第25話

 役目を終えた十四番目の装置に凭れ、私は咳き込んだ。煙臭い空気が肺に流れ込む。しかし不思議と心地良い気分だった。落ち着いて呼吸を整えるように深呼吸すると、脳内の快楽物質が切れたのか、ネグリジェから露出した両手両足の擦り傷がじわじわと痛みを訴え始めた。

「いった……」

 怪我なんて久しぶりだ。普段温室でぬくぬくと過ごしている柔肌は簡単に傷付いて、赤黒い傷痕で汚れている。

 流石に車椅子を乗り捨て、這って非常階段を上がるのは我ながら無茶だったかもしれない。薄水色の布地に滲んだ血を眺め、まあでも、悔いはないなと微笑んだ。自分達が成し遂げたことに誇らしさすら感じている。

 真下で演説していた政治家が、押し寄せる若者達の波に呑まれて見えなくなっていく。『娯楽を捨て、醜い欲なく働く社会へ』というふざけたのぼりが踏み倒されていくのが見えた。

 この街にこんなに若者がいたのかという感慨もあったが、それより花火に浮かされた熱意に驚きもした。日陰暮らしの長かった彼らの行進は、きっとしばらく続くだろう。

「げほげほっ……はぁ……」

 四つん這いになって咳き込む。肺が酸素をうまく取り込めないのか、呼吸してもしても胸が苦しい。視界が白くチラついた。まずいな、このままだとまた発作が出そうだ。

 ビルの向こうからサイレンの音が近付いてくる。じきにここにも警察が来るだろう。打ち上げ装置と共にいる私は事情を聞かれるかな。きっと連れて行かれるかな。体調的には早く見つかった方が助かるけど。まあ……逮捕は免れないだろうな。何の罪だろう。火薬類取締法違反? 娯楽産業規制法違反? 扇動罪かも。

 最後の花火を打ち上げた直後に通話を切った携帯画面を見つめた。

 ジェットの未来が守れるのなら、私はどうなってもいい。少し脚は震えてるけど、これくらい大丈夫だから。

「でも最後に……会っとけば良かったかな」

 冷たいコンクリートに倒れ伏し、今更の後悔が口からまろび出た。

 結局会わないままだった。どんな奴だったのかな。きっと馬鹿みたいに明るい馬鹿なんだろうな。気が早くて見通しの甘い、花火とパルクールのことしか頭にない、私の大切な相棒。

 大学生って言ってたっけ。年上じゃん。会ったら何て話しただろう。今日が最後の花火だから、きっともう会うこともないのかな。

 せめて最後にさよならって、言っておけば良かったかな――

「君、ここで何してる!!」

 ああほら、お迎え警察がやってきた。このクソ暑い熱帯夜に生真面目に制服を着込んだ警官二人が屋上の入口に立ち、懐中電灯で私を照らした。

 乗り捨てられた車椅子と、非常階段に付いた血の跡を不審に思って辿ってきたのかもしれない。打ち上げ装置と共にいる私は、何の言い逃れもできない状況だ。

 LED灯の眩さに目を細めながら、心の中でそっと伝えられなかったお別れを言う。意識が、白く遠のいていく。

 私はここまでみたい。

 さようなら、ジェット。私の、大切な相棒――


 倒れ伏した私に警官が駆け寄ろうとした、その刹那。

 屋上のフェンスを無遠慮に掴んで揺らす音がして、重たい何かが降り立つ音がした。

「お、お前、どこから――!」

 突然の来訪者に慄く警官もお構いなしに、スニーカーの足音が猛然と近付いてくる。

 温かい掌が乱暴に私を抱き上げ、そのまま駆け出した。警官の制止する声が、すぐに遠ざかっていく。

「リリイ!!」

 驚いて意識を再浮上させると、眼前には茶髪の若い男の顔があった。ゴーグル越しの双眸が、心配そうに私を見つめている。その声は真夏の日差しみたいに強くて温かくて、そしてよく知っていた。

「……ジェット?」

 じわりと視界が滲んだ。これは夢かな。微睡む脳が見せる願望は、しかし確かに私の肩を強く掴んで揺らした。

 目の前の彼は唾を飛ばす勢いで叫ぶ。

「お前、こんなになるまで……無茶するなって言っただろ! 馬鹿!」

「……あんたに馬鹿って言われたくないわ」

 私は涙を誤魔化すように笑った。ああ、良かった。夢じゃない。

「何でここに」

「ああ? お前、ひとりじゃ帰れないだろ。間に合って良かったぜ」

 言うなり、彼は斜めに肩掛けした火筒のベルトの胸に私を抱き寄せた。火薬と煙と汗の臭いが近付いて、不覚にもドキドキしてしまう。

 病床介護でしか体験したことがなかったお姫様抱っこに頬が赤くなるのを感じたが、次の瞬間そんな思考は吹き飛んだ。

「君達、死ぬ気か――!!」

 警官の慌てる叫び声が、遥か後ろでしていた。

「しっかり掴まってろよ!」

「きゃ――」

 私を抱えたまま、ジェットは商店街の雑居ビルから飛び降りた。

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