1ー2 ハサミ
どこかの会場内にて、道着を着た2人の男子が拳を構え、向かい合っている。多くの観戦者が見守る中、互いに相手の出方を窺っている。
『フッ……!』
「っ……!」
片方は左腕の正拳突き、もう片方は右脚の上段蹴りの発動のために動く。
身体の動き、呼吸のタイミング、攻撃の意思を固めた瞬間、ほぼ全てが同時だった。
速さだけが違った。左腕の正拳突きの方がほんの一瞬だけ速かった。
「……!?」
上段蹴りを放った男子は、自身の強さに絶対的な自信を持っていた。一部を除けば、自身を上回る者に出会った事が無かった。
「…………」
たった一撃、それが命中するまでのわずかな時間で、自身の敗北を確信した。結果を潔く受け入れるつもりだった。だが……
パキッ
『ぐあ……があぁぁぁぁ……!』
当時の試合は寸止めが原則となっている伝統空手ではなく、極真空手のルールに則ったもの、すなわち「攻撃を当てて相手を倒す」ことが前提だった。
『誰か救護班を! 早く!』
自身のとった行動、瞬間的な判断、その全てに悪意は無く、間違いでも無かった。それでも……、
『しっかりしろ! 大丈夫だ! 大丈夫だから!』
************
「ハッ……!?」
耳を塞ぎたくなるような声を、自分以外誰もいない部屋の中に響かせ、碧は倒れていた上半身を反射的に起こす。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
呼吸は荒れ、両目が限界まで開かれている。
「っ……!」
碧は自身が突っ伏していた机に置いてあったペットボトルを力任せに掴み取り、中に半分ほど残っていた水を一気に飲み干す。
「ぶはっ……はぁ……はぁ……」
喉を潤したことで、呼吸が少しだけ落ち着いた。
「はぁ……はぁ……俺は……」
冷静になった碧は自身の状況を整理する。
学校から帰宅後、すぐに課題と復習を済ませ、夕食も食べてしまった。その時点で確認した時刻は夕方の7時、腹を満たしたからか、疲労が溜まっていたのか、自室に戻った数分後に急激な睡魔に屈服し、勉強机に突っ伏す形で眠ってしまった。
そして夢を見た。自身にとってトラウマとなった、悪い意味で運命を変えた出来事の一部が夢という媒体でリプレイされた。
「はぁ……」
ため息を一つ、力なく吐き出してしまう。
1人の人間の腕を容易く折ってしまった、その試合が行われた日から1年が経とうとしている。当時の試合は寸止めが原則となっている伝統空手ではなく、極真空手のルールに則ったもの、すなわち「攻撃を当てて相手を倒す」ことが前提だった。
正拳突きのために碧に向けて伸ばされた左腕に対して、碧が上段蹴りのために伸ばした右脚が当たった。互いに勝利を目指し、攻撃するために行動した。その結果は……、
『ぐあ……があぁぁぁぁ……!』
「…………」
碧はその瞬間を忘れたことは無い。その日をほぼ毎日夢に見るほどに記憶に刻まれている。
『彼の腕はもう完治してるらしい。それにお前のことを恨んではいないって言ってた』
薫はそう言っていた。
(アイツは嘘を言っていない……はずだ)
彼女がそんな笑い話にできないタイプの嘘をつく人間じゃないことは、誰よりも碧自身が良く知っている。
だが、1人の人間が描いていたであろう人生設計図を一瞬で、たった一撃で破壊してしまった。その事実は碧本人にとってのトラウマになっていた。
「こんな自分が生きていても良いのか?」
そんな考えが現在進行形で碧を蝕み、強く苦しめている。
『誰もお前のことを責めてない』
その言葉だけでは拭えるはずがない。
「…………」
それに加え、薫の頼みを聞いてやれず、あまつさえ背を向けて逃げ出したことに罪悪感を感じていた。
『待てよ木谷村! 諦めないからな〜!』
「っ……」
過去の記憶と幼馴染の言葉が否応無しに駆け巡り、脳内容量を瞬く間に満たした。
「くそっ……!」
湧きあがった感情、今はぶつける相手などどこにもいないそれを掻き消すように、乱暴な音を立てて立ち上がり、自室を出ていった。
碧の両親は2人とも少し遠くにある会社で働いている。2人とも同じ職場にいて、どちらも良い役職についている。今は会社がかなり危ういようで、ここ2ヶ月程は家に帰ってきていない。つまり碧は今、少し広めの自宅で独り、静かに生活していることになる。
2人は碧が試合で相手の腕を折ってしまったことも、空手部を辞めてしまったことも知っていた。だが、碧が抱え続けているトラウマまでは見抜けていなかった。
長期間両親が不在であることはこれが初めてではない。碧自身は1ヶ月以上独りで生活すること自体には慣れている。母親が買い貯めていた食材や冷凍食品等があるから食事の面では困らないし、父親が置いていった『お小遣い』のおかげで生活必需品や消耗品に関しても全く問題無い。生活だけなら独りでも不自由無くできる。
しかしそれは、碧が抱えている問題を相談する相手が誰も近くにいないということでもあった。
入浴を終え、寝衣に着替えた碧はドライヤーで髪を乾かしていた。ドライヤーから出る熱風に髪を靡かせながら、洗面所に常設されている鏡に映った自分の姿を見ていた。
育ち盛りだったのと、短期間とはいえ運動部を経験したが故に、身長は175㎝と同年代の平均値を上回っている。体重も平均よりは少し重い程度だ。校則を犯さないように散髪され、整えられた黒髪、眼鏡は必要ない程度の視力を持つ眼、筋トレをしていた名残がある腕と脚、そして胴体
「…………」
空手部を辞めてからの自分自身が嫌いだった。脳内には大量に蓄えられた格闘技の知識があるが、それを誰かに教えるでも無く、誰かのために実践してみせる訳でも無い。空手を始めたての頃の薫に少し教えてやってた時もあったが、今ではそんな必要は全く無い。仮に薫以外に相手がいたとしてもその気にすらなれない。そして何より、戦う理由が全く無い。そんな自分自身が嫌いだった。
そしてそんな状態の碧に声をかける薫を避け続けている。そんな薄情な自分自身も嫌いだった。目の前で木谷村碧という男を映し出している鏡を叩き割りたくなってしまうくらいには、本当に嫌いになっていた。
「はぁぁぁ……」
深く溜め息を吐いてマイナスな思考を強制的に終わらせる。ドライヤーの電源を切って、洗面所を後にしようとして……
──ガン……──
『いや……来ないで……!』
「……?」
微かではあったが、何処かから音と声が聞こえた。金属製の何かを打ち鳴らすような音と、女性が怯えているような声が聞こえた。
「外か……?」
その音が気になった碧は、急いで服を着て家の玄関を開け、近辺の様子を探った。
…………
「…………」
音も声も、何も聞こえなかった。女性の姿も、不審者や通り魔といった危険な人物の姿も、その気配すらも感じなかった。
「気のせいか……」
──ガン……──
「気のせいじゃない……!」
音がした方を見てみると、碧の家を背にして右の方向、目を凝らせばなんとか目視できるくらいの距離に、街灯に照らされた、身の丈程はある大きなハサミを持った人間……のようなものの姿が、全く速度を緩めること無く路地裏に向かっていくのがチラリとだけだったが確かに見えた。
(なんだあれ……?)
あんなに大きなハサミがあるのだろうか? 奴は何者なのか? 人間なのか? 女の人は路地裏に入って行ったのか?
様々な考えを巡らせながら、碧の足は自然と路地裏に向かって一歩一歩進んでいく。『それ』の姿をこの眼でハッキリ見てやろうと提案する好奇心が、襲われているであろう女の人を助けようと提案する正義感が、引き返そうと提案する理性よりも勝っていた。
そうして後一歩で路地裏に踏み込める。
そこまで歩みを進めて、碧は1つだけ思い出した。
碧が住んでいる住宅地には、いくつか路地裏が存在するが、その中の一つに「幽霊が出た」と騒ぎになったせいで立ち入り禁止の看板を立てられたものがある。ハサミを持った何者かが入っていったのは、碧が目の前にしている、まさにその立ち入り禁止になった路地裏だ。
入り口としての役割を担っている石壁の両角にポールが立ち、その2本の間を多くのチェーンが交差して、その前で看板が鎮座している。下から潜って進むことも容易では無いほどに徹底されている。
「これを乗り越えて行った……のか……?」
チェーンの高さは碧の心臓が位置するところまで達している。ある程度の身長があれば力を入れてチェーンを掻き分けることで隙間を作り、それに足を引っ掛けて上から乗り越えることでの向こう側へ侵入が一応は可能である。だが……
「乗り越えて……なかったような……」
碧の目には一瞬しか見えていなかったが、ハサミを持った者は速度を緩めず、止まることなくこの先へ進んでいったように見えた。乗り越えるような動作をしていなかったのだ。
(どういう……ことなんだ?)
自身の記憶と現状を照らし合わせることで、頭が混乱してしまいそうになった。
『やめて……! 殺さないで……!』
(……!)
聞こえた声に導かれるように、碧の身体は自然とチェーンを乗り越え、街灯の光が届かず暗闇に染まっている路地裏に侵入していた。考えるよりも何よりも「行動する」という選択をしていた。
路地裏には街灯が無く、ただ暗闇だけが広がっていた。誰かが捨てたまま回収されずに放置されたゴミが所々で腐臭を放っている。
「はぁ……はぁ……」
余程の事がない限り誰も近寄りすらしないだろうそんな道を、息を切らせて走る。この時、碧は初めて約1年も運動をサボっていた自分自身を恨んだ。
(この先は……たしか行き止まりだったはずだ)
碧は路地裏の地形を思い出す。直進で100メートル程進めば、行き止まりにたどり着く。幽霊はその行き止まりで目撃されたらしい。ハサミを持った者と先の声の主……おそらく追いかけられていた女性もいるだろう。
(間に合ってくれ……)
女性がまだ無事であることを祈りながら走っていた……のだが、
(……?)
最近の男子高校生の100メートル走の平均は12秒、女子では14秒、一番早い人は10秒台で走るらしい。そこまで本気で走らなかったとしても、高校生が1分も走れば100メートル以上進むのは容易なはずだ。だが……
(行き止まりが見えない……?)
走り始めてから、息が荒くなるくらいには時間が経過している。1分や2分程度ではこうはならない。既に行き止まりが見えてもいいはずなのに、視界に入るのはどこまで続いているのか判らない暗闇だけ、立ち入り禁止のチェーンを乗り越えたのをきっかけに別世界にきてしまったかのような感覚を覚えた。
「はぁ……はぁ……」
一度来た道を戻るべきか、それとももう少しだけ進んでみるべきか? そんな選択肢が碧の中で生まれた直後に、
『が……あぁ……あ……』
(……!)
先程の女性の声が聞こえた。弱っている、苦しんでいる声だった。その声が聞こえたのを境に、碧の目が暗闇に慣れてきたのか、周囲が見えてきた。
数歩先に『それ』はいた。碧よりも少し高いくらいの背丈、それと同じくらいの大きさのハサミ、その刃先からはポタポタと雫が滴り落ちている。その足下には1人の女性がうつ伏せで倒れている。
「……っ!?」
碧はその眼で見た光景を信じられなかった。何が行われていたのか、すぐには理解できなかった。その時点で碧ができたのは息を飲み、足音が出てしまうなんてことも考えずに反射的に後退りする事だけだった。
「ザ───」
(え?)
うまく聞き取ることはできなかった。アナログテレビの通信に不具合が起きた時に発生する『砂嵐』のような、トランシーバー等の通信機器に異常が生じたときに発される音のような、少なくとも声とは認識できない何かの音しか聞こえなかった。人間が発するような音では無かった。
鼓膜を突き刺すように鋭く、命の危険を感じる程に恐ろしい音だった。そして、
──ガン……!──
ハサミの刃が打ち鳴らされた。鼓膜が震える。最早ハサミから出るような音では無かった。
周囲が暗いせいだろうか、『それ』の全身は黒いモヤのようなもので覆われているように見え、全体像はまるで判らなかった。だが、その身体はゆっくりと、碧の方に振り向こうとしているように見えた。
(やばいっ……!?)
すぐ近くにゴミ捨て場があった。中身がぎゅうぎゅうに詰まり、放置されたゴミ袋が大量に積まれている。碧は何も考えずにその中に隠れようと飛び込んだ。
碧がゴミ袋の山に埋まる直前、碧が立っていた場所に向けてハサミが投げられ、それがアスファルト素材の道路に深々と突き刺さった。
「ザ──ザザ──?」
──ガン……──
(……っ!)
言語のようなものが理解できなくても、刺さったハサミを抜く音と足音が『それ』の大体の行動を教えてくれる。姿さえ見られなかったなら、身を隠し続けるのは簡単だ。
碧が隠れたゴミ袋の山は、蝿が集っていて酷い臭いだった。しかしそれどころでは無かった。居場所がバレないように息を止めて、ガタガタ身体を震わせながら、『それ』が早々に立ち去ってくれるまで待つことが、現状の碧にできる精一杯だった。
頭の中に溜め込まれた格闘技の知識を活かして立ち向かい、女性を助けようとする正義感も、奴を打ち倒し、正体を暴こうという好奇心も、この瞬間を無傷で生き延びたいという生存本能には勝てなかった。
「ザ───」
──ガン……──
発声、ハサミ、音の一つ一つで鼓膜が震えて痛む。ゴミの臭いに耐えながら、溢れ出そうになる息、恐怖心で壊れそうな身体を必死に抑えて『それ』が立ち去るのをじっと待つ。
──ガン……ガン……──
感じる。『それ』は碧の目の前まで来ている。激しくなる心臓の鼓動音が、碧自身の耳にもはっきりと聞こえる。
──ガン……ガン……ガン……──
(いい加減にどっか行けよ……!)
その場でじっと動かないでいた時間はとても長く感じられたが、碧が隠れてから実際に経過している時間は1分にも満たなかったかもしれない。
「────ザ……? ─ザザ───……」
──ガン……ガン……ガン……──
ハサミの音、足音、気配、『それ』の全てが何処かに消えた。
(助かった……のか?)
ゴミ袋の山から恐る恐る顔を出し、周囲を確認する。
「ゲホッ……ゲホッ……」
「あ……っ!」
碧は女性の状態をようやく思い出し、一目散に彼女の元へ駆け寄り、なんとかしようと手を伸ばしたところで、
「あ……え……?」
現状を見た。思い知った。残酷、悲惨、碧が見たものを表現する言葉はそれらが適任だろう。
カジュアルな衣服は血に塗れていた。短くおしゃれに整えられていたであろう髪はグシャグシャに乱れ、先程の何者かに対してできる限りの抵抗をしていた様が伺える。腹は容易く切り開かれ、大量に血が流れ出ている。小腸と思われるものが、腹直筋ごと切り裂かれていた。この状態でまだ呼吸ができている事が、まだ意識があるという事が不思議なくらいだった。
「あ……あぁぁ……」
そんな状態の人を助けるために必要な道具も、技術も、知識も、力も、碧は持ち合わせていなかった。
「ねぇ……」
今にも消えてしまいそうな声が、その女性から聞こえた。無力感に打ちのめされている碧を呼んでいる。
「……!」
その声を聞き逃さないように、碧は彼女に顔を近づけた。
「助けて……くれるの……?」
「え……?」
辛うじて光が消えていない、希望を見失っていない眼が碧を見ている。
どのように答えれば良いのか、碧には判らなかった。
「ねぇ……わたし……たす……かるの……?」
「えっと……えっと……」
こんな時に、少しでも希望を維持できるような事を言えれば良かったが、碧にはそんな余裕は無かった。
「ごめんなさい……俺には……あなたを助けられない……」
ありのままを言った。仮に安心させるための嘘をついたとしても、それを突き通す覚悟も碧には無かった。
「そう……そっか……」
僅かに希望を残していたその眼が、少しずつ絶望に染まっていくのが見てとれた。
彼女から流れ出る血は止まらない。
「しにたく……ない……な……」
それでも彼女は、碧から眼を離さなかった。碧を見ながら、必死に呼吸を絶やさないでいた。まだ生への執着を残していた。
「ねぇ……あなた……もしかして……」
『おい! こっちに誰かいるぞ!』
不意に誰かの声が聞こえた。碧のものでも、女性のものでもない、全く別の誰かの声だった。碧はハッとして顔を上げ、声の主の姿を確認する。
『人が血を流して倒れているぞ! 誰か! こっちに来てくれ!』
声の主は目視できる距離にいた。立ち入り禁止の看板とチェーンも、移動中に感じた距離感が嘘のように近くに感じられた。
(良かった。助けが来る。助けられる)
そんなことを言おうと思って、碧は再び女性に眼を向けた。
「…………」
「え……あれ……?」
呼吸のために僅かに上下運動をしていたはずの胸が、動きを止めていた。呼吸音も、声も、彼女の口からはもう聞こえてこなかった。
「嘘……だろ……?」
こちらを見たまま光を失ったその眼は動くこと無く、碧の情けない顔を曇った鏡のように映し出していた。
数時間後、時刻は深夜、碧は病院の待合室にいた。息絶えた女性と共に、救急車に乗せられてきたのだ。
「…………」
後の全てを医師や警察に丸投げし、1人で家に戻り、翌日から何事も無かったかのように日常生活を送るということもできたはずだ。自分が見たものを全て忘れろというのは碧にとっては無理な話ではあったが、それでも家に戻ろうとすればできたはずだった。
そうしなかったのは、最期の瞬間まで女性の傍にいた者として、彼女のために、彼女の家族のためにできることが、やるべきことがあるはずだという使命感を感じていたからだ。
だから碧は現在、深夜に1人で病院の待合室にいる。警察による事情聴取を受けるために、ただじっと待っている。眠気は感じていなかった。涙を流すことも無かった。寝るよりも、泣くよりも、優先すべきことが解っていたからだ。
「木谷村……?」
碧の耳に馴染んだ声が聞こえ、振り向いた。
「え……薫……?」
予想外の時間、予想外の場所で、しつこく付きまとって来ていた薫と再会した。学校以外の場所で顔を合わせることは、空手部を辞めて以降ではこれが初めてだった。
「木谷村……なんかお前……臭いぞ?」
『深夜に出会った幼馴染に対する第一声としては如何なものだろうか?』
『出会って数秒でやることが相手の臭いをスンスンと嗅いで嫌な顔をするというのは如何なものだろうか?』
という言葉は碧の胸の中に鍵をかける形で封印された。
「あぁ……色々あってな……身体も服も一応洗ったんだけど……」
ゴミの山に飛び込んだことだけは口が裂けても言うまいと、碧は固く誓った。
「もしかして……まだ臭い?」
「いや……よーく嗅いだら臭いかなって感じ……あたしが気にしすぎなだけかも……?」
『なんじゃそりゃ?』と漏れ出そうになった碧のツッコミはギリギリで我慢された。
今の他愛無いやりとりの中で、薫が無理をして普段通りに振る舞おうとしているのに気づいてしまったからだ。
「薫は……どうしてここにいるんだ?」
碧は思い切って本題に入ることにしたが、薫の顔を見て後悔した。碧がそう聞いた瞬間、薫の顔は崩れた。普段学校で見ているような表情から一変、今にも泣き出しそうな、涙を流す一歩手前でギリギリ踏ん張っている表情になってしまった。やはり見知った顔の前で無理をしていたのだろう。そんな薫の口から、なんとか搾り取るように声が出された。
「お姉ちゃんが……殺されたって……」
「は……?」
碧は自身が聞いた言葉を理解するのに時間がかかってしまった。目の前でポツリ、ポツリと涙を落とす薫を見て、自身の言葉を後悔した。付き合いが長いからか、薫の言葉には嘘が無いと解る、嫌でも解ってしまう。
「薫のお姉さんって……明日香さんか? 帰って来てたのか?」
碧がまだ小学生だった頃、薫の姉である鬼虎明日香(キトラ アスカ)がよく遊び相手になってくれていた。ロングヘアーと眼鏡がよく似合う、優しい女子学生だった。彼女が高校に進学する際に他県に引っ越して以来、碧は一度も会っていなかった。
「確かなのか……?」
嘘を言ってないことは解っていても、碧はそう聞き返していた。薫に共感の意を示したかったことに加えて、どうしようもなく嫌な予感がしていたからだ。
「さっき……お姉ちゃんに会ってきた……腹切られて……死んだって……」
自分の姉が殺された。それだけでも辛いはずなのに、姉の死が確かだったことをその目で確認したことを、その詳細を語る薫を見て、その言葉を聞いて、自身の血の気が引いてしまったのを感じた。
重なる。碧が目の前で見た情景と重なってしまう。
『ねぇ……わたし……たす……かるの……?』
『しにたく……ない……な……』
嫌な予感と言うものは、良いものと比べて比較的に的中率が高いように感じる。
「木谷村はどうしてここに……って、なんでガタガタ震えてるのさ?」
碧は無意識に震えてしまっていたらしい。今更抑えようとしても無駄だろう。すっかり青ざめた情けない顔になってしまっていた。
「お……俺はその……」
言葉が詰まる。言うべきかどうかと思案する以前に、碧には言えなかった。
「……っ!?」
目の前でオドオドしている碧を見て、薫は何かを察したように目を見開いた。
「そういえばお医者さん言ってたな……男の子が1人、お姉ちゃんの傍にいてくれたって……」
(やめてくれ……)
薫の右手がゆらりと動く。
「警察の事情聴取受けるから、待合室で待ってるって……」
(どうしてそんなに鋭いんだよ……)
その右手は碧の胸元にまで伸びてきた。
「ちょっと臭いがきつかったから、シャワー浴びさせてやったって……」
(俺は……)
碧は胸ぐらを捕まれ、グイッと薫に引っ張られる。
「お前かよ……木谷村……!」
碧を睨む薫の眼は、涙を流しながらも鋭く、こちらを突き刺していた。
「薫……俺は……」
薫は女子にしては強い方だ。男子顔負けという次元では無いほどに強い。その強さの片鱗を見て、薫が怖いと感じたことは何度もあった。
現在の薫は、碧の胸ぐらを掴む薫は、強さとは別の理由で怖く感じられた。
「ただ見てただけだったのかよ……お前……!」
「…………」
迫力に押されているから? 初めて見る薫だから、受け止めるのに時間がかかっているから? 殴られそうだから? 違う。どれも違う。
「助けてくれなかったのかよ……木谷村……!」
「…………」
薫の心が離れてしまいそうで、遠くに行ってしまいそうな気がしてしまった。怒鳴られるよりも、殴られるよりも、碧にはそれが何よりも怖かった。
「どうなんだよ……何か言えよ……! 碧!」
答えられない。何もできなかったと、そのまま答える度胸は碧には無かった。
深夜だということも、病院の待合室だということも忘れて、感情をコントロールできないで言葉をぶつけてくる薫に碧ができたことは、
「……すまん……」
たった一言、小声で謝罪することだけだった。
『薫、その辺にしておけ』
男性が薫の肩を掴んで、諭すような優しい声で薫を宥め始めた。その人は、碧もよく知っている人だった。
「父さん……」
「薫、手を離してやれ。木谷村君が苦しそうだ」
「……」
碧の胸ぐらを掴んでいた手が、ゆっくりと離されていく。
「車で待っていなさい」
「……」
薫は何も言わず、待合室を後にした。真っ暗な外に出ていくその背中に、碧は何も言葉をかけることができなかった。
「娘が……薫がすまなかった。怪我は無いかい?」
薫の父、鬼虎 龍三(キトラ リュウゾウ)だった。碧が鬼虎家まで遊びに行った際には必ず出迎えてもらっていたから、互いに顔をよく知っている。
「俺は……大丈夫です」
「そうか……」
そして彼はベテランの警察官だ。何年も着込んでいるであろうトレンチコートのような刑事のスーツと、そろそろ剃り時の顎髭がベテランの風格を強く出している。事件があった際、いつも一番に現場に飛び込んで調査の指揮をとっている……と過去に薫が得意気に自慢していた。しかし今は、
「明日香のこと……聞かせてくれ……」
ただの一人の父親としてそこにいた。
「……はい」
碧は自身が見たものをそのまま伝えた。大きなハサミを持った男、それと対峙した際に自身が取った行動、彼女……鬼虎明日香が最後まで生きようとしていたことも……
龍三は碧の話をメモしながら、最後まで聞いていたが……
「大きなハサミを持った男か……」
メモ帳と睨めっこをしながらボソリと呟いた。
碧自身、自分で見たものを理解できていない、自分でも何を言っているのか解らない。そんなものを他人に理解してくれというのは無理な話だ。
「木谷村君……」
龍三の目が、メモ帳から碧の顔に移される。
「とてもじゃないが……君が路地裏に入ってからのことも、ハサミを持った男のことも、君の話のほとんどが非現実的だ」
全く当然の反応だ。
「すみません……」
今の碧にはそう言うのが精一杯だった。
「あぁ……こちらこそすまない。きつい言い方だったな……」
龍三はあろうことか、碧に向けて頭を下げて謝ってきた。
「え……あ……」
頭を下げるべきなのは自分の方だと碧は思っていた。
(俺は……明日香さんを見殺しにしたのに……)
「木谷村君、今日はもう帰るんだ」
「え……」
「ただでさえ色々あった上に、もう日付も変わっている。かなり疲れているはずだ」
「お……俺は……」
「現場にいたのは君だけだ。これから警察は君の言葉、君が見たものを頼りに捜査を進めることになるだろう。もちろん他の人にも聞き込みとかはするだろうけど……その辺は期待できないだろうな……」
「…………」
ずっと感じていなかった眠気と疲労が、碧の全身を駆け巡った。頭が回らず、言わなければと思っていたはずの言葉が出なかった。
「部下に君を送るように言っておくよ。俺は娘と一緒に帰らなくてはな……」
「…………」
結局、碧は龍三の提案に従って、彼の部下にパトカーに乗せてもらい家まで送ってもらった。
『大変だったね』や『1日ゆっくり休んだ方が良い』等、運転していた警察官が碧に優しく話しかけていたが、碧には「えぇ……」「はい……」と言った答え方しかできなかった。
そして自宅に辿り着き「ありがとうございまいした」と最低限の礼を言った碧は、家に入ると迷わずにベッドまで一直線に進み、倒れ込むように横になった。
「…………」
確かに疲労は溜まっていた。しかし眠れなかった。
音と声を聞いて家を飛び出してから病院まで、自身が見たもの、行動、自身にかけられた言葉、その全てが頭の中で1つずつ鮮明な記憶としてリプレイされる。
「俺は……」
リプレイが一通り終わった後、暗い部屋の中、ベッドの上で誰に向けたものでもない声を発した。
「俺はまた……取り返しのつかない事をした……のか……」
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