1−3 碧い衝動

『昨夜未明、東京都内にある路地裏で、女性が何者かに殺害される事件が発生しました』

 テレビに表示された時刻は、そろそろ午前から午後に切り替わろうとしていた。碧は一応眠ることはできたが、3時間もしない内に目が覚めてしまい、まともに疲れを取ることもできなかった。

「…………」

 今日は火曜日ではあるが休日。部活にも委員会にも入っていないので、急に学校に行かなきゃいけなくなるといったことは無い。

 誰かと遊びに行く約束もしていなければ、買い物に行く予定も立てていない。そもそもそんな気分にはなれないし、それができるような状況でもない。

『警察の調べによりますと、殺害されたのは鬼虎明日香さん23歳、一人暮らしをしていましたが、帰省のために実家近くまでやってきたところを何者かに襲われ、殺害されたとのことです』

 何となくつけていたテレビの中で、ニュースキャスターが淡々と報道内容を述べている。

 一連の出来事が発覚してから、まだ半日程度しか経っていないはずだ。警察の捜査の迅速さと、ニュースとして報道されるまでの早さに純粋に驚いてしまう。

 そして……、

「明日香さん……就職……してたのかな……」

 つい昨日、碧の眼前で死んだ彼女が、これからという時期だったのだと今になって知らされる。

 父である龍三も、妹である薫も、昨夜(日付で言えば今日)まで明日香がどうしていたかを言う余裕なんて無かっただろうから、碧が何も聞かされていなかったことに関して不満を言うつもりは無かったのだが……、

「死なない可能性……あった……のかな……」

 自責の念は振り払うどころか、ニュースを見たことでより一層積み上がった。

『犯人は大きなハサミのような刃物を所持した男、それ以外の具体的な容姿等の情報は未だ不明です。現場付近にお住まいの皆様には……』

 テレビから聞こえる音も、流れる映像も、全く頭に入ってこない。

「…………」

 ボーッとしながら、先程淹れたばかりのコーヒーをグイッと飲んだ。味わうことなどできなかった。

『それでは次のニュースです。比良坂駅近くで、行方不明者が……』

「…………」

 ニュースキャスターが次の報道内容を読み上げようとする前に、無気力な動きでテレビの電源をオフにする。


(明日香……さん……)

 無音になったリビングで独り、彼女の顔を思い出す。


 碧の一人称がまだ「俺」じゃなくて「ぼく」だった、碧の周りにある何もかもが大きく見えて、無邪気に笑っていた頃

 幼稚園児だった頃の碧は、6つ歳上の明日香に遊び相手になってもらうことが何度かあった。テレビで見たヒーローの必殺技を見様見真似でやってみせて、明日香に「格好いいよ〜」なんて言われて、照れ臭くなっていた。

 嫌なことがあったりした時は、自身の母よりも明日香に泣きつくことが多かった。

 彼女が碧にばかり構っていたら、薫が「あたしのお姉ちゃんなのに!」って割り込んできたりもしていた。


(…………)


 碧がランドセルを背負って友達と馬鹿みたいにはしゃいでいた頃

 どうしても1人じゃできそうにない宿題があったら、明日香に協力を求め、手伝ってもらったことが多々あった。宿題は建前で、やることを全部終わらせた後に明日香や薫と遊びたいというのが本来の目的だったことが多かったのだが、我ながら甘えすぎていたかもしれないと、碧は今になって思う。

 中学生になってセーラー服を着こなす明日香を見て、鼻の下を伸ばしていた碧を「木谷村の馬鹿! なんて顔してんだよ! 変態!」と怒っていた薫がいた。


(…………)


 中学までの明日香の容姿をふと思い出す。地味とまではいかないが、派手な色や服はあまり好まない、眼鏡と長髪がよく似合っていた、大人しい印象の強い女子生徒だった。

 大人の明日香は、カジュアルな服を着ていて、髪は短くおしゃれになっていた。少なくとも、碧の知っている彼女とはかなり印象が違っていた。成長して垢抜けたというべきか。一人暮らし中に素敵な出会いでもあったのだろうか?

 碧にそれを知る術は無い。おそらく妹の薫でも簡単に知ることはできないだろう。


(…………)


 一番近しい思い出でも5年、遠いものであれば10年前まで遡る。特別に感じるものから、他愛の無いものに至るまで、1つ思い出してしまえば後から後から溢れ出て切りが無い。

 もう一度会いたいと思っていた。成長した自分を見てほしいと思っていた。また話がしたかった。

 それはもう……叶わない。


『ねぇ……あなた……もしかして……』


(…………)


 もしかしたら彼女は……死ぬ直前に気づいたのかもしれない。目の前にいるのは、木谷村碧だと……

 あの時、彼女が鬼虎明日香だと気づくことができたなら……?


「チチチチチ……ピピピピピ……」

 小鳥の囀りが聞こえた。昼の陽射しが木々を掻い潜り、木漏れ日となって碧を僅かながらに照らしている。

「ん……?」

 後ろを振り向く。少し先に、昨日の夜に碧が乗り越えたチェーンの壁、それの支柱になっているポールと立ち入り禁止の立て看板が見えた。今はそれに加えて、事件現場で使用される『関係者以外立ち入り禁止』のテープまで見える。

 足元には遺体があった場所をチョークでなぞったもの、遺留物や血痕等があったであろう場所に、番号が書かれたカードが置かれていた。

「え……あれ……?」

 碧はいつの間にか、その立入禁止とされている路地裏のかなり奥に入っていた。鬼虎明日香が殺された、まさにその場所にいた。

「チチチチチ……」

 状況を全く理解できていない碧を嘲笑うかのように、小鳥が数羽ほど囀りながら周囲を行き来している。

「どうして俺は……ここに……?」

 自分の家から今いる場所までどのようにして移動したのか、どうやって立ち入り禁止の壁を乗り越えたのか、全く覚えていない。

(…………)

 明日香との思い出をできる限り思い出そうとしていた、その間に移動していたのだろうか……?

「とにかく……ここから早いとこ出ていこう……怒られちまう……」

 そうして移動しようとした時、碧の足元に何かが落ちていることに気づいた。

(……?)

 ゆっくり拾い上げてみると、それは御守りだった。神社とかで買えるものではなく、誰かの手作り感が溢れるものだ。

「これは……誰の物だ……?」

 捜査していた警察の誰かが落としていったものだろうか? それとも……

(どちらにせよ、今はこの場から早く出ていくことが最優先だ。御守りは後で落とし物として交番とかに届けてしまおう……)

 そうしてしまった方が面倒事に巻き込まれずに済むかも……とあまりよろしくないことを考えながら、碧は御守りをズボンのポケットに仕舞った。


 その直後だった。


「チチチ…………」

 昼間の路地裏を細やかに彩っていた小鳥の囀りが、突然プツリと途絶えた。

「……?」

 周囲を見渡してみるが、直前まで近くで鳴いていたであろう小鳥の姿は、1羽たりとも見当たらなかった。

 変化はそれだけではなかった。昼間で陽がある程度射していたはずの路地裏が、時間があっという間に進んで夜になってしまったかのように、瞬く間に暗闇に染まっていった。

「なん……だ……?」

 碧がいる路地裏全体が、まるで明日香が殺された時のような雰囲気になっていた。

「何が……どうなってる……!?」

 碧は突然起こった出来事に混乱して、荒れる呼吸を整えることすら忘れていた。

「行かなきゃ……!」

 とにかく来た道をそのまま戻ろうと脚に力を入れて……


──ガン……──


(ん……?)


 後ろから音が聞こえた。金属製の何かを力任せに打ち付けるような音だ。


──ガン……──


(え……?)


 それは後ろから確実に近づいてきていた。聞き覚えのある音だ。


──ガン……!──


「はぁ……はぁ……!」


 つい昨日、聞いたばかりの音だ。恐怖心を蘇らせる音だ。

 そして……


「ザ────ザザ────!!」


「嘘……だろ……!?」

 あの音だ。鼓膜を突き刺すように鋭く、命の危険を感じる程に恐ろしいあの音だ。

 奴だ。鬼虎明日香を殺した張本人だ。今、碧の後ろにいる。


「ザ───ザザ───……!!」


 何を言ってるのだろうか?『みぃつけた』か、それとも『もう逃さない』か……どちらにしても……


「今度は……俺の番かよ……!」


 碧は後ろを振り返ることもせずにその場から逃げようと、自分が向かうべきだと思った場所に目を向けたが……

「……!?」

 少し先に見えていたはずのチェーンが、立ち入り禁止の立て看板が、テープが見えなくなっていた。碧の目に見えているものは、どこまで続いているかわからないドス黒い暗闇だ。

(これは……!?)

 昨夜と同じだ。先が見えない。別世界に来てしまったような感覚というのも、あながち間違いではなかったかもしれない。

(この先に進んで、奴から無事に逃げ切れるだろうか?)


──ガン……!──

「ザザ───!!」


(とにかく逃げなきゃ……!)

 そう考えた直後、


『ただ見てただけだったのかよ……お前……!』

 胸ぐらを掴んできた薫が頭に浮かんだ。


(逃げ……なきゃ……)


『助けてくれなかったのかよ……木谷村……!』

泣いている薫の顔が頭に浮かんだ。


(逃げ……)


『しにたく……ない……な……』

 生への執着を捨てていなかった、明日香の顔と声までフラッシュバックした。 


(…………)


 逃げ切れるかどうかは判らないが、今すぐにこの場から逃げだすことは簡単だ。

 だが、先の見えない暗闇の中をどのくらい走っていられるだろうか?

(逃げ切れなかったら殺される……)


──ガン!──

「ザザ─────!!」


 先程よりも碧に近づいたことが音で解る。


(もし逃げ切れたら……奴が俺を見失ったら……)


──ガン!──


 碧の思考する力がフル回転する。

 殺されるか逃げ切るか、碧が迎える結末がどちらだったとしても、奴がその次に取るであろう行動は一つしか予測できなかった。

(次のターゲットを……殺したい奴を探して……殺す……)

 ゴクリと生唾を飲み込む。

(その『次』ってのは……)

 真っ先に思い浮かんだのは……


──ガン!!──


 昨日、碧の目の前でめちゃくちゃ泣いていた、俺が知ってる中で一番強い、小さい頃からずっと近くにいた、碧にとってたった1人の……


──ガン!!──


「…………」


 碧はゆっくりと、振り返っていた。先程まで逃げようとしていた身体は、反対方向を向いていた。


「ザザ─────!!」

 碧がいる場所から数歩先に、相手の姿はあった。暗闇に紛れてしまえそうな黒いモヤに覆われているように見える人間に近い全体像、その黒い両手でしっかりと握られているハサミは、175㎝ある碧の身長よりも大きく見える。そして……眼と思われる部分が、真っ赤に光っている。何かを恨むような赤色が、真っ直ぐに碧を見ていた。


──ガン!!──

 威嚇のためか、自身を鼓舞するためか、巨大なハサミが盛大に打ち鳴らされた。耳を塞いでその場からすぐにでも逃げ出したくなる音だった……つい先程までの碧にとって……だが。


「……うるせぇな」

「!?」

 相手が少しだけ、肩……のような部位をビクッと震わせた。これから殺そうとしている相手が、逃げるどころか振り返り、悪態をついたことに驚いたのだろうか?

 相手が何を言っているのかは未だに理解できないが、動揺していることだけは声色やリアクションで解った。


『次』が彼女と決まったわけでは無い。だが……探して殺す、それを繰り返せば、そのうち彼女の番がくる。


「スゥゥ……」

 少しだけ息を吸う。逃げたかったはずなのに、今はそんな気は少しも無い。


「ザザ──……!」

 相手は持っていたハサミを構え直し、再び真っ赤な光を碧に向けた。迎え撃つ準備はもう済んでいるらしい。


「フゥゥゥ……」

 吸った分より少し多めに息を吐く。


 下手をすれば殺される。それに対する恐怖心が無くなったわけではない。

 それでも……、


「……」

 睨まれた分だけ、思いっきり睨み返した。


「……」

「──……」

 互いに睨みを効かせたまま動かない。1秒が、一瞬が、あまりにも長く感じられる。


(それでも……こんな奴をアイツのところに行かせたくはない……アイツまで失いたくはない……!)

 碧が抱えたトラウマが消えたわけではない。

 これ以上失いたくない。護りたい。

 誰かに頼まれたわけでも無い、それは最早エゴに等しい。誰が望んだわけでも無い、自身の中にある罪悪感を少しでも減らすための、独りよがりの償いでもあった。

 それでも……、


「逃げねぇ……逃げるわけにはいかねぇ!」


 戦う理由としては十分だった。


「ザザ─────!!」

 相手の雄叫び そして、

──ガン!!──

 試合開始のゴングの代わりか、耳障りなハサミが打ち鳴らされる。

「来いよ……人殺し……」

 自然と両手が拳を握り、碧の身体はボクシングのファイティングポーズをとっていた。

「殺せるもんなら……殺してみろ……!」


************


「…………」

 時刻は正午を少し過ぎた頃 天気は快晴

 明るい空とは対照的に、家の中の雰囲気は暗かった。

「あぁ……こっちは大丈夫。遅くても明後日までには……」

 父が電話で話をしている。相手は仕事の都合でしばらく別居していた母だ。姉の葬儀について話しているようだ。

「こっちに来て少し休んだら、参列してくれる皆さんに、一緒に挨拶しよう……あぁ……わかってるよ……全部終わったら、飯でも食べに行こう……3人で……」

『3人』

 その言葉が息を詰まらせる。

 本来ならば『4人』で食事ができるはずだった。

 昼食として食べるようにと父がコンビニで買ってた弁当が目の前にあるが、今は口に入れたとして、飲み込める自信が全く無い。


「…………」

 仕事を休んで葬儀の準備のために忙しなく動く父

 訃報を受け、急いでこちらに向かっている母

 犯人逮捕に向けて捜査をする警察

 一連の事件を報道するテレビの中のニュースキャスター

 姉が何者かに殺されてから半日と少し……たったそれだけの時間で、いろんな場所でいろんな人が動いている。

 そんな中で彼女は……鬼虎薫は、目の前の弁当に手をつけないまま、無言で時間を過ごしていた。

「…………」

 頭の中に、顔に白い布を被せられた姉の姿が、まだ鮮明に残っていた。泣き崩れた父の姿が、目に焼き付いていた。そして……

「あ……」

 やらなければいけないことを1つ思い出した。後回しにしてはいけないことだ。

「行かなきゃ……」

 ボソリと呟き、急いで立ち上がった。


「薫、母さんと話を……薫?」

 電話を片手に話しかけた父が、出かけるための服装に着替えた薫を見て、キョトンとしている。

「何?」

 次にくる言葉を予想しながら、薫はぶっきらぼうに言葉を返す。

「何処に行くんだ……?」

 薫の予想通りだった。

「碧の家……酷いことしちゃったから、謝りに行く」

 薫は碧が許してくれるか否かに限らず、謝らなければと思っていた。このままでは謝る事ができないまま、嫌な時間だけが積み重なっていくと考えていた。

「すぐに戻る……弁当は自分で温め直すから……」

 そう言い残し、玄関に向かおうとして……

「薫」

 少し語気を強めた父に呼び止められる。

「……何?」

 早く碧の家に向かいたい薫は、少しだけ煩わしく感じながらも我慢して言葉を返す。

『今はやめておけ』や『昼飯を食べてからでも……』等、そのようなことを言ってくるだろうと思っていたら、

「気が済むまで話してきなさい」

「……!」

 予想外の言葉に薫は戸惑ってしまう。

「…………」

 少しだけ間を空けて、

「……ん」

 またぶっきらぼうに返しながら、薫はドアノブに手を伸ばした。


************


──ガン!!──

 ハサミを力任せに打ち鳴らす音が暗闇に響く。

──ゴッ!!──

 振り回されたハサミの刃先が、コンクリートの地面を叩く。

 その攻撃の一つ一つが、強烈の一言に尽きる。当たってしまえば、それが掠っただけのものでも、かなり痛いだろう。まともに喰らった時のことは想像したくない。

 ……喰らわなければ良い話なのだが


──ブゥン!!──

 振り回した時に生じる風の音すら、無駄にうるさく感じる。

「遅えっての!」

──ガン!!──

 碧に向けて縦に振り下ろされたハサミは空を切った。


 相手の攻撃は強烈ではあるが、それ故と言うべきか、とにかく遅い。攻撃そのものが遅い。

 ハサミで攻撃する際の振りかぶる行為、突く攻撃をする際の構え、そういった予備動作に至るまで遅い。

 相手の動きをある程度見てしまえば、格闘技も喧嘩もやったことが無い素人でも『次はこの角度から攻撃がくる、次はこんな動きをする』といった感じで覚えられるだろう。

 おかげで運動を1年サボっていた碧でも、簡単に避けることができるし、避けた後に攻撃を確実に当てられる。


──ゴンッ!!──

 また地面を叩く音、そして、

「そらぁっ!」

 攻撃後に生じた隙をついて、振りかぶった右の拳が相手の顔面に、

──バンッ……──

 当たった……当たったが……

「…………」

 相手はのけぞることも、後ろに下がることも無い。それどころか、拳が当たった箇所を手で押さえることすらもしない。

「ザ──!!」

『今何かしたか?』とでも言った風な音が奴から聞こえ、間髪入れずにまたハサミが振り回される。


 動くスピードは碧の方が速い。相手の攻撃は避けられる。そして碧の攻撃は確実に当たる。

 だが、当たるだけだ。

 何度も攻撃を当てた。たくさん殴った。たくさん蹴った。拾った木材でも殴った。当たれば痛そうな石も、全力で投げつけた。

 顔面、胴体、脚、背中、あらゆる箇所に命中した。

 その内の一つとして、決定打になるものが無かった。

 相手がダメージを受けたであろう瞬間が、全く無いのだ。


「こんのっ……!」

 左の膝蹴りを相手の腹と思われる部分に叩き込む。

「いい加減に……!」

 右の中段蹴りは相手の左脇腹らしきところに命中する。

「うらぁっ!」

 その勢いのままに、背中から自身の身体をぶつける鉄山靠(てつざんこう)のような体当たり

──ドンッ!──

「…………」

 相手が3歩ほど後ろによろけたが、すぐに体勢を立て直し、またハサミを振り回す。


 どれだけ力を込めても、どれだけ勢いをつけて攻撃しても、何歩か後ろに下がらせる程度が限界だった。

「はぁ……はぁ……」

 そんな状態が続けば『どちらの体力が先に尽きるか』という勝負になってしまう。

 相手はどこかを痛めた様子も無い。疲れたような兆候も見られない。

 対して碧は……

「はぁ……はぁ……ケホッ……」

 軽く咳き込んでしまうくらいには体力を消耗していた。服は汗でびしょ濡れだ。

(くっそ……)


「ザザ──……!」

 容赦なく振り回されるハサミを避けることはまだできる。

 身体を動かしながら、ある考えが頭に浮かぶ。

(俺も奴も、どのくらい動き続けた……? 奴はなんで疲れてないんだ……?)

──ガン!!──

 耳障りな轟音に顔を歪ませながら、拳を振りかぶる。

(どのくらい攻撃を当てた……? なんで平気なんだ……?)

「せりゃぁっ……!」

 胸と思われる部分に右拳を当てる。

──バンッ……──

(なんなんだよ……!)

「ザザ──……!」

 相手はやはり何事も無かったかのように、攻撃を再開する。

(こいつは……)

 碧はしばらく戦っている中で、黒いモヤに覆われた相手の姿を間近で見ることができた。

 だが、その全体像はおろか、身体のどこか一部分ですらも、その正体を垣間見られるような要素はどこにも無かった。

(いったい……)

 碧が今まで当てた攻撃は、全て人間の身体に的確にダメージを与えることができるものだった。

 あくまで『人間の身体』に対してだ。

 碧は相手を……相手の身体の構造を『人間とだいたい同じ』と無意識的に過程して攻撃していた。

「はぁ……はぁ……」

(奴が『人間じゃない何か』だったなら……?)

どうすれば倒せるのか? 自分に勝ち目はあるのか? 後ろ向きな考えが頭に浮かぶ。

「ゲホッ……! はぁ……はぁ……」

 碧の呼吸が安定しなくなってきた。

──ガン!!──

 相手はお構いなしにハサミを打ち鳴らして碧に向かってくる。

「テメェは……」

 碧の視界がぼやけ始める。体力が限界に近い。

「何なんだ……いったい……!」

「ザザ──……!」

 そんな声らしき音とほぼ同時に、碧の視界の左端にハサミが見えた。

(……!?)

 ぼやけた視界のせいで、身体の反応が遅れてしまう。

(しまった……!)

 碧の左脇腹にハサミが触れた。

(俺……死ん……)


──ドンッ!!──

 少なくとも、何かを切る時には鳴らない音が鳴った。

「ウガッ……!?」

 碧の身体は切られたのではなく、飛んだ。

──ゴッ!!──

 狭い路地裏だったからか、飛ばされた碧の身体が壁面に激突するまでは本当に一瞬だった。

「うっ……」

 碧の身体は斬られていない。死んでいない。

 ハサミの刃ではなく、面の部分を使った、ハサミでやるようなものではない薙ぎ払う攻撃だったおかげで、碧はまだ生きている。

 右側頭部、右腕、右脇腹、右脚、主に右半身を壁面に強打する形になって、死ぬかと思うくらい痛みを感じてはいるが、どうにか生きている。


 かつての碧は、一撃で人の骨を折ってしまうくらいには強かった。一年という期間、格闘技から離れて弱くなったとしても、誰かとの一対一では簡単に負けない自信があった。


 そんな碧が今は……。

 脳が揺れたせいで頭がクラクラして痛み、身体はふらついて上手く動けない。意識は根性で保っている。そんな状態は少なくとも、強者とは言えない。

「ぐ……ぬ……」

 当たりどころが良かったらしく、骨が折れたような感覚も、内臓が傷ついたような痛みも無かった。

 しかしたった一撃、その一撃のせいで立っているのがギリギリの状態、その状態で次の攻撃を避けられるだろうか? そもそもこのまま戦い続けることすらできるだろうか?

(こんなの……初めてだ)

 自分の攻撃が全く通用しないのも、誰かの攻撃によって力強く飛ばされるのも、たった一撃喰らっただけで負けそうになるのも初めてだ。

 そもそも『負けそう』だなんて考えることすらも……碧にとっては何もかもが初体験だ。


(一旦距離を……取らなければ……)

 碧は相手を見失わない程度の距離を保ち、それでせめて呼吸を整えるべきだと判断した。(奴の動きの遅さも計算すれば、なんとかできるだろう……できるはずだ)

 半ば無理やり自身に言い聞かせ、碧は相手がいるだろう方向に目をやった。

「フゥゥゥ──……!」

 目の前に……いた。

「あ……」

 すでにハサミを振りかぶっていた。

(やべ……!)

 碧は力を振り絞って後ろに飛んで……

──ドンッ!!──

 振り下ろされたハサミは、また地面を抉り、コンクリートの破片を周囲に撒き散らす。

 碧は背中から地面に着地した。

「うぐっ……」

 碧はギリギリで避けることができた。

(早く奴から……離れなければ……!)

 すぐさま立ちあがろうと、痛む身体を起こそうとして……、

 立ち上がれなかった。右脚に力が入らない。左脚は何かに滑って、地面を上手く踏むことができない。

(あれ……?)

 身体のあちこちが痛んでいたが、立てない程ではなかった。

──ガン!! ガン!!──

 ハサミを打ち鳴らしながら、ゆっくりと近づいてくる相手に顔を向けると、そのハサミには、赤い液体が付いていた。打ち鳴らされる度に、近くにピチャピチャと撒き散らされている。

 人を殺すために振るわれる刃物に付く赤色なんて1つしかない。

(血……?)

 この場所には、碧と相手の2人しかいない。

 そのハサミに付いている血が、ハサミを振るう者自身のものであるはずがない。

 つまり……、

(俺の……血……?)

 碧の目は、自然と自身の両脚に向けられていた。

 地面が真っ赤に濡れていた。右脚のふくらはぎの部分から、ドクドクと赤色が流れていた。左脚はその赤色を踏んでいたせいで滑っていたのだ。その赤色からは、鉄のような匂いがした。

(あっ……)

 切られていた。ギリギリで避けたと思っていた先程の攻撃は、碧の右脚のふくらはぎに切り込みを入れていた。

「うあああああああぁぁぁ!!」

 殴られたり、何かに衝突した際のものとは全く違う痛みが碧の絶叫を誘う。

 流れて止まらない、止まれと願っても止まらない血は脱力を強制する。

 切り落とされたわけではない。まだ碧の右脚は繋がっている。しかし力が入らない。左脚の力だけでは、立ち上がることができなかった。

「うぐっ……あぁぁぁ……!」

 これでは戦えない。痛みを堪えて、尻餅をついたような状態で、ズルズルと少しずつ後ろに下がることが精一杯だ。

「ハァァァァ……──」

 そんな状態では、当然追いつかれる。先程までと同じように、ハサミを振りかぶる。

 無防備な碧を睨みつける真っ赤な光が、ハサミの刃先が、碧の顔だけを見ていた。刺すつもりだ。碧の顔を真正面から一突き、それで終わりにするつもりだ。

(まずい……!)

「ザァァァァ──!!」

 雄叫びと共に突き出される一撃

「っ……!」

 碧は反射的に身体を右に倒れ込ませた。

──ガッ!!──

 碧の後ろで、ハサミが地面に突き刺さるような音がした。

 それとほぼ同時に、碧の左耳に激痛が走る。

「あぅ……!」

 避けた際に掠めたのだろうか、左耳の耳たぶから血が流れていた。

 避けきれなかったと言うよりは、辛うじてそれだけで済んだと言ったほうが正しい。

「く……そ……」

 碧は倒れ込んだ状態で、左耳を押さえ、その状態から動けない。

 血を流しすぎたせいだろうか、右脚の感覚はほとんどが失われ、目も霞んできた。

 このままでは多量出血で死ぬ。それを待つ前に殺される。そんなことは嫌でも解る。

 しかし……碧にこれ以上できることは……もう無い。


(あぁ……)

 碧は空手部をやめてから1年、ずっと逃げ続けていた。誰に対しても塩対応か、謝罪してからの即退散かのどちらかしかしてこなかった。

 薫に対しても『すまん』と軽く謝って逃げてばかりだった。

 そんな碧が、もう何も失いたくないからと、逃げるのをやめて、正面から戦った。

 その結果は……

(俺……カッコ悪いな……)

碧にとってはカッコ悪すぎて、笑い話にもならない。


──ズボッ……──

 地面からハサミを引き抜いたであろう音が聞こえた。

 後少しで次の攻撃が、最後の攻撃がやってくる。

「はぁ……はぁ……」

 碧の身体は呼吸をすることだけで精一杯だった。

 抵抗する力も、回避する気力も、既に尽きている。


(俺はどんな風に殺されるんだろう? 原型は留めてくれるだろうか?)

 生きるという選択肢は、既に碧の頭の中から消えていた。

 碧の死体が見つかったら、両親は当然として、碧を知ってる人達は悲しむだろう。

 薫はどうだろうか? ひとしきり泣いた後に、家族と一緒に黄泉坂町から離れるだろうか?

 きっとそれが一番良い。この人殺しには、おそらく誰も敵わない。関わること自体が間違いだ。

(何処か別の場所で元気にやっていけるなら、俺の二の舞にならないのなら、それで良いか)


 届くはずも無い想いを頭の中で一通り巡らせた後に、一つだけ後悔が浮かんだ。

(もう一度……せめてもう一度だけ……)

──ガン!! ガン!! ガン!!──

「ザザァァァァァァ!!──」

 勝利宣言とも取れる打ち鳴らしと雄叫び

 今度こそトドメを刺されるのだろう。

 今度こそ木谷村碧は終わるのだろう。

 完全な敗北という事実を受け入れ、碧はゆっくりと目を閉じた。

(アイツの見ている前で……カッコつけたかったなぁ……)


──ズズ……──

(ん……?)

 碧は突如右脚と左耳に違和感を覚えた。痛みとはまた違った感覚だった。

──ズズ……ズリュリュリュ……──

(……っ!?)

 物体ではない、液体でもない何かが、切られた箇所、傷口から体内に入り込んでいた。

「ぐ……ぁぁぁ……!?」

 痛みは無かった。その代わりに感じたのは、異物感と不快感。

──ズリュ……ズリュ……──

 血を失った血管内を、得体の知れないものが侵入し、蠢く。ビリビリと痺れるような感覚と共に、空白になった部分が何かで埋められていく。

(何が……起こって……!?)


************


ピンポーン……

「木谷村〜?」

 自宅を出てから数分、薫は碧の家までやってきていた。

ピンポーン……

「おーーい……」

 軽く押したインターホンの音に反応して、碧がドタドタと足音を立てながらやってくることを期待していたのだが……


…………


 足音も、インターホンに対してリアクションしたような音も、何も聞こえなかった。

 近所で殺人事件があった次の日に、悠長に出かけているなんて考え難い。

 何回かスマホで電話もかけてみたが、そっちも反応は無かった。

「寝てんのか……?」

 今日は休日だ。さらに誰かの死を、薫よりも近くで体験した後だ。疲れ切って爆睡していても仕方ないかもしれない。

 だが……薫としては1分が、1秒が惜しい。

「ったく……」

 薫の母が帰ってくれば、父も含めて3人で今後のことを話し合うだろう。姉の葬式も行われる。今を逃してしまえば、数日は碧と顔を合わせることができない。今しか無いのだ。


ドンドンドン……

「木谷村ぁ! 寝てんなら起きろぉ!」

 近所の迷惑を考えている余裕は無い。少し汚い例えになるが、尿意や便意を我慢している時のトイレの順番待ちのように、強めにドアをノックする。

ドンドンドン……

 悪いとは思いながらも、碧には嫌でも起きてもらい、嫌でも話をするつもりだった。薫自身が言わなければと思ったことを、全て聞いてもらうつもりだった。

ドンドンドン……


…………


 しかしそれでも反応がまるで無い。

「…………」

 焦りと苛つきのせいで我慢の限界だった。

「碧!」

 薫はイライラした気持ちに任せて、ドアノブを力強く握り、

「お前、いい加減に!」

 引っ張った。

「しろ……!?」

 開いた。

「え……」

 ドアをガタガタさせる音なら、飛び起きてやってくるだろうと予想しての行動だった。

『バカヤロウ! さすがにやりすぎだ!』なんて怒鳴りながら、碧が寝ぼけた顔を見せてくれるだろうと、そんな馬鹿みたいな展開を期待していたのだ。

 鍵が掛かっていなかったのは……完全に予想外だった。

「嘘だろ……?」

 家の中は不気味さを感じてしまうくらいに静かだった。靴を置きっぱなしにするスペースには、碧が普段使っている靴が……無かった。

「っ……おーい、あ……木谷村―……」

 念のために、碧の名前を呼んでみる。


…………


 返事は無い。玄関に向かってくる足音も無い。間違いなく何処かに出かけている。

 碧の一人暮らし期間が長いことは、去年に碧自身が話していた。薫が大変そうだと言ったのに対して、碧は『慣れれば案外なんとかなる』と返していた。

 親と一緒に暮らしている薫よりも、戸締まりや火の扱い等には人一倍に気を遣っているはずだ。

 そんな碧が、鍵を閉めないで、何処かに出かけた。

「アイツ……まさか……」

 嫌な予感が、最悪の予想が頭に浮かぶ。

「っ……!」

 薫は咄嗟にスマホを操作していた。碧に連絡を取るためだ。

「碧……出てくれ……声を聞かせて……」


プルルルル……プルルルル……


「え……?」

 家の中から……着信音が聞こえてきた。

「嫌だ……」

人の死を至近距離で見て、精神的にダメージを負ったのに加えて……。

『どうなんだよ……何か言えよ……! 碧!』

自分の言葉が余計に追い詰めた……。

「違う……そんなつもりじゃ……!」

 身体が震えていた。その場から動けなかった。姉に続いて碧まで、自分の近くからいなくなってしまう。それは……嫌だ。

 考えすぎかもしれないが、その結論に至るための要素が、原因が、薫の中にあった。


プルルルル……


 着信音は無情にも鳴り続ける。

「碧……どこに……」


『ぐ……ぁ……』


「えっ……!?」

 聞こえた。小さな声だったが、聞こえた。

「今のは……!」

 何年も近くで聞いてきた声だ。聞き間違えるはずが無い。

「碧っ!」

 薫は声がした方向へ走っていた。人の家のドアを開けっぱなしにして、駆け出していた。


************


 手に持ったハサミから、血の滴が滴り落ちる。地面には数箇所の抉れた痕ができている。

「うぁ……ぐっ……」

 足下には少年がうずくまっている。右脚と左耳に切れ込みがある。先程ハサミを通したから。

 いくらか抵抗されたが、全く痛く無かった。最初は逃げ腰だったが故に、急に立ち向かってきたのには驚いたが、なんてことは無かった。少年はただ体力の無駄使いをして、死ぬまでの時間を少し早めただけ。

「はぁ……はぁ……」

 ほんの少しだけ様子を見ていたが、立ち上がって反撃をするような動作は見られなかった。そんな体力はもう残っていないようだ。

 ようやく終わる。次に行ける。

 殺して、殺して、たくさん殺して、

『自分が何者であるか』を確立させることができるまで、残りは……何人だろう?

 後何人殺せば良いんだろう?

「ぐ……ぁぁぁ……!?」

 それは後で考えよう。今は……とにかく終わらせよう。

 血に濡れたハサミをゆっくりと振り上げる。

 同情も、躊躇いも無い。あるのは『これがトドメだ』という確信のみ。

 痛みに苦しみ悶える少年の、その無防備な身体に、最後の一撃を、ハサミの刃を振り下ろす。


──ガンッ!!──


 ……ん?

 今の音はなんだ? 身体を貫いたり、切り刻んだ時の音ではなかった。

 少年の断末魔も聞こえなかった。『確実に殺した』という手応えも無かった。

 ハサミは……何も無い地面を、ただ叩いただけだった。

 少年の姿が……消えていた。

 おかしい……そんなことはあり得ない。あの身体で、あの脚で、素早く動くことはおろか、立ち上がることすらできなかったはずだ。

 周囲を見回してみるが、少年はどこにもいない。

 なんだ……? こんなことは今まで無かった。自分の姿を見た者は、皆例外無く殺してきた。抵抗する者も何人かいたが、皆確実に殺した。

 殺す寸前にいなくなってしまうなんて、今まで無かった。

 殺せないのは嫌だ。逃したくない。

 どうしようもない不安に駆られながら、少年の姿を探す。

 どこにいるんだ? 出てきてくれ。出てきて殺されに来て……。


『おおおおおおお!!』


 声が聞こえた。少年の声だ。声が聞こえただけで姿は見えないけど、近くにいるんだ。

 でもこの声……どこから……?


ドンッ!!


 え……?

 上から何かが落ちてきた。手に持っていたハサミが、落ちてきた何かに踏みつけられた。

 なんだ……? 何が起こっているんだ……?

 落ちてきた何かが、ハサミを踏みつけたままこちらを睨んでいた。

 上から落ちてきたのは、動けなかったはずの少年だった。

 切れ込みを入れたはずの右脚と左耳が、青緑色に燃えていた。

 ハサミを動かせない。攻撃ができない。

 こちらを睨むその目が怖い。どうして動けた? なんで右脚と左耳が燃えている?

 何が起きている? お前は何者だ? ただの人間じゃなかったのか?

 お前はいったいなんなんだ?


************


 碧が右脚と左耳に感じていた不快感は、そう長くは続かなかった。傷口から入り込んでズリュズリュと音を立てて蠢いていた何かは、突然ピタリと動きを止めた。

 それと同時に、碧の身体は飛び上がっていた。目の前で碧を見下ろしていたはずの者が、全く気づかないくらいの速さで飛び上がった。今の碧は相手の上を取っている。

「ザッ……?──」

 相手は周囲をキョロキョロと見回して、碧の姿を探している。

 切れ込みを入れられたはずの右脚と左耳は、傷口が完全に塞がり、何故か燃えていた。赤く……ではなく、青緑色に燃えていた。痛みはまだ少しあるが、気にするほどでは無い。少し熱いが、皮膚や衣服が焼けるような様子も無かった。

 ただ、力を感じた。動けなかったはずなのに、出血多量のために死んでしまうとまで思っていたのに、

 今は……力が湧き出て止まらない。

「おおおおおおお!!」

 叫ぶと同時に身体が急降下、真下にいる相手の、その手に握られている巨大なハサミを目掛けて落下する。そして……


ドンッ!!


 ハサミを、唯一にして最大の武器を、全力で踏みつけた。

 いなくなった、つい先程まで血を流して倒れていた者が、突然上から降ってきたら……

「ガ……!?──」

 誰だろうとパニックになる。

 踏みつけられたハサミは、いくら動かそうとしてもビクともしない。

「ふぅ……」

 軽く息を吐く。

 自分の身に何が起こっているのか解らない。それだけではなく、相手が何者なのか、今の自分が置かれている状況がなんなのかすらも、解らないことだらけだ。

 そんな中でも、今この瞬間、碧の中で確信できていることが2つあった。


 やるなら今しか無い。

 そして……


「ガ……! ザ……!──」

「ウルセェな!」


 やらなきゃ殺られる。


 歯を食いしばり、燃える右脚を、パニックになっている相手の左側頭部に叩き込む。


ゴギャッ!


 直撃。致命的な音と同時に、右脚の炎が相手の頭部に燃え移る。

「───……!」

 断末魔が周囲に響き、相手は後方へ飛んだ。


「はぁ……はぁ……」

 右脚と左耳はまだ青緑色に燃えている。飛んで行った相手の頭部も同じ色に燃えている。鎮火する様子は、今のところは無い。

「うっ……!?」

 突如、右脚に激痛が走った。

「いってぇ……」

 出血は止まり、傷口は塞がった。動けるようにもなった。しかし、痛みが消えたわけではないらしい。

「…………」

 仰向けに倒れている相手の身体は、起き上がるどころか、ピクリとも動かない。

(死んだフリ……では無いよな……?)

 致命傷だと確信できるほどには、酷く鈍い音だった。命中した瞬間にそうだと確信できるほどの手応えだった。首の骨が折れるまでではないとしても、しばらくは寝たきりになるかもしれない。

 だから死んだフリをしているとは思えない……というよりは考えたくない。

 本当に死んでしまった……なんて考えたくない。

「はぁ……はぁ……」

 自分の右脚に意識を向ける。時々パチッと音を出しながら、強く燃え続けている。

 どんなに殴ったり蹴ったりしても、数歩だけ後ろに下がらせることが限界だったのに、燃える脚の一撃でこの有様だ。

(この炎は……なんなんだ?)

 右脚と同じように燃え続けている左耳に意識を向ける。

 攻撃できる右脚とは違い、左耳が燃えて何ができるのか、碧にはまるで判らなかった。

(どうして急に燃え出した? なんで赤じゃなくて『青緑色』なんだ?)

 疑問は尽きなかったが……


「──イタイ……」


「!?」

 自分のものではない声に驚いて、自身の状態に関する考察は中断される。

碧は声がした方向を見る。


「──アタマ……イタイ……」

 仰向けに倒れてる相手から、絞り出すような声が聞こえた。

(あいつの声……なのか?)

 ずっと『ザー』や『ガー』等、声とは認識できなかった音の羅列が、

「──モエル……イヤダ……」

 聞こえた。声として聞くことができた。

(左耳の……力なのか……?)

 そして……

「へ……まだ生きてた……か」

 碧は安心していた。まだ生きているのなら警察に逮捕してもらい、法律で裁いてもらえると思っていた。

 そして何より、どんな理由があったとしても、相手を殺してしまうのは後味が悪い……そう考えていた。

 だが、

「───キエタク……ナイ……シニタク……ナイ……」

 最後の力を振り絞ったのか、相手は身体をピクピクと痙攣させながらそう言った。

 それが聞こえた瞬間、


『しにたく……ない……な……』

 碧の頭に、明日香の言葉が蘇った。


「……は?」

 そして碧に生まれたのは、後悔でもなく、同情でもなく、怒りだった。

 その言葉が、碧にはどうしても許せなかった。

 他人の人生を壊してしまった経験があったから、それを後悔しているからこそ、殺人という形で他人の未来を奪った相手から出た言葉を許せなかった。


「そうだよな……死にたくは……ないよな」

 痛む右脚を引き摺って、倒れて動けない相手に向かって歩く。

「誰だってそうだ……俺もそうだ……当然だ」

 一歩一歩、ゆっくりと近づく。

「でもさぁ……お前は今まで何人殺してきた?」

 右脚と左耳の炎が、青緑色から少しずつ色を変えながらその勢いを増す。

「死にたくないって……そう言ってた人は……何人いた……?」

 炎の色が、青緑から赤色に変わる。

 相手の頭部を踏みつけられる位置まで、トドメをさせる位置まで、あと1歩……

「それすら言えなかった人は何人いた!」

 碧が吠え終わった直後、

「───ウ……アア……」

 相手の身体が霧散した。文字通り、塵になって消えてしまった。

「え……!?」


「チチチチチ……ピピピピピ……」

 小鳥の囀りが聞こえた。陽射しが木々を掻い潜り、木漏れ日となって俺を僅かながらに照らしている。

「え……あれ……!?」

 暗闇に包まれていたはずの路地裏に、光が戻っていた。

「何が……起こって……?」

 突然の出来事の連続で理解が追いついていない。

 碧は周囲の状況を確認してみる。

 立ち入り禁止の立て看板も『関係者以外立ち入り禁止』のテープも見える。

 足元には遺体があった場所をチョークでなぞったものと、番号が書かれたカードが置かれている。

 戻って来ていた。戦闘が始まる前の路地裏に戻って来ていた。

「えぇっと……?」

 抉れた地面や壁、所々破けている碧の衣服、そして碧の右脚と左耳から少しだけ垂れ流れる血が、先程までの出来事が夢でも嘘でもなかった事、時間が巻き戻ったわけでもない事を証明していた。

 しかし……

「いない……いないぞ……」

 つい先程まで倒れていたはずの相手の姿は無い。

「まさか……逃げ……」


 突如、碧の視界がグニャリと歪み始めた。

(あ……あれ……?)

 激痛が全身を覆い、身体が自然に前に倒れ込む。

(あぁ……これは……)

「ぐ……ぁ……」

 痛くて、痛くて、何も考えられない。

(ダメ……かも……)

 テレビの電源を消した時のように、視界がプツリと真っ暗になった。


************


『──……』

 誰かの声が聞こえた気がした。女性の声だった。

『──もし……もしもーし……』

 倒れている碧の傍にしゃがみ込んで、誰かが語りかけている。

『よーいしょっと』

 うつ伏せに倒れていた碧の身体を、女性はゆっくりと仰向けの体制にする。

「…………」

 碧は薄く目を開け、僅かに呼吸をすることが精一杯だ。女性の姿を視認することも、その声に応えることもできない。

『生きてはいるんやね。こんなになってるのに……タフなんやねぇ』

 京都の訛りが混じった声の主は、碧の腹を撫でながら生存を確認した。

『でも……ダメなものがたくさん入っとるわ。このままじゃ死ぬわ……』

「…………」

 淡々と碧の状態を分析する女性の言葉を、碧はぼんやりと聞くことしかできなかった。そもそも女性が何を言おうとしているのか、何をしようとしているのかが解らなかった。

『ちょっとだけ……堪忍やで?』

 女性はその言葉を前置きにし、碧の腹に指を突き刺し、手首までを体内に侵入させた。

 せめて声を出すことができれば、痛みに絶叫することで誰かを呼び寄せることができたかもしれない。

「っ……」

 しかし死にかけている今の碧では、僅かに息を漏らすことしかできない。完全にされるがままだった。

『ウチは君のことなんてどーでもええけど……あの子のお願いやさかい、助けてあげる』

 女性はその言葉とは正反対の行為を続ける。少なくとも手術とは程遠い、何かを捏ねくり回すような音が碧の体内から聞こえる。

 碧は当然、自身が何をされているのか理解できていない。

『形を変えへんように……壊さへんように……難しいわぁ』

「ぁ……が……」

 なんとか取り戻した意識が再び消えてしまいそうになったところで、

『ふぅ……』

 碧の腹からズボッと手を抜き、最初に声をかけた時と同じように、碧の腹を軽く撫で回した。

『はい、お終い』

 地獄でも滅多に見られないだろう行為がようやく終わったようだ。

「っ……」

 碧が再び息を僅かに漏らした後、ぼんやりとしていた視界が暗闇に染まっていった。その途中で、

『これっきりや……君がこれから先どうするかは知らんけど、ウチは君をこれ以上助けへん。もしかしたらどこかでまた会うかもしれんけど、その時が来たって君の味方にはならへん』

 淡々と語られる言葉は、およそ死にかけている者にかけるようなものでは無かった。

『まぁ……せいぜい──ように──んやね。──なら……』

 最後まで聞き取ることはできず、碧は完全に意識を失った。


************


「…………」

 碧が目を覚ますと、そこは綺麗で静かな室内だった。

 陽ざしが雲の隙間から顔を覗かせ、風が吹き、木々は揺られ、日差しが木の枝と枝の間を縫って木漏れ日となり、窓から室内に差し込む。

 碧は室内に備えられているベッドで布団を被った状態で寝かされていたのだ。

「……?」

 碧は最初こそ状況を飲み込めていなかったものの、横になった状態のままで自身の体験を少しずつ思い出した。そして、

(そっか……)

 一つの結論に行き着いた。

「はぁ……」

 軽くため息を吐き、

「俺……死んだのか……」

 その結論をボソリと口に出した。

(そっか……そっかぁ……)

 しかしすぐに違和感を覚えた。

 木があれば太陽もあり、窓やベッドが備えられた部屋がある。天国や地獄がどういった場所なのか全く分からないが、死後の世界にしては現実感がありすぎる。

 そして、右手を誰かに強く握られている感覚があった。

(……?)

「スゥ……スゥ……」

その人物は碧の手を握ってまま寝てしまっているようだった。

 手を握っている者の正体を確認しようと、寝ている身体を起こそうとして……、

「……っ!?」

 起こせなかった。全身に激痛が走り、まともに身体を動かせなかったのだ。

「いっ……てぇ……!」

 痛みに耐えきれず、苦悶の声が碧の口から漏れてしまう。

 その声に反応して、

『ん……?』

 碧の手を握っている人物が目を覚まし、顔を上げ、

「え……?」

『あ……!』

 2人の目が合った。

「薫……?」

 信じられないものを見たような表情で顔を覗き込んでくるその人物の名前を、碧はボソリと口にした。

「碧……!」

 薫は驚きと喜びが入り混じった声を出し、

「お前……!」

 握っていた手は離され、碧の身体は薫の両腕に抱きしめられた。

「生きてるなら……生きてるならもっと早く目ぇ覚せよ!」

 そうして薫は感情を爆発させ、碧の耳元で激しく泣き叫んだ。

「ちょっ……痛い! 痛いってば薫! イダダダダダ!」

 碧の身体は薫に抱きしめられたことで、起きあがろうとした時のものよりさらに強い激痛に襲われた。

 何事かと様子を見に来た看護師が碧の様子を見るや否や『すぐに先生に報告を!』と走り去っていった。

 全身に走る激痛に耐え、耳元で泣き叫ぶ薫をゆっくりと抱きしめ返し、

(俺……生きてるんだ……)

 ようやく生を実感できた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る