1−4 エクメネ

 碧が意識を失ってから少し時間が経ち、薫が倒れている碧を発見した。浅くなった呼吸、血を大量に失ったせいで青白くなった肌、見ただけで碧が死にかけていると分かった薫はパニックになりながらも救急車を呼び、病院まで付き添った。

 右脚と左耳に切り傷の痕があったが、何故か傷口が塞がっていた。生きているのが不思議だと思ってしまうほどに血を失っていた。以上2点を除けば、特に目立った外傷は無かった碧は病院に着くなりすぐに輸血され、経過観察をするということになった。

 碧が搬送されてから目を覚ますまで僅か1日ほどだったが、その間ずっと薫が碧の傍にいた。碧が目を覚ましてからは大人数人がかりでなんとか引き剥がし、落ち着かせた。


『もう大丈夫なのかよ?』

『また一言目がそれか。今日で何日連続だっつーの』

『3日?』

『4日だ。ちゃんと数えろ』

 その後、碧は身体をまともに動かせるようになるまで入院生活を余儀なくされた。

 入院生活1日目は点滴での水分補給をされながら寝たきりだったが、全身を襲っていた激痛はすっかり無くなり、手を握ったり開いたりはできるようになった。

『で? 大丈夫?』

『普通に歩ける。学校に行く程度は問題無い』

『そう……良かった』

 2日目で上半身がある程度動くようになった。

 3日目で病院食を自力で食べれるくらいには回復したが、まだベッドから動くことができなかった。

 この日に明日香の葬式が執り行われて、無事に全行程を終わらせることができたと龍三の口から碧に語られた。もちろん碧は行ける状態じゃなかったし、そもそも自分にそんな資格は無いと思っていた。

『そっちはどうなんだよ』

『だいぶ落ち着いたかな。父さんは仕事に復帰したし、一昨日からあたしも学校行ってるし』

『そうか』

 4日目で左脚が動くようになったが右脚はどうしてもビクともしなかった。リハビリしながら様子を見ていこうとのことだったが、ひたすら転んでばかりだった。

 この日に碧の父が会社を休んで病院までやって来たのだが、碧が転ぶたびに気絶しそうになっていた。

『母さん、しばらくこっちにいてくれるって』

『へぇ、良かったじゃん』

 5日目には右脚がどうにか動くようにはなった。壁か何かに寄りかかりながらじゃなきゃ歩けなかったが、良い兆候だった。

 この日から警察やニュースの取材陣が碧に話を聞きに来るようになったが『無我夢中だったからよく覚えていない。自分でも死んだかと思った。あの殺人鬼はまだどこかにいるかもしれない』という当たり障りの無い答え方しかできなかった。

 燃えた右脚や左耳のこと、大きなハサミを持った何者かのことは言えなかった。碧自身理解できていなかった、そして言ってしまえば精神科を紹介されることは間違いなかったからだ。

 6日目には時々フラつきながらも、援助無しでどうにか歩けるようになった。リハビリの効果か、回復力が凄かったのか、どちらにしても順調だった。

 この日には遅れて碧の母がやってきていたのだが、父と揃って号泣しながら「良かった良かった」とばかり言ってた。2人とも碧を想っての事だったが、泣きながら喋るせいで日本語が大変な事になっていた。

『ただ……空手部に復帰するのはもう少し先になるかも……?』

『なんで?』

『そういう気分になれないから……?』

『そっか……まぁ、それはお前次第だな』

『うん』

 7日目にはフラつかないで歩けるようになり、もう退院しても良いだろうと言われるまでになった。

 その次の日には、少しくらいなら走っても問題無いまでになった。担当したお医者達が碧の回復力にどよめいていた。碧自身が一番驚いた。

 一応、今後は定期的に通院して様子を見せること、少しでも異常があれば……特に右脚と左耳に違和感を感じた時は、必ず報告することを条件に退院を許可された。

『じゃあ、学校でな』

『あいよ。またな』

 そして今朝、木曜日の朝、スマホのメッセージアプリで薫とのやりとりを終え、淹れたてのコーヒーをグイッと飲み干す。

 この日だけは、退院してから最初の登校日だけは、絶対に学校で顔を合わせようという約束をしていた。


「碧、そろそろ学校に行く時間じゃない?」

「あぁ、もう行くよ。朝ご飯ごちそうさまでした」

 少しの間だが、碧の方でも両親が家に滞在することになった。

9日ぶりに家で食べた朝食は、碧にとっては本当に美味しかった。ずっと病院食だったからか、久しぶりの母の手料理だったからか、もしくは独りじゃなかったからか……とにかく美味しかった。

「そういえば……父さんはどうしたの?」

「まだ寝てるわ。疲れてたのと安心したお陰でグッスリよ。もう少し寝かせてあげて」

「わかったよ……」

 今日は碧にとって9日ぶりの登校だ。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

「あぁ……行ってきます」


 黄泉坂第一高校

 東京都内にある公立の高校で、1学年につき6クラスの教室があって、基本的に1クラスにつき40人前後、生徒の総人数は約720人になる。

 大学等への進学率、就職率に関しては共に平均よりやや上だ。

 部活動では大会に出場したり、何かしらの賞を取ったりする生徒がかなりいる。特に空手部に関しては、約1年で飛躍的に知名度が上昇したとか……。

(おそらく……いや、絶対にアイツらの大暴れが要因だろうなぁ……)と碧は冷や汗を浮かべながら推測する。


 碧の自宅から徒歩で約20分、校門前に到着した。ここまで歩いてきて、身体のどこにも痛みや違和感は無い。身体は本当に問題無い……無いのだが……

(もう少しだけ心の準備をしたいなぁ……)

『おい!』

「ぬわっ!?」

 後ろから背中を軽く叩かれ、碧は情けないリアクションを晒してしまった。

 相手は言わずもがな……、

「木谷村……ぬわってなんだよ? ぬわって……」

「薫……オメェな、病み上がり相手にやることかよ……」

「え、嘘……まだ身体痛むのか……?」

「いや、どこも痛くないし、なんなら今のもただビックリしただけ」

「なんだとコノヤロー!」

「ちょっと待て! 拳を握るんじゃねぇ!?」

 校門前にて突如始まる、幼馴染の2人による戯れ。もちろん他の生徒達に見られている。

「で……何の用だよ?」

「用って……男が独りで、校門前で隙だらけだったから、1発気合入れてやろうと思っただけだけど?」

「隙だらけって……」

 碧の顔を覗く薫は、真剣な笑顔で語る。見知った顔がそんな状態でいるのを見たら、背中の1つや2つは叩いてしまう。鬼虎薫とはそういう女だ。

「久しぶりだからって、学校程度でビビってる感じ?」

「いやビビってねぇ。もう少しだけ心の準備をしたかっただけだ」

「それをビビってるって言うんじゃない?」

「言わねぇ……よな?」

「自信無くなってんじゃねぇよ……」


(…………)

 碧は薫と乳繰り合っている今の状況を懐かしく感じていた。

 空手部を辞めて以降、登校は1人でしていた。誰かと他愛の無い会話をするなんてしたことがあっただろうか?

(1年以上ぶりになるのかな……?)

 

「っていうか遅刻になっちまうから、とっとと行くぞ!」

「いや、まだ20分以上あるんだが……」

「ツベコベ言うなっての! おらっ!」

「うぉい! 腕を引っ張るんじゃねぇっての!」

 やや奥手になっていた碧は、無駄に陽気な幼馴染に引っ張られて学校に突撃するのであった。


「到着っと」

 始業時間15分前、朝っぱらから勢い良く教室のドアを開ける薫と、

「なぁ、もうちょっとのんびりでも良かったんじゃないか?」

 ため息を一つ吐きながら薫に続いて、教室に入る碧。そして……、

『…………』

 そんな2人に注目するクラスメイト達。それまで談笑していた生徒も、読書や予習、やり忘れたであろう課題に集中していた生徒も、皆がそれまでの動作をピタリと中断して碧と薫を見ている。

 正確には、ほとんどの視線が碧に集中していた。

「薫」

 碧は視線に耐えきれず、自分の席まで移動する前に小声で薫に質問する。

「なに? 席替えはしてないけど?」

「そうじゃなくて……いや、それはありがたいけどそうじゃなくて、この空気は何だ? 教室ってこんなに静かだったっけ……?」

「あぁ……はぁ……」

「そのため息は何だ……? まるで、これから起こることはだいたい予想できるぜって感じの……」

「まぁ、悪いことは起きないから安心しなよ。とりあえず席につけ」

「あぁ……うん?」

 全く理解できないまま、碧は窓際の真ん中の列にある自分の席に向かっていく。

 席に着くまでの間、クラスメイト達の視線はブレること無く碧を追いかけていた。

(俺の身体に何か変なものでもくっついてたかな?)

 まるで転校生がやってきた時に向けられる視線になんとか耐えながら鞄を机の横にかけ、ぎこちなく席についた。

「あ……あの……」

 席についたと同時に、前の席に座っている男子から話しかけられた。

「木谷村……だよな?」

「へ? そうだけど……?」

 特別扱いするような話し方に、碧は戸惑いながらも応える。

「その……入院してたんだろ? もう身体は大丈夫……なのか?」

「あぁ……大丈夫だよ」


(1週間以上学校を休むとこうなるのか)

 碧はここから先は絶対に学校を休まないと強く心に誓った。


「あ、あのさ……!」

 今度は隣に座っている女子が話しかけてきた。

「な……何……?」

「その……殺人鬼を蹴っ飛ばしたって……ホント?」

(最近の女子って、いきなりそういう感じでぶっ込んでくる子がいらっしゃるんですね……)

「まぁ……蹴っ飛ばした……かな?」

「マジか!? どんな見た目だったんだよそいつ」

「え……?」

 今度は後ろから……。

「入院中ってどんなだったん?」

「リハビリとかヤバかったっしょ?」

「ネットニュースで記事見たけどさ! 寝たきりから奇跡みたいな回復したってマジ?」

 いつの間にやら、大勢が碧を囲んでいた。

「本当に1回死にかけたの?」

「医者もビビらせたって、ちょっとやりすぎじゃね?」

「黄泉坂町のヒーローって話題になってるよ!」

 いろんな方向からいろんな事を言われて、パニックになってしまう。

「みんなちょっと待ってくれ! 質問とかするならせめて1つずつで……」

「なぁ、サッカー部に来てくれよ!」

「バスケ部にも是非、助っ人だけでもいいから!」

「今週のストリートでの喧嘩にお前の力が欲しい!」

「ちょっと待て、今の誰だ?」

 もはや誰も碧の言う事を聞いてくれない。

 ふと対角線上の、廊下側の席に座っている薫と目が合った。群衆には混ざらずに、机に頬杖をついてこちらを見ていた。

(あぁクソ……薫、助けてくれ……)

 目線だけで何とか救援要請を試みたが……、

「…………」

 伝わらなかったのか、無視されたのか、薫はプイッと顔を逸らした。

(なんてこった……)

 こうして碧は始業時間のチャイムが鳴る直前まで、大勢のクラスメイトに質問責めされた。


(1週間以上学校を休むと……こうなるのか……)

『もう絶対に学校は休まない』

 碧は強く心に誓った。


 昼休み、質問したり部活の助っ人の勧誘に来たりする生徒達のせいで、教室でゆっくり昼食を食べることができなかった碧は、人通りの少ない場所にある空き教室に避難した。

 その過程で、母が碧のために作った弁当を教室に置いてくることになってしまった。

「はぁ……はぁ……誰も追ってこない……か」

 追っ手がいないことを確認し、ホッと胸を撫で下ろす。

「そういや……ネットニュースがどうとか言ってたっけ?」

 呼吸が整ったところで、クラスメイトの誰かが言っていたことを思い出し、スマホでニュース記事を探してみる。

「たぶん俺が入院してた日のどこかだよな……」

 黄泉坂町で起こった出来事がまとめられているニュースサイトを検索し、日付を1日ずつ遡っていく。

「あ……」

 碧が退院する3日前に掲載されたものに、「木谷村碧」の名前が使われた記事を見つけた。

『殺人鬼を撃退!? 黄泉坂町のヒーロー現る!』

 そんな見出しの後に、黄泉坂町で起こった出来事、碧が実際に話した事、記者の感想や専門家の意見等が書かれ、最終的には碧の話を参考にした殺人鬼の全体像を記し、『目撃情報等がありましたら警察へ連絡を』と言う文言で締められていた。

『身の丈ほどの大きなハサミを持っている』ではなく、『大きな刃物を振り回す』と記載されていたのは若干気になった。

「情報の出所はこれか? ヒーローとか大袈裟に書きやがって……この記事すぐにでも消してもらって……いや、今更か……」

 スマホをポケットに仕舞い、ブツブツと呟く。

「にしたって皆容赦無さすぎだろ……こちとら病み上がりだってのに……」

「病み上がりにしちゃ、結構走れてる方だと思うんだけどな」

「のわっ!?」

 碧は自分以外に誰もいないと思い込んでいたから、突然後ろから聞こえた声に驚いてしまった。

「のわって何だよ……のわって……」

 いつから追いかけてきていたのか、薫が碧の後ろに立っていた。

「オメェ……なんでここに……っていうか、なんであの時助けてくれなかったんだよ!?」

「はぁ? あの時って、朝の質問責めのこと? あの人数相手にあたしが加わっただけでどうにかなるかっての!」

「でもよぉ、無視は酷いんじゃねぇの? 俺は薫と目が合った時に、目線で援護要請を送ったはずだぜ?」

「目線で分かるか! バカ! って……今はそんなのどうでも良くって……」

「どうでも良いって……オメェな……!」

「ん……」

 薫がぶっきらぼうに、碧に何かを突き出した。

「ん?」

 弁当箱だった。

「薫……これはまさか、お前が作って……」

「アホ! 木谷村が教室に置いて行ったやつだっての!」

「あ、そっちか。わざわざ持ってきてくれたのか?」

「ツベコベ言わずに早く食えっての」

「おぅ……」

 薫から弁当箱を受け取り、ドカッと椅子に腰掛けた。

「もうちょっと行儀良くできねぇのかあんたは……」

「ウルセェ……いただきますわ」

白米を一口食べる。

(あ……これは……)

 炊き立てではないために熱はほとんど残ってなかったが、それでも米の旨味は十分に感じられた。

「美味い……」

 つい口に出してしまうほどには美味しかった。

「わざわざ言うの……? もしかして、そんなに病院飯不味かったの?」

「病院飯? 思っていたよりは美味かったぞ。そのあたりの技術も進化してるとか言ってたな」

「へぇ……」

「でもよ……」

 カリッと揚げられた唐揚げ、焼き加減が丁度良い卵焼き、味が濃すぎない柚子大根、どれも一口食べただけで手作りだと解る、親の愛情を感じる味だった。

「やっぱりさぁ……『これだよこれ!』って感じ」

「そ……そう……あたしにはよく解んないけど……」

「母さん張り切りすぎだろ……美味いなぁ……」

「お……おぅ……」

 若干引き気味の薫を横目に、碧はあっという間に弁当を完食した。

「ごちそうさんっと……そういや薫は? もう飯は食ったのか?」

「あぁ、購買で焼きそばパン買って食べた」

「焼きそばパンか……良いな」

「どんだけ食べるつもりだよ!?」

「冗談だっつーの……ケフ……」


「で? 身体はどうなんだよ?」

 碧の胃袋がある程度落ち着いたところで、薫が雑に聞いてきた。

「身体? あぁ……」

 追いかけられる過程でそれなりの距離を走った。息切れはしたものの、身体のどこも痛くない。食欲に関しても、先程昼食をしっかり食べられた上に、食後に吐き気を催す等は無かった。

「問題無い」

「そっか……」

 薫が碧から目を逸らし、

「大丈夫なら……良かった……」

 一言だけボソリと呟いた。

 それに対して碧は、

「おぅ……」

 不器用にしか応えられなかった。


「…………」

「…………」

 それからしばらく沈黙が続いた。薫は険しい顔をして廊下側の壁に寄りかかったまま、碧はそこから少し離れた場所で椅子に座ったまま、お互いに黙っている。かなり気まずい状況だった。

(俺が何か……言うべきなんだろうか……?)

「…………」

「…………」

(何か言うとして……何を言うべきなんだ?)

 これまで距離を置いていたこと、空手部のこと、そしてこれから何をやりたいか……。

(他にも色々あるせいで、どれから話したら良いか判らねぇ……!)

「…………」

「…………」

 昼休み終了のチャイムが鳴るまで後少し、タイムリミットまでこの状況かと思ったその時、

「あの……さ……」

 薫がとても言いづらそうに口を開いた。

「ん?」

『空手部に戻る気は無いか?』という言葉が碧の頭をよぎり、次の言葉を待つのに身構えてしまう。

「お姉ちゃんが……死んだ日のこと……なんだけど……」

「……!?」

 予想外の言葉に対して目を見開く碧に構わず、薫は言葉を続ける。

「その……あたし……あんたに酷いことしたし、キツイこと言ったし……」

 薫は何かを堪えながら、少しずつ言葉を繋げようとしている。

「だから……その……こんなこと言ったって、許されるわけ無いけど……」

 言葉を詰まらせながらも、

「本当……ごめん……」

 最後まで言いきった彼女を前にして、

「それはもう……気にしちゃいねぇよ……」

 碧はまた不器用な答え方しかできなかった。

「そう……ありがとう……」

 ほんの少しだけ、薫の表情が柔らかくなった気がした。


キーンコーンカーンコ―ン……


 昼休み終了のチャイムが鳴った。

「やばっ……走るぞ木谷村!」

「あ、おい!? 待てよ薫!」

「待てるかっての!」


 自分の知らない領域に突入していた授業を根性だけでどうにか乗り切り、休み時間いっぱいまで続いたヒーローインタビューに対応しているうちに、あっという間に放課後になった。

「木谷村、あたしはもう帰るけど、あんたは?」

 荷物をまとめようとしていた碧に、薫が話しかけてきた。

「あぁ、職員室まで休んでた分のプリントを貰いに行かなきゃなんねぇんだわ。たぶん何かしら話があるだろうし、時間かかっちまう」

「そう……わかった」

 追加で何か言いたそうだったが、キュッと口を結んで後ろを向いた。

「じゃあ……また明日」

「おぅ」

 教室を出ていく薫の背を見送って、

「さて……行くか」

 碧も鞄を背負って、教室を後にした。


 職員室に向かう道中にて、碧は自身の身体について考えていた。

 死ぬかもしれないほどの状態から9日で回復した時点で、自身の身体が普通じゃなくなっていることは確信していた。

 何がどうなっているかは全く理解できていなかったが、そうなったきっかけは明確だった。

(どう考えても……あのハサミ野郎と戦ってた時の……)

 切られた右脚と左耳、その傷口から体内に入り込んできた何か……あれはいったい何なのか?

「…………」

 感覚としては物体でもなければ液体でもなかった。

(じゃあ……気体?)

 戦っていた路地裏に未知のガスか何かが発生していたのだろうか……? 身体の一部が燃えるような何かが……。

(いや、もしそうなら近くに住んでる誰かが違和感を覚えて調査を依頼するとか、そう言うことがあるんじゃ……)

「あ……」

 ふと、立ち入り禁止の看板やチェーンが使われていたことを思い出す。

(あれってもしかして……そのための……)

 だが、そうやって浮かんだ考えはすぐに否定できる。碧が戦っていた場所に、人の身体に異変を起こす特殊な気体が発生していたとしたなら、後からやってきた薫にも何かしらの影響があってもおかしくない。だが薫は不調を訴えること無く今日まで生活している。

(解んねぇ……)

 そして……、

(もう1人……誰かいたよな?)

 京都訛りの女性の声を思い出した。


『ちょっとだけ……堪忍やで?』

『形を変えへんように……壊さへんように……難しいわぁ』


「ゔっ……」

 腹に突き立てられる爪、体内に侵入して内臓に触れる手の感触を思い出し、碧の腹部に激痛が走った。腹に手を当て、身体を落ち着かせる。

(腹と内臓は……何とも無かったんだよな……)

 右脚と左耳には切り傷の痕があった。そこからの出血が酷かったことも身体を診た医者から聞いた。

 だが、腹部や内臓に関しては何も聞いていなかった。異常を確認できたなら、必ず何か報告があっただろうが、全く無かった。

「…………」

 女性が何者だったのか、碧の身体に何をしたのか、それによって碧がどうなったのか、何も解らない。


『ウチは君のことなんてどーでもええけど……あの子のお願いやさかい、助けてあげる』

『ウチは君をこれ以上助けへん。もしかしたらどこかでまた会うかもしれんけど、その時が来たって君の味方にはならへん』


(あの子って……誰?)

 女性の言葉の意味など、余計に解らない。

 結局、碧が現在抱えている問題は、少し考えただけでは結論が出ないものばかりだ。

「はぁ……」

 碧は深いため息を吐いた。


『でも……どうして……』

「へ?」

 考え事に夢中になっていたせいで、前からスマホを見ながら歩いている女子生徒が向かってきていたことに気づいていなかった。


ドンッ


「あっと……すいません!」

 碧は反射的にぶつかってしまった相手の方を見てすぐに謝ったが、

「やっぱり……なきゃ」

 女子生徒はスマホに集中しすぎているのか、碧には見向きもせずにブツブツと呟き歩いている。

(おいおい……)

 流石に無視は良くないだろうと思いながらも、

(まぁ、こんな人も1人くらいはいるか……)

 ハァとため息を一つ吐き、再び職員室を目指そうとした時、


「ハサミ男……消えた……」


(……!?)

 その単語に反応して再び女子生徒の方を見ると、彼女はスルリとすぐ近くの教室に入って行った。

「……!」

 彼女が入って行った教室の前まで移動する。その扉には、

『オカルト部 新入部員絶賛募集中!』と書かれた張り紙が貼ってあった。

「オカルト部……」

 入院中、ハサミを持った者のことや、自分の身体に起こったことに関する手がかりを少しでも見つけられればと思い、過去にあった類似事件や、似たような武器を使った殺人犯等、自分なりにいろいろ調べてみたが、求めていたものは全く得られなかった。

(オカルトか……)

 これまで調べる過程では見向きもしなかったジャンルだ。

 碧が巻き込まれた現象、身に起こった事、思い返してみればそれらのほぼ全てが、どちらかといえばオカルトに近いのかもしれない。オカルトに関する知識は全く無いが、自身が置かれている状況を少しでも理解できるかもしれない。

 そして何より、

「ハサミ男って……確かに言ってたよな……」

 碧が戦った者とは違う誰かのことを言っているのかもしれない。そもそも実在するものではなく、何かの物語に登場したキャラクターのことを言っているのかもしれない。

(それでも……)

 再び出くわした時のために、対処法やそれに近づくヒントが少しでも欲しかった。

「話……してみるか」


コンッコンッコンッ


「は!? はい!」

 ノックに対して、大袈裟にも聞こえる返事が返ってきた。

「失礼しまーす」

 ガラガラと扉を開けた先には、

「あ、えっと……どのような要件……でしょうか?」

 肩まで伸ばしたセミロングの髪、黒い制服に負けない暗いオーラ、オドオドした喋り方、おそらく多くの人が『陰キャ』とはどんな人かと聞かれたら、だいたいイメージするだろう陰キャを具現化したかのような女子生徒がいた。

「2年の方……ですよね? もしかして、入部希望……ですか?」

 問いかけながら頬が緩くなっているのは可愛らしいが、話すときに目を合わせられずにモジモジしているのが、より陰キャらしさを出してしまっている。薫と比べてしまうとかなり大人しく感じてしまう。

「いや、入部希望じゃないんだけど……」

「えっ……!?」

『ガーン』という擬音が聞こえそうな、ショッキングな顔に変わった。表情による感情表現は豊からしい。

「ただ……オカルトの知識を少し借りたくてね。今は君1人? 話しても大丈夫?」

「あっその……大丈夫ですよ。今のオカルト部は私以外誰もいないので……」

「そう、それならよか……何だって?」

 碧は聞き間違いかと思い、聞き返してしまった。

「自己紹介してなかったですね。1年の千影 鈴(チカゲスズ)と言います。オカルト部の唯一の部員だから、実質的に私が部長ってことになりますね」

 聞き間違いでは無かった。

(この部活大丈夫……では無いよな?)


「えっ……木谷村碧って……もしかして、黄泉坂町の殺人鬼を倒したっていう……!?」

 碧が自己紹介を返すと、鈴はキラキラした目をして碧を見つめた。

 机を挟んで向かい合う鈴の視線は、碧にとってあまりにも眩しかった。

「あぁ、うん……俺がその木谷村だよ……倒したって言っても、俺は死にかけたし、相手には逃げられて、何処に行ったのか分からないけどね」

 警察や取材陣に話した時と同じように、当たり障りの無い答え方をした。いきなり現実離れした事を話してドン引きされるという事態は避けたかったからだ。

 だが、

「はわわわわ……!」

 鈴は涙目になって、両手で口元を押さえている。まるでアイドルにファンサービスされた時の反応だ。

(踏み込んでみても……大丈夫かな?)

 碧自身は良く思っていなかったが、ネットニュース記事の効果もあってか、予想よりも早く好感を得られたかもしれない。多少現実離れした話でも、どうにか答えてくれるだろう。

「えーっと……そろそろ良いかな?」

「は、はい! ははは話というのは何でしょう!」

 緊張している鈴の様子に少し苦笑いしながらも、碧は本題に入る事にした。

「さっき、歩きながらブツブツ呟いてるのがチラッとだけ聞こえたんだ」

「へ……あっ……お恥ずかしいところを……見せてしまいましたね……あはは……」

 鈴は顔を真っ赤になった顔を両手で押さえているが、碧は気にせず続けた。

「それで、確認なんだけど……『ハサミ男』って言ってたよね?」

「え……?」

 真っ赤になっていた彼女の顔が、瞬く間に真面目な顔になる。碧の聞き間違いでは無かったらしい。

「俺が出会った殺人鬼……ハサミを持ってたんだよね。普通のじゃなくて、かなり大きいやつ」

「………」

 鈴は背筋をピンと伸ばして、真面目な顔で碧の話を聞いていた。先程までの彼女からは想像できないほどの真剣さだった。

「さっきも言ったけど、相手には逃げられた。あれから逮捕されたとか、死んだとか、そういう情報は出てない。自分でも色々調べたけど、1人じゃ限界でね……」

 突拍子も無く、信じ難い内容だというのは碧自身でも理解している。

『この人は何言ってるんだ?』と変な人を見る目で見られても仕方ないが、碧は恥でも何でも受けるつもりだった。

「だから『ハサミ男』のこと、千影が知ってる限り教えて欲しい。共通点があれば、見つけたり倒すためのヒントになるかもしれない……頼む」

 碧は座った状態で、机に額がぶつかるスレスレまで頭を下げた。

「……わかりました」

 一拍置いてから、鈴が口を開いた。

「木谷村先輩、顔を上げてください」

「ん?」

 言われた通りに顔を上げると、鈴は黒板まで歩き、チョークを使って何かを書き出した。

「正式名称は『徘徊するハサミ男』です」

「……?」


 鈴が黒板をカツカツと鳴らすこと数分、

『徘徊するハサミ男の特徴』と題された文が、国語教師顔負けの読みやすさで書き連ねられていた。

「おぉ……?」


『主な活動時間は夜〜日が昇るまでにかけて、どこかをフラフラと徘徊している』

『様々な場所で目撃された報告があるため、出現場所に規則性は無いと思われる』

『切れ味抜群の大きなハサミを持っている』

『徘徊する目的は、1人で外出している女性を見つけ、殺すこと』

『手頃なターゲットを発見すると、執拗に追跡する』

『追いつかれた場合はそのハサミにより惨殺される』

『惨殺行為を目撃された場合、今度は目撃者を執拗に追跡する。こちらも追いつかれたら惨殺される』

『建物に入る、誰かと合流する等の行動により追跡を撒くことができる』

『1人の女性を執拗に追いかけたストーカーの話が肥大化した説もあったが、実際目撃し、追いかけられた人が数名いた』

『目撃証言として【身の丈ほどの大きなハサミを持っていた】と口を揃えて言っていたため、ハサミ男は実在するのでは? と話題になった』


「私が教えられるのはこれくらいですね」

「…………」

 言葉が出なかった。予想以上の情報提供量に驚いたのもそうだが、その内容から目が離せなかった。

 1つ1つが碧の記憶と重なる。鮮明に思い出される。

(あの日に見たものは、あの時俺の身に起こったことは……もしかして……)

「ちなみに今書いたのは、全部このサイトから得た情報です」

 その言葉によって何とか我に帰った。

「ん? あぁ……サイト?」

 鈴は自身のスマホを取り出して操作し、碧に画面を見せた。

「エクメネ?」

 そこに書かれていた単語を、碧は意味が解らないまま読み上げた。

「ここ数年で、オカルト好きの間では無くてはならない存在になったサイトです。オカルトに関する話や怪談話とか、この界隈では『怪異』って呼ばれてるんですけど、ありとあらゆるものが掲載されているんです」

 余程オカルトが好きなのか、チンプンカンプンな碧を前に目を輝かせて熱く語る鈴がそこにいた。

「一言で怪異って言っても、噂や書籍、実体験、昔話や誰かが創作したものまで、たくさんあるんです。掲示板や週刊誌に掲載されてるものよりも、ジャンルの幅広さや内容の濃さが凄くって……」

「へ……へぇ……」

 鈴の言う通り、エクメネには数多くのオカルトらしきエピソードがごまんと並んでいた。閲覧数や内容の面白さ、信憑性の高さ等でランキング付けされている。

 今日のデイリー閲覧数ランキングは、

1位が『水馬(すいば)ケルピー』

2位が『猿夢(さるゆめ)』

3位が『クビカリ』となっていた。

「結構作り込まれてるんだな……」

「あ、ちなみに『エクメネ』と言うのは、『地球上で人間が居住している地域』を指す地理学の用語なんですけど、『オカルト世界の住人達が住まう場所』としてサイトの名前に使ってるんですって。すごいセンスですよねぇ!」

 この圧倒的熱量。オカルト関連の知識が皆無な碧にも、オカルトという概念が鈴にとって人生の一部であることがこれでもかというほどに伝わってくる。

(それはそれとして、熱くなりすぎて顔がどんどん近づいていることにそろそろ気づいて欲しいのだが)

 ちなみに「エクメネ」には「オイクメネ」とか別名があるらしい。

「あっ……!?」

 鈴はようやく気づいたらしく、サッと碧から距離をとった。

「参考になれば良いんですけど……」

 碧に背中を向けてボソボソと喋りながら、スマホの画面を意味も無くなぞって誤魔化そうとする。

(誤魔化すの下手か……)

 ツッコミを入れたい衝動をグッと押し殺し、

「えっと……千影、1つ聞いて良いか?」

 碧は極めて真剣に問う。

「はい?」

 鈴はスマホをいじる手を止めて、碧の方に向き直る。

「ここまで情報をくれるってことは、俺の話を信じてくれるってことで……良いのか?」

 碧としては『ふざけた事を言うな』と言われ、オカルト部室を追い出されることも覚悟していた。ここまでの好待遇は完全に予想外だった。

「『徘徊するハサミ男』、エクメネのランキングに載っていたんです」

 鈴はメガネをクイっと直し、真面目に語り出す。

「しばらくトップ5をキープしていて、この学校でもその話で盛り上がる人がいるくらいには人気があったんです」

 事実、碧のクラスでも何人かがハサミ男の話で盛り上がっていた。

「それが3日前、突然サイトから消えたんです」

「消えた? ランキングの上位から下がったとかではなくって?」

「はい。名前も、詳細な情報も、全てです。何のお知らせも無く消えてしまいました」

「全部……?」

 3日前。碧がまだ入院中であり、そして……、

「俺のニュース記事が出た日か……」

「そうです。その殺人鬼の一件が絡んでるとしても……と思っていたのですが、先輩のお話を聞いて確信しました」

 眼鏡の奥にある眼に覇気を宿らせ、鈴が再びズイッと碧との距離を詰める。

 それに対して碧は座ったまま身体を後ろにグイッと反らす。背中からビキビキと音が鳴った。

「か……確信って何を?」

「その殺人鬼は、エクメネを閲覧していたユーザーで、そしてハサミ男を真似していると!」

 千影の語気が強くなっている。

「つまり……模倣犯だと?」

「はい! 何処の誰で、どういう悪趣味を持っているのかは存じ上げませんが、ハサミ男の行動を真似することで捜査の手が自分に届き難くなるようにしてるんです! それを気に病んだサイトの管理人が、『徘徊するハサミ男』の情報を全て消してしまったんだと思うんです! 別のオカルトや怪談話まで殺人のために模倣されてしまえば、いずれエクメネが閉鎖、最悪の場合はオカルトというジャンルそのものが危険視されてしまうかもしれないんです!」

 怒りの感情がビリビリと碧に伝わる。ここまで一呼吸で言い切ってしまう鈴を、碧はある意味凄いと感じた。

「その殺人鬼を……ハサミを持った男を実際に見て、倒したのは先輩なんですよね?」

「え……まぁ……逃げられたけど」

 息をハァハァさせながらも喋り続ける鈴に気圧されてしまった碧には、微妙な受け答えしかできなかった。

「つまり、その男がまた現れた時、すぐに対処できるのは先輩しかいないんです」

「うん……うん?」

 どうやら警察に任せるという選択肢は、今の鈴には無いらしい。

「その時の為に備えると言うのであれば! 是非とも協力させてください! この千影にできることであれば!」

「…………」

 この状況で『俺1人でやる』や『警察に任せれば?』と言える度胸は、碧には無かった。

「うん……力貸してくれ……」

 それしか言えなかった。

「はい!」


「それじゃあ、私は目撃情報とかを集めてみます。何か分かったら連絡しますので!」

 と言う流れからメッセージアプリで鈴と連絡がとれるようになった。

 黒板に書いた文字を綺麗に消して、

「それではまた後日!」

 と言い残して、嵐のように部室を走り去って行った。

 碧が「おぅ、またな〜」とその背中に声をかけようとしたころには、もう姿が見えなくなっていた。

「さて……俺はどうしたものか……」

 部室からゆっくりと出た碧は、顔を出したばかりの夕陽に照らされた廊下で、また1人で思考を始める。

 今後、何をするとしても『ハサミ男』が完全に行動不能だと確信することを最優先にしたい。

 かと言って、鈴からの連絡が来るまで何もせずに過ごすというわけにもいかない。

(俺ももう少し頑張って情報を集めてみるか、それともこれから千影と話を合わせやすいように、エクメネを見てみるか……)

「…………」

 先程頭に浮かんだ仮説を思い起こす。あまりにも荒唐無稽で、オカルトというよりもファンタジーで、心の底からオカルトが好きな鈴をバカにするかもしれなかったため、すぐに引っ込めたものだ。

「エクメネに掲載されてたものが実体化したのかもなんて……いくらなんでもってやつだよな……」


『ザ────ザザ────!!』


 模倣犯と鈴は言っていたが、それは『ハサミ男』が『人間である』と仮定した場合の話だ。何も知らない状態では、自然とそう考えてしまうのも無理は無いだろう。実際に碧も、相手が人間であると無意識に仮定して戦っていたのだから。

 鈴との交渉をスムーズに進めるためにそれらを言うのには躊躇ったが、その時の相手の身体、声、不気味さ、碧自身が目で見て、そして感じた何もかもが人間として例えるには無理があるものだった。ましてや倒す方法があの炎しか無いのでは、余計にそう思わざるを得ない。

「あぁ……くそっ……」

 頭をブルブルと振り、思考を一度中断する。

(今は悪趣味なファンタジーじゃなくて、現実的にできる事を考えよう……現実……)

「あれ……何か忘れてるような……?」

 ゾッとする不安に駆られ、必死に忘れたものを思い出そうとすること2分弱。

「あ……職員室!」

 そして数分後、職員室内で欠席していた分のプリントと課題を受け取りつつ、こっぴどく叱られている碧がいた。

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