっているか、大事な話をしたい時だと決まっているからだ。

 生唾を飲み込み、薫の次の言葉を待った。


「どうして逃げなかったんだよ……?」

 薫からポツリと出たのはその一言だけだった。

 その一言だけでは何を言いたいのかが解らなかった。

「……何の話だ?」

「何って……」

 聞き返した碧の胸を、薫は右手でギュッと掴んだ。

「死にかけただろ?」

「あぁ……」

 ここでようやく、ハサミ男(仮)と戦った事を言っているのだと理解できた。

「あんなボロボロになっちまうくらいなら……逃げて助け求めた方が良かったんじゃねぇの……?」

 そういう薫の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「お姉ちゃんが死んで……それからすぐに碧があんなになって……」

 薫の顔が碧の胸にポスッと埋めた。グスッと咽び泣く声が聞こえた。

「本当に……ダメかと思ってた……」

 碧の胸を握る力が少しだけ強くなった。

 姉の明日香の亡骸を目の当たりにし、その翌日に幼馴染の碧の惨状を目の当たりにした。

 近しい存在を立て続けに失うかもしれなかったのだ。薫の言葉と行動は当然と言って良かっただろう。

(…………)

 碧は病室でやった時と同じように、薫をゆっくりと抱きしめた。

「なんでって……」

 一呼吸置いて、その時頭に浮かべた事をそのまま言葉にした。

「あの野郎は俺が上手く逃げてたら……その後は別の誰かを探して殺していたと思う」

 薫と比べると力は弱いが、それでも離さないようにしっかりと抱きしめた。

「そういう事を繰り返してたら、お前も含めて大勢死んでた」

「え?」

 碧の胸の中から聞こえていた泣き声が一瞬止まった。

「そんなの嫌だから、がむしゃらに戦ったってだけだよ……」


「…………」

「…………」


 沈黙が十数秒続き(あれ? 何か違うことを言った方が良かったかな?)と碧が後悔しかけた頃に薫が声を出した。

「無駄にカッコつけてんじゃねぇよ……バーカ……」

「そうだな」

「ほんっとに……生きてて良かった……」

「本当に……そうだな……」

「碧……もう無茶すんな」

「あぁ……しない」


「…………」

 埋められた顔をそっと離し、

「それが聞けたってだけで、今は満足しておいてやる」

 碧の胸を掴んでいた右手は離され、碧は解放された。

「すまん……ありがとう」

「うっせぇ……バカ……」

 それから薫は振り返ることなく、足早に自分の家に向かって行った。


「…………」

 碧は自宅の玄関前で、薫の言葉を反芻していた。


『生きてるなら……生きてるならもっと早く目ぇ覚せよ!』

『本当に……ダメかと思ってた……』

『碧……もう無茶すんな』


 これから自分がやろうとしていることを考えると、今度は生きて帰れるか、生きていたとしても五体満足で帰って来れるかどうか分からない。その結果として得られたものが、自分にとって、薫にとってどのような影響を及ぼすのかもまるで分からない。

 それでも、

「退けないし、死ねないな……俺は」

 ボソリと呟いた碧は頭をガリガリ掻きながら、ゆっくりと家に入って行った。


************


『おい、そこの君。何してるんだ?』

「え?」

 鈴は声をかけられて、ハッと気がついた。

 声の主の方に振り返ってみると、男性の警察官が立っていた。

「その制服は……黄泉坂第一高校の子かい? ここは関係者以外立ち入り禁止のはずだよ? 何してるんだ?」

 警察官は心配しているような、それでいて責めているような口調で注意しながら、鈴の方に近づいてくる。

少し強めの風が肌に当たる。

 鈴は建物と建物の間にある通路に、いつの間にか入り込んでいた。

 横幅が狭い、午後の日差しが僅かにしか入り込まない空間で、ゆっくりと警察官がやってくる。

「え……えっと……」

 自分の行動を思い出してみる。

 学校が終わり次第、すぐに下校した。

 電車に乗って3駅、比良坂駅で降りて、歩いて数分の自宅に帰った。

 帰宅後は制服を脱ぐことすらせずに、すぐに調べ物に取り掛かって、それから……、

(あれ……?)

 そこから先が思い出せない。何故外に出たのか、何処に向かおうとしていたのか、思い出せない……わからない……。

 スマホに表示されている時間を確認すると、夕方の4時になる3分前だった。

「もしかして……急いでて近道しようとしてた?」

 近づいてきた警察官は、怖がらせないようにと優しく話しかけてくる。

「えっと……そうです……ははは……見つかっちゃった」

 自分でもよくわからない上に、上手く説明できそうに無いので、そういうことにしておいた。

「駄目だぞ? この近辺で何人か行方不明になってるから、こういう狭くて暗いところは一般の通行人が通れないようにしてたんだけどな……」

(行方不明……ニュースになっていた事件のこと?)

 自分がやっていた事がどれだけ危険かを認識し、ブワッと鳥肌がたった。

「す……すみません」

 迷惑をかけてしまった事を謝罪して頭を下げようとしたその時、警察官の背後に何かがいるのが目に入った。

(え……?)

 青系統の、澄んだ水のような色をしており、4本の脚で地面をしっかり踏んでいる。

 見た目はほとんど仔馬で、頭に尖った角が生えていて……。

「謝るのは良いから、早く家に帰りなさい。今すぐに行くなら誰にも言わないよ」

 警察官は背後にいる何かに、全く気づいていないようだ。

「あの……後ろに何かいる……」

「ん? 後ろ?」

 警察官が後ろを振り向こうとしたその時、


ズブッ


「へ?」

「え……?」

 警察官の胸から、鋭く尖った角が出てきた。仔馬がその角で警察官を刺したのだ。

「あ……あぁ……?」

 警察官は自身に何が起きているのかわからないまま、グググ……と持ち上げられる。

「何が……おきて……?」

 鈴はその疑問に答えることなどできるはずも無く、目の前で口や胸から血を垂れ流している警察官を見ながら、息を荒げ、後退りするくらいしかできない。


トプン……


 何かが水面に落ちたような音、そして……、

「あ……あがぁぁ!?」

 警察官の身体が、角が突き刺さった部分から仔馬の体内にジワジワと吸い込まれていく。

「な……なんなの……?」

 後退りしながらも、その様子から目が離せなかった。

 その仔馬の身体は、水のような色をしているのではなく、水そのものだった。

「やめっ! 痛い! と、溶ける! 身体が溶けてる!?」

 警察官はジタバタともがいて抵抗していたが、それも虚しく、手脚も顔も、全てが水の身体の中に収まってしまった。

「ゴボゴボ……! ボボボボ……!」

 警察官は全身を飲み込まれて、それでも必死にもがいていた。

 もがきながら、鈴を見ていた。助けを求めていた。

「い……」

 鈴の頭の中にあったのは、その目線を振り切って一目散に逃げることだけだった。

「いや……!」

 あの仔馬を知っている。いや、あの『水馬』を知っている。

『水馬ケルピー』

 何故日本に、何故ここにいるのか? そもそも実在していたのか?

 疑問は尽きないが、今の鈴には考える余裕すら無い。

まともに相手をしたら、捕まれば食べられる。溺れて死ぬ。

 とにかく逃げるしかない!

「いやあぁぁぁぁぁ!」


──ケプッ……──

 食後にでるゲップのような音が、後ろから微かに聞こえ、そして……、


ピチャン ピチャン ピチャン


 水が跳ねるような音が、通路の壁に反射して響き渡る。

絶望的な鬼ごっこが始まった。

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