第19話

 しばらく扉の前で呆けていた俺を見かねてか、桜田さんは空っぽの病室へ案内した。最上階の灰色の海を望む個室の入口には、『瀬戸百合也』とそっけない名札がかかっていた。たった一つのベッドには一筋の皺もなくシーツが敷き込まれ、主の帰りを待っている。

 桜田さんがベッド脇に用意した丸椅子に、俺はへたり込むように掛けた。

「ごめんなさい……驚かせちゃったわよね」

「いえ……」

 落ち着きを取り戻したように頭を振るが、よく拭き上げられた窓には青い顔をした俺が映っていた。首筋の汗がじとりとパーカーの中を流れていく。

「……あいつの身体は、ずっと悪いんですか」

 ここ数ヶ月であの状態になったとは思えず問いかけると、桜田さんは少し意外そうに、しかし少し目を伏せて語りだした。

「聞いてなかったの……まあ、言いたくなかったのかもね。百合也ちゃんは生まれつき心臓と肺の病気を患っていて、ほとんど病院で過ごしているの。本当ならいま高校生なんだけど、退院してはすぐに悪化して戻ってきていて、完治の見込みもなくて……ここ数年は手術を繰り返して、ほぼ寝たきりの生活を送っていたわ」

「……」

 そうして部屋の隅に置かれた電動車椅子に目を遣った。

 そんな話は初耳だった。電話とメッセージでしか知らなかった彼女の人生は相当に過酷だった。そんな素振りをおくびにも出さなかったのは、リリイの精一杯の強がりだったのだろう。

 それか、俺との間だけでも理想の自分を演じていたかったのだろうか。病気とは無縁で趣味に時間を割く気ままな社会人という、叶わない理想の自分を。

「本当は家族以外の人を集中治療室や個室に案内したり、個人情報を話したりしてはいけないの……だから、今日のことは全部内緒ね」

 そう言って桜田さんは唇の前に人差し指を立てた。その言葉の中でふと気になって、俺は聞いてしまう。

「あいつの家族は、どこに」

「……百合也ちゃんのご両親は海外での仕事が忙しくて、なかなか来れないそうなの」

 愕然とした。娘の生死より大切な仕事があるのか。あるわけねえだろ。空っぽの腹の底に沸々と鮮烈な怒りが湧き、膝の上で拳を握る。

「いつもね、そうなの……あの子もそれを分かってるから、ひとりでも平気だって言って」

 横たわっていたあの小さな姿を思い出し、傍のベッドを見遣る。窓の外の海を寂しそうに眺める少女の背中が見えた気がした。こんな殺風景な部屋で、誰からも忘れられて、明日も見通せない無間地獄のような人生。どんな思いで、リリイはあの波間を見つめていたんだろう。

 どんな思いで、俺と一緒に花火を上げていたんだろう。

「でもね、去年の秋くらいからは凄く楽しそうだったの、百合也ちゃん……何をしているのかは絶対に私には教えてくれないんだけど、何だか活き活きしていて……きっといいお友達ができたのね」

 そう言って、妙齢の看護師は涙を誤魔化すように俺に笑いかけた。俺はあいつの唯一の友人になれていたのだろうか。その彼女に、俺は何て言った。孤独な少女の生きる希望になれていた誇らしさなど微塵もなく、ただ自責の念が込み上げ、膝の上の拳に視線を落とした。

 項垂れた俺に、しばらくして桜田さんは腕時計を見て声をかけた。

「私はもう行かなきゃいけないけれど……貴方はもう少しゆっくりしてから出て行きなさい、顔色が悪いわ。それと――」

 俺を慮る言葉が重く肩に圧し掛かる。その気遣いすら今の俺には胸が痛んだ。扉に手をかけ、振り向いた彼女は最後にこう言った。

「今日送ったメッセージは消しておくわね。きっと残したままにしておいたら、百合也ちゃんに怒られちゃうから。……何かあったらまた、こちらから連絡するわね」

 目の端の涙を拭い、桜田さんは部屋を出て行った。彼女の言う『何かあったら』は最悪のことを想定しているのだろう。だからこそ、二度とあの長いメッセージが届かないことを祈るしかなかった。

 今の俺には何も出来る事がなかった。リリイの代わりに苦しむことも、孤独を嘆くことも出来ない。消毒液の臭いを吸って吐く息が鉛のように重かった。

 ベッド脇のテーブルに、ごついノートパソコンとヘッドセットマイクが置かれているのが目に入った。いつもこれで俺と通信していたんだろうか。

「……」

 立ち上がり、小さな頭に調整されたヘッドバンドを手に取る。このマイクに向かっていつも指示を飛ばしていたのかな、なんて想像してしまう。元の位置に戻しながら、机の引き出しに手を掛ける。部屋の主に悪いとは思ったが、どうしようもなく心のどこかで彼女の生きた面影を探していた。

 引き出しいっぱいに詰め込まれていたのはノートだった。日記か何かだろうかと思ったが、表紙を開いてすぐに違うと分かった。中には難解な数式や理論や図式などが羅列してあった。ページを捲っても捲っても、俺には到底理解できない文章が続く。高校生にしては難解すぎる内容に、思わず目を見張った。

 端の方に、ようやく読めそうな日本語が見つかった。そこには『より短い助走で遠くに飛翔するには?』『必要な高低差の理論値は?』などと書き殴ってあった。

「これは……」

 他のノートも似たような筆致が残されていた。ざっと見ただけで十冊以上はある。凄まじい執念だ。小さな身体を丸めてノートに食い付く様を思い浮かべ、ごくりと喉を鳴らした。

 ノートを元通り仕舞い、一番下の引き出しに手を掛ける。ずしりと重いそれには、今度は大量の本が詰まっていた。適当な一冊を手に取ると、角が擦り減った表紙には『運動力学入門』と書かれていた。ぱらぱらと捲ると、先程のノートのような難解な数式とその解説が載っていた。要所要所に下線や丸付けがされているあたり、リリイはこれらの理論を理解していたということか。俺には難しすぎて何も理解できなかった。

 他の本の背表紙も『都市計画の基本』『物理とスポーツ工学』『身体運動学的アプローチ法』と様々な専門書が並ぶ。『パルクール入門』なんてものもあった。

 そのどれもが装丁が摩耗し、中は書き込みと手垢でくたびれていた。

 すべての引き出しを閉じて、ようやく俺は気が付いた。

「リリイ……お前も……一緒に飛んでたのか」

 それらは彼女の知性と努力の結晶だった。ほんのお遊びの延長で始めたつもりの花火の打ち上げに対し、ひとりの少女が如何に生涯を賭けて挑んでいたのかを垣間見た気がした。

 芳しくない体調を押して、夜を徹し本を読み込んだ日もあっただろう。理解できない理論に頭を悩ませた日もあっただろう。精一杯考えた最良の道順に対し俺からのクレームが付き、頭を掻きむしりたい日もあっただろう。

 それなのに、あいつは全てを押し殺してあの時、何て言ってた。

 ――もう、やめよう……こんなこと

「『こんなこと』じゃねえだろ……お前にとっちゃ……」

 そう言わせてしまった自分にも、もう何度目かの怒りが込み上げる。振り下ろした拳は清潔なシーツの海に飲み込まれた。噛み締めた奥歯が悔恨の念に軋む。縋るように突っ伏したベッドから仄かに甘い香りがして、目頭が熱くなった。

 もう何でも良いから、俺が願うのはたったひとつだけだった。

「リリイ……頼むから、生きてくれ……」

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