第20話
八月中旬にしてはしつこい雨のせいで、俺の部屋は数日の間灰色に染まっていた。何も手につかず、携帯が震えては慌てて画面を取り出し、病院からの連絡ではないことに安堵するのを繰り返していた。リリイに会いに行ったあの日から、もう何日が過ぎただろう。
そう怯えるのなら、彼女が生きる一分一秒を惜しんで会いに行けばいいのにと思う反面、そんな資格があるのかと咎める気持ちが俺の背を強く引き留めた。結局胸の中に蟠りを抱えたまま部屋の中をうろうろと歩き回り、しとど降る雨に身も心も閉じ込められていた。
左腕のギプスと胸のコルセットが取れ、軽くなった身体をベッドに沈める。順調に回復する健康な己を恨めしく思いもした。俺の思いとは裏腹に、骨はほぼ元通りに繋がった。
焦燥に苦しくなった息を細く吐く最中に携帯が短く震え、俺は息が止まるような思いがした。通知されたのはリリイからのメッセージ受信の知らせだった。震える指が何度も迷い、そしてようやくメッセージ画面を開く。
そこに浮かんでいたのは、ごく短い文字列の連投だった。
『こないだ』
『ごめ』
良かった、これはきっとリリイだ、と心から安心し画面を一旦胸に伏せ、天井を仰ぐ。機械に生かされていたあの状態から生還したのだ。
「良かった……本当に」
強張っていた背筋が弛むのを感じながら、返信を打つ。謝らないといけないのは俺の方だ。お前のことを何も知らないで――。
そこまで考えて、打ち込んだ文章をすべて削除した。駄目だ、会いに行ったことは内緒にするんだった。桜田さんがリリイの代わりに打った文章も、約束通り綺麗さっぱり消されていた。病院で見聞きしたもののすべてを伏せた上で、何て言ったら良いだろう。
最後に話した電話でのやり取りを思い出し、ひとまずこう送った。
『いや、俺の方が悪かった。流石に言い過ぎた。ごめん』
既読はすぐに付いて、しばらくお互いに画面の文字を睨むような時間があった。簡単に許してもらおうなどとは思ってない。でもひと言でいいから謝りたかった。自己中と言えばそうかもしれないが、とにかく二度と伝えられないような事がなくて良かった。
『飛んだ』
『りれきある』
『ひとりで?』
「うぐ」
恐らく俺の打ち上げ道具類の使用履歴のことを言ってるんだろう。起き抜けだろうに、目聡く確認したようだ。独り善がりの気まずさにわしゃわしゃと頭を掻く。バレているのなら隠し立てしてもしょうがない。もう正直に顛末を報告することにした。
『ごめん ひとりで飛んだ。で、失敗して骨折った』
『ばーか』
間髪入れずに返信があった。画面の向こうの彼女は笑っただろうか、怒っただろうか。勢いよく返ってきた三文字に、何だか懐かしさすら感じた。ただもっと鬼の首を取ったように罵倒されるだろうと覚悟していた俺は、素っ気ない返事に肩透かしを食らった気分だった。それに今日は変にメッセージが途切れ途切れだ。
『いつもよりやけに細切れに送ってんのはなんで?』
リリイのメッセージは数分開いて返ってきた。
『ゆび』
『うごかな』
『音声にゅうりょ』
『してる』
指が動かない。体調はまだ完全には戻ってないということだろう。
『無理すんな。体調悪いなら大人しく寝てろよ』
事情を知らない体で返すならこれがギリギリだ。苦しいだろ。そこまでして無理に喋るな。しかし彼女は返信を寄越した。
『いい』
『わたしのは』
『なし』
『聞いてくれ』
『る?』
俺の心配も構わずリリイは続ける。彼女が今どうしても話しておきたいこと。今じゃないと彼女の口から聞くことができなくなるかもしれないこと。俺はそれを受け止めなければならない。ベッドから身体を起こし、腰掛けた。
『ずと』
『身体よわ』
『くて』
『もうしばら』
『一人で立て』
『ない』
不自然に途切れた文章から、今も息を切らして喋る少女の姿が目に浮かぶ。それはこれまで彼女が見せることのなかった、必死にひた隠しにしてきたであろう本当の姿だった。
『むかしか』
『いつも息』
『くるしくて』
『あるいた』
『走ったりでき』
『なかた』
病室であらかじめ事情を聞いてしまった後ろめたさのようなものを感じつつ、それでも彼女自身の言葉で綴られる無色の人生に胸が苦しくなる。
「そう、だからもう、無理させたくないんだよ……もう喋るな。もう……」
あんな命を削るような無茶は、させないから。文字が浮かぶ画面を両手で抱いて、祈り込めるように俯く。
『ともだちで』
『きても』
『しんじゃ』
『たり』
『私に』
『しょうらい』
『とかな』
『いと思ってた』
窓辺の少女は、俺の部屋の外と同じように降っているだろう灰色の雨を見つめて、今どんな顔をしてこの言葉を口にしてるんだろう。
『ずっとうらやまし』
『かった』
『自由にと』
『んだり走ったり』
黙って画面に浮かび上がる文字を目で追う。羨ましかった、以降の一文がずんと胸に沈んだ。ああそうか、これは恨み言なのかもしれない。勝手にあの病室のノートの山を見て、あいつが心から楽しんでいたと勘違いしてしまった。
満足に歩けない彼女の葛藤も露知らず、目の前で呑気に飛んだり跳ねたりされていい気分だったとは思えない。変に夢を見せるなとも言いたくなるだろう。俺に対し後ろ暗い感情を抱くことも、あったのかもしれない。
「そうか……そうだよな……ごめん、リリイ……」
喉の奥から絞り出した声は、雨音に叩かれて床に落ちた。彼女の胸に縋って謝りたい気分だった。もう何て言って謝っていいか分からないけど、もうそんなこと言わせないから。
「もう、お前の目の前で飛んだりしないから――」
だがしかし、リリイはそんな俺の懺悔すら覆す短文を投げて寄越した。
『皆ゆめみ』
『てる』
『だから』
『とんで』
『かわりに』
飛んで。代わりに。
いつもの彼女の声で脳内再生された言葉に、はっと息を呑んだ。
面と向かって言葉を交わしたわけじゃないのに、取り縋った彼女に思いっきり頬を張り倒されたような気がした。まだ見ぬ双眸が、電子の海を越えて俺を射貫く。
胸に抱えていたモヤモヤが一瞬にしてしゅわりと泡になって溶けて消えた。甘酸っぱく清涼な風が心に吹き、鼻を抜ける。
気付いたら俺は泣いていた。
それきりメッセージの更新は無かった。しかし画面から目を離すことはできなかった。俺は止まらない涙をそのままに、ただ短い文字を見つめていた。
いつまでそうしていただろう。一筋の光が分厚い雲間からまっすぐに部屋に差し込んだ。思わず目を細めて窓を開け、そっと茜色の世界に手を差し出した。ガラスで遮断されていた外の熱気がむわりと肌を、涙の跡を包み、力強い蝉時雨が陽炎を突き抜けて飛び込んでくる。
いつしか雨は止んでいた。
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