第18話

 とにかく安心したくて、急いで黒のアノラックパーカーと短パンに着替え、病院へ向かった。昨夜の打ち上げから帰ってきて床に脱ぎ捨てていたのをそのまま着てきた。見舞いにこんな格好で良かったのかなんて、考える余裕はなかった。

 メッセージの終わりに記載されていた病院は、リニアに乗ってすぐの距離だった。意外と近くにいたことに驚いたし、そしてネットでしかやり取りのなかった人間が本当に存在したことになぜか不思議な気持ちがしていた。

 傘を閉じて聳え立つ白い病棟を見上げ、ごくりと唾を飲む。本当にいるのか? ここに。コルセットの胸が緊張に軋む。

 受付を素通りし、エレベーターで上階へ。固く冷たい床を雨粒で濡らし、足早に目当ての部屋へ急いだ。すべてメッセージの送信者が指示する通りの最短ルートだった。

 廊下の奥に、その人物はいた。

「ああ、貴方が……」

 集中治療室の扉の前で立っていた看護師の女性は、俺の顔を見るや安堵したようにそう漏らした。この人がきっと、リリイの携帯で連絡を取ってきたのだろう。送信者は身内じゃないかと思っていたが、まさか看護師だとは……。

「あの、連絡をくれたのって――」

「ええ、私よ。ごめんなさい、家族でもないのに、急に呼びつけたりして……」

 少しだけ己を咎めるように目を伏せた彼女の胸には、『桜田』のネームプレートが下がっていた。桜田さんは、でもね、とすぐに顔を上げる。

「間に合って良かったわ。さあ、こちらへ」

 間に合って良かった。その言葉に込められた意味に、胃の腑がずしりと重くなる。

 心のどこかで、まだ大丈夫なんじゃないか、本当はこれも悪い冗談なんじゃないかと疑っていた。

 重厚な扉の先で、まだ見ぬ相棒がいつもの元気な声で「まんまと騙されたわね」って笑って出て来てくれるんじゃないかと、そんなありもしないことを願っていた。そうでもしないと、震えた脚は前に進んでくれなかった。

 だから、ガラスの向こうで横たわるそれを見た時、思わず眩暈がした。

「……っ」

 息を呑んだ。部屋中所狭しと置かれた大小様々な白い機械達。それらの中心で眠りにつく小さな人影があった。ここから辛うじて見える白い腕と首筋、薄い水色のパジャマの胸元には夥しい数の点滴のチューブや電極の配線が覗いており、それらは傍らの機械たちに繋がっていた。きっとそれらがベッドの住人の生命を繋ぎとめているのだろうということが嫌でも分かった。

 人工呼吸器のマスクで表情は伺い知れないが、力なく閉じた長い睫毛と枕元からこぼれ落ちた長い薄茶色の髪で、ようやくそれが少女だと分かった。

「百合也ちゃん……お友達が来てくれたよ」

 桜田さんの言葉に声も出せず、ただ背筋が凍るような思いがした。そよ風で吹き消えてしまいそうな灯火の少女。思っていたよりずっと小さな身体。あれが、リリイの本当の姿なのか。

 心電図を映していると思しきモニターには何の反応もなかった。俺達が見つめる向こうで、ただ一定のリズムで電子音を刻み続けていた。

「そんな……いつからこんな……だって、俺、先週あいつと話したばっかりで」

 ガラスの向こうに釘付けになったまま、狼狽を口にした。吸いすぎた消毒液の臭いに、息が苦しくなる。

「先週の終わり……昼すぎに、発作で倒れた百合也ちゃんを見つけて……普段だったら遠隔でモニターしてるから気付くんだけど、その日はなぜか部屋から離れたところにいて……見つかるのが遅くなってしまったの」

 百合也ちゃん、ごめんなさい……と涙声で言葉を詰まらせる桜田さんに、何の言葉も掛けられなかった。先週の終わりの昼。俺と電話で喧嘩したすぐ後だ。もしかしたらあのやり取りがリリイの心に負担をかけ、重篤な発作に繋がったのかもしれない。

「くそ、何で言わねえんだよ……」

 冷たいガラスに付いた掌を固く握りしめる。いや、何で言わねえんだよじゃねえな。俺がリリイのことを知ろうとしなかっただけだ。何も知らないで浴びせてしまった言葉を思い出し、悔やみきれない後悔と自分への怒りが湧いてくる。

 その時病室中にけたたましい警告音が鳴った。一定のリズムで刻まれていた心電図の波形が平坦な一本線になり、画面が赤く点滅する。あれは、いや、そんなことは――。

 次の瞬間、リリイの小さな胸がびくんと震えた。警告音を鳴らしているものとは別の機械が、『電気ショック完了』『五秒後再始動』と無機質な文字を浮かべる。

「ああ、頑張って……百合也ちゃん……」

 看護師は両手で顔を覆って泣き崩れる。リリイの身体が再び、強制的にベッドの上で跳ねた。俺もそれ以上痛ましい光景を直視できず、思わず目を伏せてしまった。

 手術着を着た数人の医師が処置を施そうと機械の中心に駆けつける。彼らが少女の胸元のボタンに手をかけたところで、桜田さんは俺の腕を引いて外に連れ出した。

「リリイ……」

 ガラスの上に残した拳は、呆気なく離れてリリイから遠ざかっていった。

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