第26話
驚きのあまり悲鳴は最後まで出なかった。タイル張りの壁を駆け下り、踏み込んだと思うと一回転して傍の電柱に跳んだ。
「両手塞がってるから! 絶対放すなよ! 死ぬから!」
「わわわ分かってるわよ!」
今まで味わったことのない浮遊感に戸惑いながら、彼の首にしがみつく。そうしてないと本当に振り落とされそうだ。電柱を踏み越えビルの張り出し看板に飛び移り、一回転してさらにその先へ。
天地が目まぐるしく回り、もう何処に向かっているのか分からない。
「ねえせめて普通に地面歩きなさいよ! 今まで何かを抱えて飛んだことあるの!?」
「あるわけねえだろ! でも歩いたら絶対捕まるから飛んで帰るほうが安全だろうが!」
ジェットの言う通り、眼下は熱に浮かされた群衆と警察の怒号で騒然としていた。空路だけが誰にも邪魔されず、確かに開けていた。
しかしゴーグル越しの瞳は忙しなく次の着地地点を探している。どうやら余裕がなさそうだった。馬鹿か。なんて無茶な逃避行。腕の中の私は暴れる髪を押さえ付けながら周囲に目を凝らした。
まったく、世話が焼ける!
「……左の看板! スピード落とさないで! その向こうの避雷針を目指して飛んで!」
「おう!」
ゴーグル越しの双眸が好奇に閃いた。ここまでやって来るまでの
そのはずなのに、目の前の彼は我が意を得たように軽々と構造物を踏み越え、宙を舞い、風を乗りこなす。
「ははっ! すげえ! すげえスピード上がる!」
目の前だけを真っ直ぐ見つめて飛ぶ相棒は、今この瞬間、地球上で誰よりその身で自由を謳歌していた。
「あったりまえでしょ!? 道順選定のありがたみを思い知りなさい!」
もちろん、私も特等席だ。
荒々しく風を切り、ジェットは私が思い描いた通りの軌跡を辿って飛ぶ。狙い通りの加速を付けて、満足そうに彼は笑う。鼻先にラムネが香った。甘酸っぱくて、爽やか。
月明かりを受けて、私達は二人きりで空を舞った。
私達の、私達だけの夜空を。
見てる? シーシャ。私、今空飛んでるの!
苦しかった呼吸が嘘みたいだ。風を切って飛んでいく感触に胸が踊る。追い風をつかまえて、私達は避雷針を易々と飛び越していった。
ふと、残してきた街灯りの方を顎で指してジェットは犬歯を見せて笑った。
「見えるか。あの橋の、欄干走って来たんだぜ」
夜闇に浮かび上がる大吊橋。開業から八十年近い時の流れを経ても色褪せない大橋脚は、煌々と光を放って漆黒の海を跨いでいる。レインボーブリッジ、本物は初めて見た。あんなに大きいんだ。
夢色の光を詰め込んだ巨大構造物を見つめ、私は呆れて笑った。あの上を走るだなんて。
「ふふ……本当、イカレてる」
「もう一回、このまま走ってやろうか?」
「馬鹿言わないで。間に合ってるわ」
意地悪っぽく笑う彼の横顔に、宙を舞うスリルとはまた違う胸の高鳴りを感じていた。誤魔化すように私は行く先に目を凝らし、都心を貫く大高架を指差した。
「あの高架を越えていきましょ! 電線に沿って、その先の白い給水塔を踏み台にして! カウントするからエンジンフルスロットルで飛んで!」
「いーいねえ、頼むぜ!」
私の思い付きを具現化するように、ジェットは片足ずつ飛び石のように電柱の頭を踏み抜いていく。一歩一歩確実に加速していき、給水塔に踏み込む三秒前。
「三……二……一……今!!」
絶好のタイミングで点火されたエンジンが嘶いた。重力から解き放たれるように私達は超高速鉄道の防音壁を飛び越え、都会の大動脈を横切っていく。
ちょうどその時通りかかったリニアが銀色の車体を煌めかせ、私達の影を射抜くように時速五百キロで走り抜けた。凄まじい列車風が巻き起こり、煽られた私達の身体は横っ飛びに宙を回転する。
「きゃああああ!」
「はっはーっ! 見ろよ、あれがリニアだ、速えだろ!? 」
「分かったから! 真っ直ぐ前見て! 次あっちの点滅信号!」
「要望の多いお姫様だな……へいお望みのままに!!」
上空で錐揉みしても慌てることなく、体勢を整えるジェット。点滅信号を易々と踏み、彼は思い出したように叫んだ。
「ていうかお前、全然社会人じゃねえじゃねえか! 見栄張りやがって!」
「うるさいわね、多少のフェイクは良いでしょ! 授業サボり倒しのダメ大学生に言われたくないわ!」
「お前こそ見れば見るほどちんちくりんのガキじゃねえか! 年上だと思って遠慮して損したぜ!」
「あんたのその態度のどこが遠慮してんのよ!」
ラグのない応酬を空中で繰り広げながら、しかし心のどこかでワクワクしている自分もいた。きっと友達と学校とかで会って話すのってこんな感じなんだろうな。そんなことができる日がまた来るなんて思ってもみなかった。
ジェットは迷いなく信号機を踏み越え、都心の街灯りから遠ざかっていく。それにしても不思議だ。私が指示するより先に目的地が分かっているみたいに飛んでいく。
「ねえ、これどこに向かってるの?」
「お前を送って行ってんだよ」
「私の帰る場所知らないでしょ?」
「知ってるよ、海沿いの大きい病院だろ。その一番上の奥」
「……何で知ってんのよ」
私の問いに数拍の沈黙が生まれた。交差点の青い看板を蹴って飛び、彼はバツが悪そうにぼそりと答える。
「……お前が寝てる間に行った」
「はあ!? 何それ、寝込みに侵入したってこと!? 勝手に部屋入ったって、どういうつもり!? ていうかどうやって分かったのよ!?」
「いや、まあ、うん。内緒」
「信じらんない! 女の子の部屋に黙って入るなんて! 変態! 勝手に色々触ってないでしようね!?」
「あーあーうるせーうるせー! あんまり暴れると落とすぞ!」
悲鳴にも似た絶叫にジェットは顔を顰めながら、それでも私の身体を取り落とさないようしっかりと抱き寄せて飛んだ。彼の火照る首筋が額に触れて、私は黙りこくった。
「……じゃあ、名前も知ってるのね」
「あー、何だっけ……『百合也』だったか。百合だからリリイ、って安直すぎるだろ」
「いいじゃない別に! 安直で悪かったわね」
「私の名前だけ知られてるのもフェアじゃないわ……教えなさいよ」
ええ俺? と彼は一瞬戸惑っていたけれど、ビルの角から飛び降りる瞬間、事もなげに教えてくれた。
「隼人。
「……隼人だからジェット? もしかしてはやいから? うわあ発想が馬鹿っぽい」
「うるせーな! 安直な奴に馬鹿って言われたくねえ!」
恥ずかしそうに口を尖らせる彼に、私は耐えきれずに笑ってしまった。
隼人、そうか、隼人。目を閉じて口の中で呟いてみて、途端に気恥ずかしくなった。名乗り合って、初めて私達は心の中の大切な部分が重なったような気がした。絶対に忘れたくない、私にとって大切な相棒の名前を、浮遊感とラムネの香りと共に心に刻み付けた。
「……助けてくれてありがと。隼人」
彼の首筋に小さく呟いた言葉は、夜風に紛れて飛んで行ってしまったかもしれない。
穏やかな波の音がしている。目指す最後の目的地は、もうすぐそこに見えていた。
病院の屋上に着地し久方振りに病室に帰ってくると、ジェットは私をシーツの海にそっと降ろした。私は少し名残惜しく思いながら、でもまるでそんなこと微塵も感じてないような平然とした顔で腰掛けた。
改めて傍で立つ彼を見上げる。夜風の匂いがする、黒のアノラックパーカー。ここまでずっとその胸に抱き着いてたのを思い出してちょっと気恥ずかしい感じがした。
何よ、思ったより背高いじゃない。
「はー、重かった……腕千切れそう」
発した言葉は最低だけど。
「女の子に向かってなんて事言ってんのよ」
唇を尖らせて言ってみたけど、正直な口の端は笑ってしまった。
「結構擦りむいてんな、腕と脚。ちゃんと手当してもらえよ」
「分かってるわよ、ここをどこだと思ってんの?」
「それもそっか」
笑う彼に、寂しさが込み上げる。きっともうすぐ、ジェットはいなくなってしまう。そうしたらまた静かな病室にひとり取り残されるだろう。
ほんの短い時間だったけど、彼との逃避行は間違いなくこれまでの一生で一番楽しい瞬間だった。だけど、だからこそ、この後訪れる茫漠とした孤独感に私は耐えられるのか、じわじわと不安が込み上げた。
「あの――」
言いかけた私の言葉を、廊下の向こうで響く喧騒と足音が遮った。恐らく病院関係者達だろう。突然消えた私を探し回り、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているようだ。
「やべ、そろそろ行かねえと」
そう言うなり、ジェットは病床を跨いで窓を開け、サッシ枠に足を掛けた。レースカーテンが夜の海風で不規則に揺れる。
「うそ、そこから出るつもり?」
「大丈夫大丈夫、適当に降りるから」
私の心配をよそに、窓の向こうに身体を乗り出すジェット。着地できる場所の目測がついたようで、彼は身軽に窓枠へ飛び移った。本当にここから出ていくつもりのようだ。
ああ、待って。もう行ってしまう。
「ジェット」
身を乗り出して呼び止めた声は、どうしても震えてしまった。ちゃんと言わなきゃ、最後なんだから。
心に仕舞い込んでいたさよならを口にするかどうか逡巡していると、外を眺めていた彼が振り向いた。
「ん? ああ――」
何か思い出したようなジェットは空いた手を伸ばし、泣き出しそうな私の頭をくしゃりと撫でる。それは昼間の太陽みたいに温かい掌だった。
「また明日な、リリイ」
眩しい笑みを残し、彼はそれだけ言って窓枠を蹴りカーテンの向こうに身体を投げ出した。
慌てて窓辺から見下ろすと、垂直落下しながら外壁を走るジェットの姿が見えた。火筒を抱えた背中が、正面玄関の旗ポールや街灯に次々と飛び移って遠ざかって行く。そして闇に紛れてあっという間に見えなくなった。
ここ十二階なんだけど。空飛びすぎて頭イカレてるわ。残された私は吹き上がる風に踊る髪を押さえた。
「……はは」
笑いながら、涙は後から後から零れてきた。悲しくはない。寂しくもない。彼のくれた別れ際の言葉で、胸の奥は温かかった。
私はもうひとりじゃない。それは明日に惑う私の行く先に灯った、道標のような希望の火だった。
「ありがとう……」
お陰で私、明日からも上を向いて生きていける。
ふとベッドに目を遣ると、ポケットから滑り落ちたのか小さな青いボトル型の容器が転がっていた。彼の忘れ物だろう。本当、いつも欠かさず持ち歩いてるのね。
蓋を開け傾けると、傷だらけの掌にラムネが一粒転がった。いつも相棒がそうするように口に放り、深呼吸。空を共に駆けた時に感じた爽やかさが胸いっぱいに広がった。甘くて切なくて、身体が浮遊感に沸き立つ、不思議な味だ。
「……ラムネ
海の向こうに浮かぶ満月に笑う。
甘酸っぱい香りは涙の味と混ざって鼻を抜け、心地良い海風に遠く遠く吹かれていった。
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