第24話

 橋の主塔の天辺に降り立ち、風と行き交う車の振動で微々と揺れる極太のワイヤーケーブルを見下ろす。緩やかなU字型の曲線を描くそれを、今から駆け抜けようとしている。青い容器を傾けてラムネを補充し、一呼吸。

 全身の疲労を爽やかな風味で上書きして、全速力で駆け出した。シューズが嘶き、風より速く飛べと叫ぶ。

 ワイヤーの最底辺まで一気に駆け下り、そこから反対側まで一気に駆け上がる。振り子運動に見るようなエネルギー保存の法則に則り、俺の身体は反対側の主塔へと難なく辿り着いた。頂上に設置された打ち上げ装置のスイッチを入れ、新たな陸地に向かって身体を宙に放った。

「十!」

 椰子の葉が活き活きと葉を広げるような大葉おおばの金光が空を彩る。塔から飛び降りた俺は、何度かシューズのエンジンに頼って空を蹴り、数回転して幹線道路沿いの街灯に着地した。

「次……十一と十二はデパートの屋上だから……正面右の垂れ幕のワイヤーを使ってよじ登って」

「ああ! お前は大丈夫か!?」

 川を越えた辺りから、彼女の荒い呼吸だけが耳元でしていた。慣れない階段昇降は相当苦しいはずだ。返事はなかった。

「おい! リリイ!」

「……大丈夫。あと……もう少し……あ」

 直後、砂袋が段差を転がるような物音がした。悲鳴を上げる暇もなかったらしい。少しの衣擦れの気配がしたが、それ以外に呻き声も何も聞こえなかった。

「リリイ!!」

 くそ、とうとう階段を踏み外しでもしたか。花火を中断して十四番目のビルに向かうしかない。焦る脳味噌が慌てて地図を思い浮かべて彼女の元へ向かう最短ルートを練る。

 しかし少女の声がそれを制した。

「大丈夫、来ないで……数段落ちただけ……まだ身体、動くから……もう屋上の扉は見えてる……」

 絶え絶えの呼吸を聞いているのが辛かった。でも本当に辛いのは、身体の持ち主であるリリイだろう。そして何よりあいつの性格上、引き受けた役目を完遂できない方が身を切られるように苦しいだろう。

 最後まで信じるしかないのだ。他でもない相棒の俺が。

「うおおおおおお!!」

 やり場のない想いを雄叫びに変え、垂れ幕の細いワイヤーロープを手繰り寄せる。シューズのエンジンはフルスロットルだ。地球の重力に逆らい、デパートの壁を猛然と駆け上がっていく。

 擦り切れそうな掌も気に留めず、屋上に辿り着いた。両腕の筋肉が悲鳴を上げているが知るか。早く、早く花火を打ち上げて彼女の元へ。バスケットコート程の屋上の端と端に装置を見つけ、駆け抜け様にスイッチを入れる。

「十一……十二!」

 空で弾けた金色のはち群蝶ぐんちょうがそれぞれ競い合うようにバチバチと空を飛び回る。

「次……右の配電盤の脇から飛んで……」

「……おう!」

 風に流れる白煙を突き抜け、目を凝らして十三番目の装置があるビジネスホテルを捕捉する。一・五キロ程向こうに聳える不夜城を目指し、デパートの屋上を飛び出した。

「いいペースね……こっちももうすぐ……屋上に出るわ」

 苦しそうなリリイの言葉を聞きながら隣のビルに前転しながら着地し、駆け出そうとして――足が縺れた。慌てて両手を付いて踏み留まる。

「うお……」

 無視していたが、飛び続けてきた身体にはいい加減疲労が溜まっている。大粒の汗がコンクリートにシミを作った。一瞬止まっただけで、肺が酸素を欲してずんと重くなる。

 頭を振って雑に口にラムネを放り噛み砕く。鮮烈な甘さが脳髄に刺さった。

 汗ばんだ掌を床で拭うように押し付け、がむしゃらに走り出す。止まってる場合じゃない。止まるな、止まるな、走れ、走れ走れ走れ走れ走れもっと速く!!

「ああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!」

 風を切れ! 行く手を阻む構造物を飛び越えろ! 己を重力のくびきから解き放て! もうこれきり動かなくなっても良い!

 俺達の青春の答えは、その先にある。

「……見えた!」

 トップスピードで辿り着いたホテルの屋上。赤い蛍のように瞬く飛行機除けのランプの合間で、黒鉄の打ち上げ装置が出番を待っていた。

「十三!」

 駆け抜けてスイッチを叩き押す。立ち昇る龍のように煙を引いて、四重芯よえしんの花火玉が轟音と共に弾けた。青橙紅紫の四重の光がまるで龍の目のように俺達の所業を見下ろしている。地上から、威容に慄く歓声が轟いた。

「そっちは!?」

「あと五十センチ……ジェットは最終地点に向かって!」

「……ああ!」

 言葉と共に聞こえた地を這う物音。あいつも限界を押して十四番目へ向かっている。信じるんだ。彼女の望みに向かう心を。

 残り少なくなってきたラムネを口に放り込み、屋上の立て看板の陰から夜景へ躍り出た。

 突如始まったひと夏の花火大会に、街行く人々は空を見上げ、指を差し、目を輝かせている。俺が見たかった景色、これからも守りたい景色だ。なんでこれだけ打ち上げをやって来て気づかなかったんだろうな。首をもたげた街灯を捕まえ、傍の看板に飛び移る。

 元々ひとりで始めた花火とパルクール。自分が楽しめたらそれで良かった密かな趣味は、今やこうして多くの人々が見上げ、思いを乗せるものになった。

 もう俺はひとりじゃない。

 俺達の手を離れた花火は誰かの心に火を灯し、明日を生きる希望になれる。

 でも――それだけじゃ駄目なんだ。

「……届いた!」

 三角屋根に飛び乗った時、安堵と達成感に満ちたリリイの声がした。同時に、海の方向でひゅるるるるるるる、と煙が上がる。

 直後、繁華街の空に花火が打ち上がった。球状に無数の金色の尾を引き最後に青に変化して夜空を流れていく、万華鏡のような余韻を持たせた金波先一化きんぱさきいっか。気に入ってもらえただろうか。

 生まれて初めて間近で見上げただろう花火の音と光に、少女はただただ圧倒されたようだった。

「上がった……凄い……凄く……綺麗」

「おお! やったな、リリイ!」

「最後、お願い!」

「任せろ!!」

 一念のもと決死の思いでやり遂げた相棒に、俺は胸を叩く。屋根を滑り降り、雨樋を蹴ってビルの隙間へ飛んだ。

 もうすぐそこに迫る終演に一抹の名残惜しさを感じると共に、相棒の少女への思いを馳せる。

 ――飛んで、代わりに

 そう言われたとき、不安だった。彼女の見通せない将来を背負うことが。

 俺は立派な人間じゃない。大学はサボることしか考えてないし、大層な夢だって持ってない。将来どうするかなんて、どうせやって来る代わり映えのしない明日をどう生きようかなんて考えたこともなかった。流されるまま大人になるんだと思っていた。

 自分のこともままならないくせに、他人の人生みたいな大それたもん背負えるのか。

 でも違うな。俺は大馬鹿だ。アドレナリンで沸く脳味噌で考えれば分かるじゃねえか。

 シューズのエンジンがまたオーバーヒートしないよう上手くアクセルを踏みながら、ビル間の壁を蹴って上がる。細く切り取られた空が目前に迫っていた。

「代わりに飛ぶんじゃねえ――一緒に飛ぶんだよな、リリイ」

 他人に救いを求めるな。希望を誰かに託すんじゃない。そんなもの俺は背負えもしないし、抱えて歩けもしない。

 俺達は誰かと手を取って、自分で自分を救うんだ。

 俺に手を貸してくれたように、お前が未来に向かって歩きたいと言うのなら、いくらでも俺は手を貸すぜ。

 さあ、これで最後だ。

 屋上の柵を踏み、空中へ身体を投げ出した。シューズのエンジンがフルスロットルで駆動する。月を背に、渾身のトンボ返りサマーソルト。その頂点で抱えていた火筒を天にまっすぐ構える。

「いっけええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 リリイの絶叫と共に、万感の思いを込めてトリガーを引いた。発射の衝撃で身体は後ろに弾かれ、空中でくるくると後転する。

 とっておきの最後の一発は、煙の尾を引いて雲間を抜けていく。

冠菊かむろぎく!!」

 夜空へ放った尺玉は宙で静止する最高のタイミングで弾けた。仕込んだ星が放射状に散開し、全身をビルのガラス窓を震わす爆音を轟かせる。枝垂れ桜のような銀光の大花が、スクランブル交差点のぽっかりと空いた空いっぱいに咲き誇った。

 無事に着地した屋上で、俺は冴え渡る錦の光を見守った。

 その光景は見上げる者すべての心に何かしらの感慨を呼び起こしたようだった。

 光の矢は灰色の世界を切り裂いて幾千の流れ星の如く降り注ぎ、散り、月の光をかき消すように瞬く。

 それに自らの境遇を重ねて涙する者。

 時代を呪うしかなかった己を奮い立たせる者。

 暗闇に一筋の光を見出して心を震わせる者。

 群衆は一様に目を離せないでいた。彼らの心には状況を打破しようと藻掻く自分自身を肯定する光の道筋に映ったのかもしれなかった。

 皆己のままに生きろ。誰かに想いを託すな。自分で自分の未来を切り開け。そのために希望が必要だと言うのなら、俺は何度だって空を駆け花火を上げる。

 俺の青春の答えはそれしかない。

 大輪の花が消え入るより前に街中で怒涛のような歓声が上がる。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

「走れ! みんな走れええ!!」

「あああああああああああああああ!」

「なんか涙出てきた……」

「止まれ、お前ら! 公務執行妨害で――」

「うるせえええ!! 俺達の娯楽を返せ!!」

「返せ! 返せ! 走れ!!」

 時代の本当の主役若者達は雄叫びを上げ、拳を突き上げ、失われた青春を訴えるように警官の制止を振り切って駆け出した。足元のサイレンの音が、人波と熱気の渦に飲まれていく。

「今宵はこれにてしまい……だな」

 ビル屋上の塔屋看板の陰に隠れ、呟いた。

 ラムネの残り香と歓声の余韻に浸る間もなく、俺は花火から流れてきた煙に身を紛らせた。

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