第21話

 苔むした背の高い煙突の上にひとり腰掛け、これから満ちる若い月を仰いだ。森に飲み込まれた工場跡地は静かだった。ぬるい夜風がパーカーの袖を揺らす。

 あれから色々考えすぎてオーバーヒートした頭を冷やすには、やはり夜風に当たるのが一番気持ちがいい。足元を見下ろすと、広大な敷地に耐用年数をとっくに過ぎたコンクリートの建屋が緑に紛れてひしめき合っていた。

 屋根が崩れ落ち枯葉が山積した廃屋の隙間から、こちらの様子を伺う獣達と目が合う。ここは奴らの世界で、俺はさしずめ招かれざる客といったところだろう。大丈夫、今からちょっと駆け抜けるだけだ。

 パルクールの練習場として以前から不法侵入しているここの地形は、完全に身体が覚えている。警察にも行政にも捨て置かれたここには、誰の目も届かない。お陰で顔を隠す必要もない。ただ惰眠を貪って鈍った身体を慣らすのには好都合だった。

 双眼の暗視ゴーグルをセットして、暗闇に目を凝らした。月光を照り返して白く映るニトロシューズのスイッチを入れる。踵を踏むとヴヴヴと唸り、正常にアクセルが作動した。良かった、ちゃんと動くみたいだ。

 準備を終えて煙突の天辺で立ち上がり、身体を解すように軽く何度かジャンプする。

「さあ――行こう」

 森閑とした真夜中の虚空へ、歩み出すように身体を投げ出した。

 煙突の『安全第一』の擦れた文字を踏み抜いて自由落下の勢いをいなし、前方の建屋の屋根へ飛び移る。パーカーのフードが久しぶりの風にはためいた。

 平らな屋根で前転して無事に着地し、そのまま駆け出した。すっかり虫の住処になった大型室外機を蹴って跳び、千切れたフェンスを乗り越える。十メートル向こうの非常階段を目指し、俺は躊躇なくビルの切っ先から飛び出した。

 五感を研ぎ澄ませて風を切ると、不思議と頭の中はクリアになった。絡まってめちゃくちゃになっていた感情が解け、静かな闇に溶けていく。

「よっ」

 足元のエンジンを短く回し、五階相当の空中で跳躍する。足りない距離を補った身体は、一回転して難なく錆びた階段を踏んだ。そこから次の踊り場まで駆け上がって柵を越え、蔦の這う外壁を走る。

 宙を舞うスリルに痺れた頭が、ここ最近の様々な思いを走馬灯のように流した。娯楽を失った社会の閉塞感、色を失った菓子パンのパッケージ、謳歌できない青春、諦めきった爺ちゃん、花火職人の皆の落胆、自分で決められない就職先、それでも迫る卒業、明かりを落とした駄菓子屋の店先、寂しそうな店主の顔、未来を見失った少女、何もできなかった俺。

「……ああそうか」

 ずっと漠然と不安で、ずっと理不尽さにキレてたんだな、俺。

 傍の傾いた電柱に向かって飛び、電線を掴んで回転する。視界が百八十度回転したところで手を放し、次の屋上へ滑り込む。コンクリートの割れ目に生えた低木を乗り越え、機械室に向かってひた走る。壁のパイプをよじ登ると、どこかで獣の鳴く声がした。

 虚構の世界でだけでも大好きな花火を残しておきたくて、世間の目を盗んで打ち上げて、動画をネットに流したりなんかしていた。俺が満足ならそれでいいと思ってた。

 ――皆ゆめみてる

 そうだな、リリイ。もう花火は俺ひとりの物じゃない。いつしか打ち上げた花火は虚構の世界を飛び出して、見上げる誰かの心の拠り所になっていたのかもしれない。

 いつの間にか、みんな花火に夢を見て……救いを求めていたんだ。

 天を刺す避雷針の脇から飛び出し、六十度に傾いた外壁を滑り降り、休むことなく次の建屋へ。踵が朽ちたコンクリートに擦れてゴリゴリと音を立て、傍に隠れていたネズミが慌てて逃げて行った。空っぽの貯水槽の梯子を登り、頂上から管理棟の屋根へ跳ぶ。


 なんで俺はあの時リリイの願いに即答できなかったのか、やっと分かった気がした。


 屋根から消えた街灯へ、そしてぽつぽつと点在する電柱の頭を順番に蹴飛ばして、最後の一本で大きく跳躍する。飛んだ先に、もう役目を終えた巨大な鉄塔が斜めを向いて佇んでいた。がらんどうの塔内を足場代わりに蹴り上がり、とうとう頂上に辿り着いた。

 高さにしてビル十階ほど。蔦に塗れた主柱に触れて、大きく息を吐く。ゴーグルを額に上げると、大きく欠けた月と満天の星が俺を見下ろしていた。全身運動で火照った身体を、夜風がぬるりと撫でていく。

「折れたとこは……もう大丈夫だな」

 怪我なんてなかったかのように身体が軽い。やるべきことを身体が思い出して、沸き立っていた。

 汗ばんだ掌をパーカーの裾で拭き、携帯を取り出した。画面の向こうの彼女は、恐らくもう寝てしまっただろう。

 何度も書いては消しを繰り返したメッセージアプリを改めて開き、今度は素早く文章を打ち込んで送信する。もう迷いはなかった。


『次の満月の夜、最後の花火を上げよう。一緒に』

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