1−1 振り切れないトラウマ

 放課後の教室内にて、

「木谷村、空手部に戻ってくれ!」

「しつこいぞ薫! 1週間も連続で同じこと言いやがって! 何回言っても答えはノーだって言っただろ!」

 木谷村 碧(キヤムラ アオ)とその幼馴染の鬼虎 薫(キトラ カオル)の押し問答が行われている真っ最中である。普通の生徒にとってはその日1日の授業が全て終わりようやく迎えた、待ちに待った放課後だ。と言うのに、いきなり口論が始まってしまえばそれに対する楽しみが幾らか削がれてしまうだろう。さらにはこれが1週間も続いていると来た。本人達が思っている以上に、周りはうんざりしているだろう。


碧と薫は東京都内にある『黄泉坂町』にて生まれ育った。

碧という漢字はインターネット等で検索する際、『アオイ』と入力しなければ変換されないことが多い。それを理由にしてか、『アオイちゃん』と呼ばれ、揶揄われていた時期がアオイにはあった。(同じ読み方なら『蒼』の方がカッコ良いから、そちらの方が良かったと、碧は何度も考えていた)

そういった経緯で碧という名が男らしく無くて気に入らなかった。薫の方は鬼虎という姓が原因で虐められていた時期があった。お互いにそれを理解して、『木谷村』『薫』で呼び合うようになってから十年以上は経過している。


碧は中学一年時からボクシングに夢中になったのをきっかけに、いろんな格闘技の知識を身につけるようになった。基本的なルールや技の数々、歴代最高の選手やあまり知られていない名試合まで、どの競技のものでも聞かれれば何でも答えられる。そしてどの格闘技でも基本的な動きは見様見真似でできるようになってしまった。つまりはある程度なら戦える格闘技オタク、それが木谷村碧という男だ。


 薫は中学一年の秋頃に空手を始めるまでは格闘技はおろか、誰かを叩こうとすら考えたことが無かったインドア派な女子だった。だが空手を始めてからの薫はもはや別人だった。彼女の努力量が凄まじかったのと、元来眠っていた才能が爆発したのが合わさって、中学卒業までに『獅子奮迅』『鬼神』『無双』等の物騒な異名を複数付けられていた。

ちなみに薫本人も調子に乗って、

『鬼でも虎でもかかってこいや!』

 なんて啖呵を切っていた時期が少しの間だけあった。(本人はその期間を黒歴史としている。碧は話のネタにしようとした結果、顎を殴られた)


碧が黄泉坂第一高校に入学して間も無く、薫に誘われて空手部に入部した。

「木谷村なら黒帯を取れるまで1年もかからないだろ」

 なんてヘラヘラしながら言っていた薫の腰には、半年も経たずに手に入れたと言っていた黒帯が巻かれていた。

 基本的な動きやルールは事前に熟知していたため、部活におけるトレーニングに関しては全く問題無かった。

 しかし、迎えた初めての大会で……


「木谷村? 急にボーッとしてどうしたんだよ?」

「え? あぁ……すまん。何の話してたっけ?」

 薫の顔が最初よりも近くにあったことに、声をかけられるまで気づかなかった。

「今年になってから男子達のやる気が全然無くってさ、木谷村に1発きついやつ喰らわして欲しいんだよ〜」

「お前な……そういうのは薫が直々にやってやれば良いだろうが……」

 薫は高校一年目の時点で、大きな大会で優勝、準優勝を重ね、女子空手部次期主将候補筆頭になったらしい。

スポーツ系の大学やオリンピック選手を多く生み出している団体からスカウトを受けたと言う噂まで発生していた。。

「流石にまだそこまでは行ってないよ〜!」と愛想笑いで否定する本人に、碧はツッコミを入れる気すら起きなかった。

どこか幼さを感じさせる丸顔と、152㎝の身長、ボーイッシュなショートヘアという容姿と、空手の道着を着て獅子奮迅とも言える活躍が化学反応を起こして、校内外問わず、主に同年代の女子達から絶大な人気を得ており、さらには県内外問わず人脈が広くなっているという話もあった。

「風の噂を間に受けるなってば! 空手が強いだけで県外まで人脈が広がるわけ無いでしょ!」と満更でもなさそうにニヤつく薫に対して、碧はやはりツッコミを入れる気すら起きなかった。

 何にせよ、そのくらいのカリスマ性を持った次期主将候補の言うことなら男子にも幾らかの影響はあるはずだと碧は思ったのだが、

「空手部は男子も女子も、互いの領域を踏んじゃいけないって暗黙のルールがあるんだっつーの!」

「あぁ……」

 空手部に入部して間も無い頃に、そのルールを理解していない部員がトラブルを引き起こしたことを、碧はうっすらと思い出していた。

「じゃあ……顧問の先生とかには言ったのか? いくら態度が悪くても大人相手なら……」

「言ったさ。言ったけど……」

「けど?」

「あの野郎ども、大人がいる前では良い格好する癖に……いなくなったら……」

 やらなきゃいけないと感じた時だけは本腰を入れて、それ以外はダラける。上手くサボる者のやりそうなことである。碧は暗黙のルールを悪用している男子空手部を想像してしまい、大体の状況を察した。しかし、

「だからと言って……結構前に部外者になった俺に声かけんのかよ……」

「もう木谷村しか……頼れるやつがいないんだよ……」


パキッ


「……!」

 反射的に音のした方向を振り向いてしまう。

『待てってお前、漫画なら明日返すって言ったじゃねぇかよ!』

『うるせぇ、今日返せ。何なら今すぐ返せ』

パキッ ポキッ

『もう少しで読み終わるっての! 拳をパキポキ言わすのやめろって! 怖いから!』


 全く違う音だと、碧自身も理解している。頭では理解できているが、

「はぁ……はぁ……!」

 脳に刻まれた記憶が、碧の呼吸を乱す。

「木谷村、呼吸整えろ」

 また薫の声で現実に呼び戻され、さっきよりも真剣になった彼女の顔が、さっきよりもさらに近く、ヒソヒソ声で会話ができてしまうくらいには近くにあったことに碧は驚いた。

「あの時の相手のことなら、もう気にするな……」

「え……?」

「腕はもう完治してるらしい。それにお前のことを恨んではいないって言ってた。前にも言ったけど、誰もお前のことを責めてない。だから……」


(違う……そういうことじゃない……そういうことじゃないんだ……)


『あの2人またやってるよ……これ何回目?』

『鬼虎さんはよく諦めないな……幼馴染なんだっけ?』

『木谷村君いい加減オーケーしてやりなよ……そろそろ鬼虎さんが可哀想だよ……』


「っ……!」

 トラウマを思い出させる音、碧の味方をしない外野の声、そして碧を安心させようとする薫の声が、余計に心拍数を増加させようとしていた。

 碧は耐えられなかった。

「俺は……もう空手やらないって決めてるから……薫……すまん……!」

 碧はそう言い捨てて、教室を出て行った。

「待てよ木谷村! 諦めないからな〜!」

 まだ説得するつもりの薫を背に、碧は脚早に教室を出て行った。


************


「…………」

 何度目かの「交渉」に失敗して、俯いている薫がいた。


薫は自分自身が嫌いだった。自身の名前が嫌いだった。

女でありながら『鬼虎』という可愛げの欠片も無いような苗字を持っていることが嫌だった。小学生の頃は自分を『薫』の方で呼んでくれる人が多かったから、まだ笑顔でいられた。

しかし中学に上がってからは、苗字の方で呼ばれることの方が圧倒的に多くなった。そんな苗字を持ちながら強さとは全く無縁だったことも重なって、『鬼虎』という苗字に嫌悪感を抱くようになった。


中学一年時の夏、『強そうな名前してるくせに』というよく解らない理由の元に、調子に乗ってる男子2人組に目をつけられ、クラスメイト達が皆いなくなってしまった教室内で追い込まれたことがあった。

「ちょっ……なんなのよあんた達……?」

『へっ! 鬼のくせにビビってやんの!』

『虎なら威嚇の一つでもしてみろよ! 雑魚女!』

 絶対に忘れない。

『今なら何でもできてしまいそうだ』とでも考えていたような、当時の男子達の顔は今でも薫の記憶に残っている。

 特に悪い事をしていなかったはずの薫の体を押さえて動けないようにして、髪を引っ張った男子の顔も、いきなり顔を平手でパチンと殴ったもう1人の男子の『やってやったぜ』とでも言いたげだった顔も、ずっと薫の記憶に残っている。

 そして……

「何やってんだテメェら!」

 そんな雄叫びを上げながら薫と男子達の間に割って入り、的確に顎を撃ち抜いたアッパーカット、顔面が凹むんじゃないかと思ってしまうような右ストレートで瞬く間に1人づつノックアウトした碧の後ろ姿は、薫の脳裏に焼きついた。

「薫……」

 苗字呼びが基本だった中学で、薫を名前で呼んでくれる人は片手で数えられる程度だった。その中で碧はたった1人の男子だった。

「薫……髪引っ張られてたろ? 顔叩かれてたろ? 痛いか? 血出てないか?」

「痛かったけど血は出てないよ……ありがとう……木谷村」

碧は薫が『鬼虎』という苗字が嫌だというのを理解していたから、薫は碧が『碧』という名前を『男らしくない』からと嫌がっていたのを知っていたから、互いに「嫌いじゃない方」で呼び合うことにしていた。時々薫が間違えることもあったが、基本的にはそうしていた。

 碧は中学に上がってからボクシングにハマったらしく、男子2人組を殴ったのは彼曰く「テレビでやってたのを見様見真似でやったら上手くいった」とのことだった。

それから秋になるまで、薫がいじめっ子に絡まれては碧が助け、碧自身が絡まれれば1人で返り討ちにしてしまうというのが続いた。

その時の碧は強かった。薫が知ってる中で、一番強い男だった。ギラギラしていて、眩しかった。

秋になると薫も碧も絡まれることが無くなった。気持ちに余裕が出来るようになった薫は、強くなりたいと思い始めた。守られるだけの存在にはなりたくないと思うようになった。そしてそのためにやることとして真っ先に思い浮かんだのは……


「え……ボクシングやりたい? どうして?」

 唐突な相談を受けた薫の父は、文字通り開いた口が塞がっていなかった。

「どうしてって……強くなりたいから」

「それだけ?」

「それだけ」

 あまりにも漠然としていたが、本当にそれだけが理由だった。

「学校にはボクシング部とか無いから、ジムとかあったら行きたい」

「はぁ……」

 父は呆れながらも、「どれどれ……」と近くにボクシングジムが無いか調べた。

「えーっと……家から一番近いのは……車で片道1時間弱だぁ?」

 学校での授業が全て終わり、放課後になるのは夕方だ。そこから一度自宅へ帰宅するにしろ、直接ジムに向かうにしろ、車で片道1時間弱となると1日のトレーニングを全て終わらせて戻ってくるのは夜中になってしまう。さらに薫の父の仕事は警察官だ。いつでも車での送り迎えができるというわけでは無い。徒歩で向かうというのは……考えるまでも無く現実的では無いというのは、当時の薫でも容易に計算できた。

「学校には格闘技の部活って無いのか?」

「一応……空手部あるけど……」

「それじゃだめか?」

「…………」


「木谷村、あたし空手部に入るから」

 第一希望はボクシングだったが、特にそれじゃなきゃダメというこだわりは無かった。強くなれるなら何でも良かった。

「そ……そうか……薫が……空手……」

 碧は偉そうに脚を組んで椅子に腰掛けて、プロレスの週刊誌を読んでいたが、真正面から薫の話を聞き、完全に面食らった様子だった。

「悪い?」

「悪いとは言ってねぇよ……意外だなって思っただけだ」

 脚を組んだ姿勢はそのままに、碧は真剣な顔で薫を見た。

「急にどうしたんだ? 今までそういうのには興味無かったのにさ」

 薫は先日まで、空手どころか格闘技とはなんたるかすら知ろうともしなかったのだ。碧がそんな疑問を抱くのは当然だろう。

「そ……それは……」

「それは?」

 碧みたいに強くなれば、いつか碧の隣で……というのは流石に本人の前では言えなかった。

「名前負けしてるのが嫌だからに決まってんじゃん! 『鬼虎』って苗字で呼ばれても嫌にならないくらいには……強くなりたいんだよ……」

 本心とは全く違う、しかしそれっぽく聞こえる、いわゆる建前を言って誤魔化した。

「そんなに顔真っ赤にしてまで言わなくてもよ……」

 いつの間にか感情が昂っていたらしい薫の様子を見て、碧は組んでいた脚を直し、

「俺は応援してるぜ。頑張れよ」

 馬鹿にするでもなく、引き止めるでもなく、少し優しく微笑んで、薫の決意を後押ししてくれた。


 それからは無我夢中だった。スパルタとしか言えない特訓にも耐えた。痛くても、辛くても泣かなかった。むしろ不敵に笑ってみせた。碧と一緒に戦えるなら、碧と対等でいられるなら、碧の隣にいられるならと思ったら、何に対しても強く立ち向かえた。

『こんな動きができたらカッコ良いぞ』『こういうやり方もあるぞ』と碧に教えてもらうことも時々あった。そのおかげで多くの大会で良い結果を出した。


「お前……本当に変わったな」

 碧が薫に対してそんなことを言ったのは、中学卒業を間近に迎えたある日だった。

「変わったって?」

「空手始める前と比べたら、もはや別人だっての……」

 容易に掴んで引っ張れるくらいに長かった髪はバッサリ切ってしまったた。弱気に足元ばかり見て猫背になりがちだったのが、前をしっかりみて胸を張るようになった。暗かった顔や声色も、言われてみれば多少は明るくなったように薫は自分でも思っていた。

「へへ……どうよ? 今のあたしは?」

 調子に乗ってそんなことを聞いてみた。

「本当に……強くなったな」

まるで成長した教え子を労う時のような顔で碧は答えた。それが少しだけ嬉しくなった薫は、もう少しだけ調子に乗って、

「鬼でも虎でも、なんでもかかってこいってんだ!」

「お……おう……恥ずかしげも無くそんな啖呵を切れるってすげぇな……薫、本当にかわグエッ!?」

吹き出そうになる笑いを堪えていた顎を軽く殴ってちょっとだけ脳震盪を起こさせてしまったが、薫は碧に本当に感謝していた。少なくとも『鬼虎』という名前に負けない程度には強くなれたと実感できたから、もう『鬼虎』と呼ばれてもあまり嫌な気分にはならなくなっていた。

碧と対等になれたと……思っていたのだが……。


「…………」

 気づいた時には既に、碧はすっかり変わってしまっていた。自身が犯した失敗にトラウマを覚えて以降、空手部に全く顔を出さなくなり、少なくとも薫が変わるきっかけになった碧ではなくなっていた。それどころか他人との関わりを最低限度に抑え、基本的に独りでいるようになった。

 碧が薫と会うことが無くなったわけではない。碧と薫は学校や家の近くで何度も会う。その度に幾らか会話はする。だがそれ以上は無かった。碧が空手部を辞めて以降、2人で何かをするということが全くと言って良いほど無くなってしまった。

『たった一度の失敗。いや、失敗ですら無い』詳細を知れば、誰もがそう言うだろう。

しかし、それが碧の心にに刻んだ傷は、他人が思うよりも遥かに深かった。

『他の誰が俺を赦しても、俺が自分を赦さない』

 空手を辞めてからの碧の行動からは、そんな考え方が嫌と言うほどに表れていた。その方針をずっと貫き通していた。

「碧……」

 そのことに関して、薫は碧を今まで一度も彼を責めたことは無かった。これからも責める気は無い。責めたくない。けれども……、

「碧の馬鹿……意気地無し……」

 誰にもぶつけられない苛立ちだけが、薫の中で積み重なっていた。


************


『鬼虎さん、また振られちゃったね』

『木谷村君も本当に頑固だな〜。どれだけ続くか見ものだね』

『はぁ……あの2人のことはもういいでしょ? もっと面白そうな話とか無い?』

『それじゃあ……徘徊するハサミ男の話。知ってる?』

『夜に女性を狙ってどこかをフラフラ歩いてる、切れ味抜群の大きなハサミを持った男の話? 都市伝説とか怪談話の登場人物でしょ?』

『実際に見て、追いかけられた人がいたって話もあるみたいだよ。身の丈よりも大きなハサミみたいな物を持って、しつこく追いかけてきたんだって』

『ストーカーに追いかけられたって話が、大袈裟になっただけなんじゃないの……?』

『そうとも限らないよ? その人はなんとか逃げ延びたみたいだけど、もし追いつかれていたら……』

『やめてよ! 怖がらせないで!』

『アハハハ! ごめんごめん。この近くで起こったことじゃ無いらしいし、ネットや本で見かけた誰かが面白がって広めてる話みたいだから、信憑性はあまり無いと思う。そういう話もあるんだなぁって感じでいいと思うよ』

『っつーかハサミ男が出たって言われてる場所、木谷村君が住んでるところのすぐ近くじゃん? 下手すりゃ「この目で見たんだ!」なんて聞けるんじゃない?』

『やめてってば!』

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