第4話 泡吹き蟹の海

「ただいまー」

「ああ、良かった! 帰って来ないから心配してたのよ」

「遅れてごめんね。間に合うバスに乗ろうと思ったんだけど、ちょっと話してたら乗り遅れちゃって」


 スライムや核のような得体の知れないものを食べたことは、母には言わない。余計な心配をかけてしまうからだ。適当にぼかしたさらりの説明に、母は「まあ!」と少し高いトーンで反応する。


「話してたって……さらちゃん、お友達とダンジョンに行ってたのね! 高校でなかなかお友達ができないみたいだから心配してたけど、良かったわあ。そうならそうと言ってくれたら良かったのに、さらちゃんはひとりで行くんだとばっかり思ってたのよ」


 完全に誤解されているが、大喜びする母の勢いに水を差す勇気はなかった。


「その……ダンジョンで、偶然会ったから」

「あら、そうだったのね! それでお友達になったの? 趣味が同じなら話も合うものね、良いことよ」

「……うん」


 嘘はついていない。ルイのことは……年齢は離れているが、友達と呼んでも差し支えないだろう。


「ああ、ごめんね、疲れてるわよね。夕飯できてるから手を洗ってきなさい。……そうだ! 今度そのお友達も夕飯に誘ったらどう? 中学の頃は、よくお友達をお家に招待してたでしょう?」

「んー……考えとく」


 曖昧に答えながらさらりは洗面所に逃げた。ルイを夕飯に呼べるわけがない。母は、さらりが同級生と親しくなったと勘違いしているからこんなに喜んでいるのだ。実は小学生の男の子だと知ったら、余計に不安がりそうだ。


(ちゃんと説明するから……そのうち)


 話すべきときは、多分今ではない。それにもし本当にさらりが同級生と友達になれば、母の勘違いは本当になるのだ。

 そんな理屈で、気の引ける説明を後回しにするさらりなのだった。


***


「行ってきます」

「いってらっしゃい! お友達にもよろしく伝えてね」

「……はあーい」


 少しだけ間延びした返事は、後ろめたさの表れ。しかし、昨日はあれほど不安がって引き止められたのに、今朝は「一緒に食べなさいね!」と昼ごはん用のおにぎりまで用意してくれた。友達ができたというだけでこうも気持ち良く送り出されてしまうと、事実を明かすのがますます億劫になる。


「……早く着きすぎちゃったかな」


 そういえば、時間までは約束していなかった。今日の到着は、ルイと出会った時間からはだいぶ早い。居ないようなら、来るまで木陰で待とうか。帽子を被ってもなお眩しい陽射しに目を細め、ルイの姿を探す。


「おう」

「わあ! ……あっ、おはようルイくん。今来たの?」

「ん? ああ。今来たとこだよ」


 突然背後から声をかけてきたルイは、今日も水筒を肩から掛け、半袖短パンのいかにも小学生らしいスタイルだ。


「会えて良かった。暑いから、とりあえずダンジョンに入ろっか」

「賛成。あっちから行こうぜ」

「そういえば、ここから入るとスライムの巣があるって言ってたね。どうして、巣から入っちゃいけないの?」

「知らね。気になるならそっから入ってみれば? あのやばい女は絶対やめろって言ってたけど」

「ううん、やめとく。……『やばい女』って、誰なの? ルイくん、昨日もその人の話してたけど」

「やばい女は……やばい女だよ。最近見ねえけど少し前はよくダンジョンに潜ってたから、そのうち会うんじゃね? 会ったら教えるわ」

「うん、ありがと」


(あんまり会いたくないな……)


 ルイが「やばい」と表現するのだから、相当変わった人なのだろう。ルイを「しばく」と言ったようだし、そういう乱暴な人とは関わり合いになりたくない。

 話しながら歩いていると、昨日入ったのと同じ場所にたどり着いた。虹の膜を抜けるのも、二度目となれば慣れたものだ。躊躇いなくダンジョンへ入ると、初夏に似た爽やかな風が吹きつける。


「涼しいー……」


 暫くその心地良さを味わってから、さらりは昨日と同様に配信用ドローンを起動した。電源ボタンを押し、録画を示す緑ランプ。当然今日も非公開である。


「あんた、鏡持ってる?」

「持ってるよ。小さい手鏡だけど」

「それで良い。貸してくれ」


 断る理由もない。ポーチから折りたたみ式の手鏡を取り出すを、ルイは自分の顔をじっと見て、「んっ?」と声を上げる。


「何だこれ」

「どうかした?」

「鏡使えば自分のスキル見られるっての思い出してやってみたんだけどよ、何か……俺のスキル、変だわ。【粘液】ってスキルが増えてる」

「珍しいスキルだね」

「珍しいっつーか……【粘液】だぞ。何やったら増えるんだよ、こんな意味不明なスキル」

「粘液、かあ……」


 スキルは、ダンジョン内での行動に応じて手に入る。【粘液】という謎のスキルも、何らかの行動の結果として手に入ったもののはずなのだ。

 立ち止まって話している間に寄ってきていたスライムの核を、ルイは躊躇いなく踏み抜く。べちゃ、と嫌な音がしてからスライムは霧になった。


「……スライムって、粘液出してるよね」

「俺も今踏んだ時思った。まさかスライム食ったせいなのか、これ」

「なら私も【粘液】が使えるのかな」

「それ躊躇いなくやるとこすげえよな」

「……やってみたけど、何も起きないや」


 スキルは念じれば使うことができる。【粘液】を使おうと試みたさらりだったが、特に変化はない。


「【粘液】を使うとどうなるのか、知りたいなあ。ルイくん、使ってみなよ」

「えー……やな予感しかしねえんだよ」

「でも、気になる。お願い、見せて」

「仕方ねえな……」


 ルイが集中した気配を出した瞬間、その指先から、てろりと透明な液体が垂れた。


「うわっ! 何だこれ!」


 ルイは声を上げ、手を大きく振る。飛んで行った粘液は、遠くの地面に落ちた。


「すごーい、指から粘液を出せるんだ」

「すごいか? 何の意味もねえよ、こんなん。気持ち悪いだけじゃねえか」

「もしかしたら何かに使えるかもしれないよ。ほら、その……マッサージとかに」

「ダンジョンの中でマッサージすんのか? どうせならもっと良いスキルが欲しかったぜ」

「でも、羨ましいよ。そういう珍しいスキル使ってみたい。いいなあ、ルイくん」

「あんたも何か増えてんじゃね? 見てみろよ」


 返された手鏡を覗き込んださらりは、悲しげに眉を垂らす。


「《涼木さらり:食用不可。》って書いてある」

「え? ははっ、そっか! あんたの【鑑定】、変わってんだった! スキルも見えねえとか不便すぎんだろ」

「昨日は役に立ったのに……」

「しょうがねえな、見てやるよ。……スキルは【鑑定】と【収納庫】って書いてあるな」

「【収納庫】が増えたのかな。片付けが得意になりそうなスキルだね」


 ちょうど、鏡を片付けようと思ったところだったのだ。さらりは手に持った鏡に向けて【収納庫】と念じてみる。消えた。


「あっ! ルイくん見てた?」

「見てた。鏡はどこ行ったんだ?」

「ポーチの中? ……ううん、ないや」


 元あった場所に収納されたのかと思ったが、ポーチを開いても鏡はない。


「えー……持ってたものが消えちゃうスキルってこと?」

「消したものまた出せりゃいいのにな」

「確かにね。出せないのかな?」


 再度【収納庫】と念じてみると、脳内に棚のイメージが思い浮かんだ。最上段の端には手鏡が転がっている。あれを取りたいと思ったら、手のひらに固い感触が戻ってきた。


「……出せた。リュックごと入れられるかもしれない」


 脳内に浮かんだ棚の大きさなら、さらりが背負っているリュックなど容易に入る。リュックを下ろし【収納庫】を使うと、リュックは消えた。もう一度念じればまた手の中に返ってくる。


「何だよそれ、すっげー便利じゃねえか!」

「荷物が重かったから、持たなくていいのはありがたいね」

「あんたばっかりずるいぜ、俺なんて【粘液】だぞ」

「ルイくんの荷物もしまおうか?」

「いい。重くねえし」


 ルイは、肩掛けの水筒をぽんと叩いて首を横に振る。断られてしまったさらりは、自分のリュックだけ【収納庫】に入れた。両手を挙げて伸びをする。荷物から解放されて、肩が軽い。肩が軽くなったら、途端に歩き出したい気分になった。


「スキルも確認したことだし、2層に行ってみよっか」

「おう。武器貸してくれよ」

「あ、そうだったね。どうぞ」


 【収納庫】からリュックを出し、昨日も使った包丁を取り出す。少し面倒な手順だ。それぞれのものを直接しまえたら楽なのだが。


「ルイくん、これあげる。私のお下がりなんだけど、そんなに履いてないから」

「何だよ、これ」

「マリンシューズだよ。2層は転びやすいから、靴を履き替えたほうがいいんだって」

「ふーん……貰うわ」

「サイズ合ってる?」

「ちょっときつい。……ま、歩けるわ。問題ねえ」


 これで準備は整った。ふたりは、昨日起動した転送陣へと向かう。


「あ、これ持って乗らなきゃ」


 転送陣に到着すると、さらりはドローンを呼び寄せる。持ったまま乗らないと、ドローンだけ転送陣の前に置いて行ってしまうのだ。ドローンを抱えたさらりとルイは、ふたり同時転送陣に踏み込む。

 虹色の光が視界を覆う。くらっとするような眩しさが消えると、景色は一変した。雲ひとつない青い空の下に、揺れる水面が広がっている。

 ただし、水面は青ではなく虹色だ。空から降り注ぐ光を反射しているのか、きらきらと虹色に光る泡が隙間なく水面を埋めている。この泡の原因は、さらりたちの目の前を横歩きしている蟹型のモンスターである。さらりの腰くらいの高さがある青色の蟹は、体の中央にある口らしき場所から泡を延々と吐き出し続けている。


《バブルクラブ:有毒。》


「有毒だって」

「あんたの【鑑定】はそればっかだな。全然使えなくてうける」

「……でも、食べる時は役に立つから」

「また食うのかよ」

「美味しそうなモンスターなら一緒に食べてくれるんでしょ? 蟹は美味しそうだから、脚取って食べようよ」


 それに、モンスターを食べないとさらりの【鑑定】は役に立たない。せっかく得たスキルを有効活用したいという気持ちも、さらりをモンスター食へ駆り立てた。


「あんたが先に食うんならいいぜ」

「やった! 今日のお昼は蟹だね。……でも、最初は部位破壊にこだわらずに、戦い慣れるのを優先しよう。戦術系のスキルがあれば倒しやすいって話だから、まずはその取得を目指す感じでいこう。包丁で戦ってれば【短刀術】が貰えるはず」

「ふうん。よく知ってるな」

「初心者向けの動画を見て予習してきたの。怪我したくないし、ルイくんに怪我させるのも嫌だし」

「へっ、余計なお世話だぜ。どうせ2層のモンスターだろ? 怪我なんてしねえって、まあ見とけ」

「あっ! 待って!」


 ルイが突然駆け出したので、さらりの制止は間に合わなかった。泡を吐いているバブルクラブに向かって、ルイは真っ直ぐ走っていく。体からぴょこんと飛び出た目玉でルイを捉えると、バブルクラブは体の向きを90度回転させた。


「逃がすかよ!」

「避けて!」

「はあ? おわっ!」


 バブルクラブは、そのままルイに向かって突進する。ルイは体勢を崩しながらも、間一髪で避けた。良かった。無事に避けられたことに安堵しつつ、さらりは急いで駆け寄る。


「こっち!」


 ルイの手を引いて強引に位置を変える。先程ルイが居た場所を、バブルクラブが再度勢いよく通過して行った。


「気づかれないように、後ろからそっと近づいたほうがいいんだよ」

「マジかよ。真正面から向かっちまった」

「距離のあるうちに気づかれると、向きを変えて突っ込んでくるから危ないんだって」

「それ、先に教えてくれよ」

「ルイくんが、余計なお世話だって言ったん、じゃんっ!」


 バブルクラブの突進に合わせて、さらりとルイは立ち位置を変える。ふたりを狙って突進してきたバブルクラブは、方向の修正はできず、慣性に従って向こうへ行ってしまう。勢いが止まるとその場で向きを調整し、また突っ込んでくる。かなりの速さだ。あの勢いでぶつかられたら怪我は不可避である。

 よく見ていれば避けられるのだが、「ぶつかったら終わりだ」と思うと緊張してくる。その緊張が、さらりの足捌きを鈍らせた。バブルクラブを避けた瞬間、水底に敷き詰められた丸石に足を取られて体勢を崩す。


「あっ……」

「危ねえな、気をつけろよ!」

「ご、ごめん、ありがと」


 繋ぎっぱなしだった手を引っ張り、ルイが助けてくれた。さらりはバブルクラブが向きを変えるのを見ながら深呼吸する。平常心、平常心。倒し方は知っているのだから、落ち着けばやれる。


「なあ、こっからどうすりゃいい? 避けるばっかじゃ埒が開かねえぞ」

「バブルクラブは距離があると突進してくるけど、正面から攻撃すると鋏で応戦してくるの。どっちかが正面に回って相手して、その間にもう片方が背後から頭を攻撃するのがいいみたい。私が突進を止めて相手するから、ルイくんは、後ろから攻撃するのをお願い」

「あんたが? 危ねえだろ。俺が相手する、勝手に突っ込んだ俺が悪いんだから」

「駄目。私は動画で予習してるから、ルイくんがするよりも安全にできると思う。ルイくんは、バブルクラブが止まったら後ろに回って、核に届くまで包丁で攻撃して」

「……わかった」

「よろしく」


 バブルクラブは、何度目かの突進をしてくる。さらりはルイと一緒にそれを避けた。泡を跳ね上げながら通過していくバブルクラブの後を、駆け足で追いかける。


(すごい! 足が速い!)


 ダンジョンでモンスターを倒していると、少しずつ身体能力が向上するという。さらりは今、その効果を実感していた。足が軽い。駆けるのが速い。足場が悪いのに、何なら春に体力テストで50m走をした時よりも速いかもしれない。

 走り始めはバブルクラブに遅れを取っていたが、突進の勢いが弱まってくると距離はどんどん縮んでいく。やがて止まったバブルクラブが向きを変え始めたとき、さらりは追いつき、正面へ飛び込んだ。


「えいっ!」


 意識をこちらへ引かないと、また走って行ってしまう。さらりは包丁の先端でひと突きしてから、一歩後ろへ飛んで少しだけ距離を取り、バブルクラブの出方を見た。

 青い甲羅からにゅっと伸びた目玉は、近くで見ると濃い藍色だ。さらりの腰ほどの高さにある目がぐるんと動き、こちらを見据える。両側の大きな鋏は、振り上げると肩に届くほどの高さがある。


「おっきいな……」


 さらりの見た動画で、初心者向けにバブルクラブとの戦い方を教えてくれていたのは大人の男性たちだった。今思えば、彼は随分背が高かったのだろう。彼と相対している時にはそう大きく見えなかった姿が、実際に目にすると予想以上に大きく見える。


「追いかけるなら、言えよっ!」


 その時、ばしゃばしゃと足音を立ててルイが追いついてきた。バブルクラブの藍の目玉がルイに向くのを見て、さらりははっとした。


(ルイくんに怪我をさせちゃ駄目!)


 モンスターを恐れている場合ではない。さらりは包丁の柄を握り直し、高々と掲げられた鋏の先端を突いた。ルイを見ていた藍の目玉が、ぐるんとこちらを向く。振りかぶっていた鋏が、さらりに向かって突き出される。それを後方に飛んで避け、また近づく。自分に向かって突き出される鋏を避ける。


「ルイくん、お願い!」

「わかってる、よっ!」


 背後に回ったルイは、包丁の刃をバブルクラブの脳天を割ろうとするかのように打ち付ける。1回。2回、3回。


「何だよこれ、びくともしねえぞ!」

「戦術系のスキルがないと時間がかかるらしいよ。そのうち甲羅が割れるはずだから、頑張って」

「早く、スキルが、ほしいぜ!」


 ガツン、ガツンッ。包丁の刃が甲羅を叩く音が鈍く響く。ルイがさらに攻撃を重ねると、バブルクラブの藍の目がぐりんと動く。


「よそ見しないで、蟹さん!」


 さらりは包丁を突き出し、先端を鋏に当てる。鋏も殻に覆われているのだが、ダメージを与えている感覚はほとんどない。それでもバブルクラブの目玉はさらりに戻り、また飛び出してきた鋏をさっと避ける。

 攻撃を誘うために距離を詰め、鋏が向かってきたらすぐ退いてかわす。バブルクラブの目玉の向きを常に意識し、ルイに注意が向いたら攻撃して気を引く。やるべきことはその2つ。

 近づき、避ける。近づき、避ける。攻撃。近づき、避ける。

 動きは単調だが、鋭い鋏は掠るだけでも怪我をするため油断は禁物。ひやっとする瞬間もあったが、徐々に慣れてきて動きが滑らかになってくる。


(関節を狙ったら、脚を切り落とせそう)


 バブルクラブの体の作りを近くで確かめながら部位破壊のイメージトレーニングをするくらいには、余裕も出てきた。


「くそ、くそっ、あと少しっぽいのに!」

「ルイくん、頑張れ!」


 ルイは、バブルクラブの脳天を懸命に包丁で叩いている。さらりが応援の言葉をかけた瞬間、包丁の刃がぐっと割って入った。途端に、バブルクラブの体が霧になる。


「うおっ!」


 包丁を振り下ろす勢いが止められず、ルイは水面に向かってつんのめる。ばしゃーん。顔から水に突っ込むと、濡れるのも気にせず水中へ腰を下ろした。ぶんぶんと頭を振ると、濡れた髪から水滴が飛ぶ。


「ははっ! やったぜ、倒せた!」


 万歳のポーズをすると、まだ手に持ったままの包丁の刃がきらりと光る。


「ルイくん、振り回したら危ないよ」

「あ、わり。……お、やっぱり【短刀術】が手に入ってるわ。最後の一撃、明らかに感触が違ったんだよ」


 包丁の面に顔を映してスキルを確認したらしい。


「よっしゃ。この調子で倒そうぜ」

「いいけど、倒し方の動画を一緒に見ようよ」

「ああ。悪かったな、勝手に突っ込んで。あんたも危なかったろ」

「ちょっとね」


 ひやひやする瞬間は何度もあった。ルイはズボンの裾から水を滴らせながら立ち上がり、さらりの差し出したスマホを受け取る。


「見終わったら教えて。モンスターが寄ってこないか、見張っておくから」

「おう。助かる」


 さらりは、水の中に見えた黄色い塊に包丁を刺した。こうしてじっと止まっているとスライムが寄ってくる。スライムは全ての階層にいて、置きっぱなしにしていたものを決してしまうのだ。汚い話だが、お手洗いの始末もスライムのおかげでそう面倒ではないと言われている。


(消してる……っていうか、【収納庫】にしまってるのかも)


 さらりは、先程確認した新たなスキルのことを思い出した。ルイが手に入れた【粘液】は、恐らくスライムの持つスキルだろう。この水の中にあってもなお、スライムの体表は粘液で覆われている。

 同様に【収納庫】のスキルも、スライムが持っている可能性は高い。それなら、スライムに覆われたものがなぜ一瞬で消えてしまうのか、その説明もつく。


(汚いものを収納させられたスライムは、ちょっとかわいそうだなあ)


 その習性を利用して人間はトイレ代わりにしているわけだ。そんな哀れなスライムたちは、さらりの手によって霧と散る。


「……見終わったぜ」

「どうだった?」

「あー……なんつーか……」


 スマホを返すルイの表情はどことなく気まずげだ。拗ねたように唇を尖らせながら、遠くを歩いているバブルクラブを見る。


「俺達が一生懸命避けてたのは、何だったんだって感じだぜ」

「あはは、だよね」


 バブルクラブの正攻法は、背後から音をできるだけ立てずに近寄り、いきなり攻撃を加えること。耳や鼻はそんなに良くないので、静かに近づけば気づかれることはない。一撃で倒せればそれで良いが、複数回叩く必要があるなら複数人で挑んだ方が良い。片方が正面で気を引き、もうひとりが背後から叩くことで、安全に倒すことができる。

 ちなみに、背後に敵がいることに気づいたバブルクラブは後方に向かって倒れてくる。避けるのは簡単だが、そのまま脚と鋏を振り回してくるので攻撃しにくいし、被弾もしやすい。だから複数人で戦うのがおすすめなのだと、動画には丁寧な説明がついていた。


「2人以上で倒すのがいいんだろ? あんた、ひとりでどうする気だったんだ?」


 ルイの質問は、動画をきちんと最後まで見たものの質問だ。なかなか鋭いところを突いてくる。さらりは苦笑し、肩をすくめた。


「実は、2層の予習をちゃんとしたのは昨日なんだよね。モンスターを食べる方法が、こんなに早く見つかると思ってなかったの。今まで、そんな動画見たことなかったから……だから、ルイくんが居てくれてよかった。ひとりだったら、もっと危ない目に遭わなきゃいけなかったもんね」

「あんた、意外と行き当たりばったりなんだな」

「やるって決めたら何とかなるかなって。私、昔から運は良いからさ。今回も、ルイくんが仲間になってくれたし」

「調子の良いやつ」


 悪態をつきながらも、頬がほんの少し赤くなっていることにさらりは気づいた。根は素直なのだ。ルイのそんなところが、年相応で可愛い。


「……よし、やるか。今度は俺が正面を取る」

「わかった。交代でやろう。いけそうだったら脚を狙ってみる」

「それはあんたに任せる。無理はすんなよ」

「もちろん」


 包丁を構え、ふたりは同じ方向を向く。狙うは、向こうを歩くバブルクラブ。息を合わせ、できるだけ水音を立てないようゆっくりと進んでゆくのだった。

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