第16話
変な時間に寝たからか、起きた時にはヒグラシが鳴く夕暮れだった。頭が痛い。絶対寝すぎだ。
あれだけ激しく降っていた雨も重たい雲ごと西の空へ流れていったようで、夕陽が空を緋色に染めている。それをただぼーっと眺めて飲む水道水が、だらけきった身体に染みわたる。
今日は本当に何もない日だった。昼前に電話しただけ。電話して、リリイと話して――
「あああもう思い出さねえぞ、くそ……」
重怠い頭をぶんぶん振って思考からあいつの声を追い払う。このままひとりでいるとまた思い出して苛々しそうだ。
ぶん投げた携帯を拾い、メッセージで樹を飲みに誘う。数分ののち、通知音と共に短い返信が浮かんだ。
『いま廃墟 来る?』
ご丁寧に画像まで付けてきやがった。それはどこからが構造物でどこからが森なのか分からないほど緑に塗れた写真だった。撮るのが下手なのか、余程の僻地に行ったのか。
『行かねえ』
どちらにせよこいつと飲むのは諦めねばならない。適当に返信を打ってアプリを閉じた。他にすぐに時間を潰せそうな都合のいい友人も浮かばず、頭をわしゃわしゃと掻いた。
「はあ、友達少ねえな……俺」
仕方ない、適当にその辺を散歩するか。伸びかけの髭でざらざらした顎はそのままでいい。起き抜けのスウェットにサンダルを突っ掛け、外に出た。
蒸した日暮れの臭いがする。転々と広がるそこらの水溜まりに、夕空と何でもない街の景色が映っていた。ブロック塀、掲示板、電柱……で、その次は――
「……いや、何見てんだよ、俺」
思わず頭を振る。逆さまの世界でどう飛ぼうかと、目が勝手に道順を探していた。視界の端に残段数が表示されている気すらした。どれだけ花火打ち上げの欲求不満なんだ俺は。
ポケットを漁れば恐らくいつものラムネの容器が出てくるだろうが、取り出せば余計に思い出しそうだ。傍に留まるヒグラシがそんな俺をせせら笑うように鳴いている。
そうだ、年輪堂に行こう。ラムネで思い出したのは釈然としないが、どうせ行く宛のない散歩だ。昭和レトロの趣でぱっと華やかになった店先を拝んで、気を紛らわそう。踵を返し、いつもの道へ足を向けた。
……はずだった。
「何だよ、これ……」
眩い広告を灯していた有機ELフィルムはどれもこれも真っ暗だった。数枚のフィルムには張り紙がしてあったり、鋏で切られたような切り傷が入っているものもある。
店先に近付いてフィルムの張り紙を剥がす。そこには汚い字で『閉めろ』と殴り書きされていた。他にも『不謹慎』『出て行け』などと口汚い言葉が連なっていた。自分に言われているかのように腹が立つ。誰だこんなことした馬鹿は。
残りの張り紙を剥ぎ取っていると、店の奥から常盤さんが顔を出した。
「おや、隼人くん。どうしたの」
「どうしたって……それはこっちの台詞で」
見慣れた店主の顔は、少し疲れていた。俺は剥がした紙を忌々しく丸める。
「まあ、何て言うの。やっぱりちょっと派手すぎたみたいね。通りがかりの人かな、多分」
艶やかな広告が、娯楽を否定する誰かの目に留まったのだろうか。それとも抑圧されすぎて頭がおかしくなった奴が、お前も自粛しろと言っているのだろうか。いずれにせよ矛先が違うだろ。
常盤さんは店頭に張り出したばかりだったフィルムを一枚一枚剥がし、巻き取っていく。その背が、いつもより小さく見えた。
「ほとぼりが冷めるまでお店をお休みしようかと思ってね。世間の目もあるし……」
「何で常盤さんが……!」
「これも時代だよ、隼人くん」
何本もの黒い巻紙を小脇に抱えた店主は、そう寂しそうに言って店の奥に消えていった。その背を追うことは、かける言葉を持たない俺には出来なかった。
結局あの時どうすれば良いのか、爺ちゃんにも遠藤さんにも常磐さんにも、どんな言葉をかければ良かったのか、俺には分からなかった。
モヤモヤした心を晴らす、何か捌け口が欲しかった。身体は勝手に浮遊感を求めていた。すべてを宙に投げ出して、あらゆるしがらみから解き放たれたかった。
宵闇に浮かぶ遠い街灯りを見下ろし、俺は火筒を担ぎ直した。
「……」
携帯の画面に未読通知は表示されなかった。何見てんだ。頭をガシガシ掻き、端末をポケットに仕舞う。
電話での喧嘩から一週間。相変わらずリリイから連絡は無かった。まだ怒ってんのかもしれない。もう連絡が来ることは無いかもしれない。けれどもうどうでもいい。
本当にひとりで飛んでやろうと思った。リリイがいなくたって、別に飛んじゃいけない訳じゃないし。暗視ゴーグルとニトロシューズと火筒さえあれば、あとは俺の身一つでいつでも空を飛べる。
出来立ての花火玉を詰めた打ち上げ装置は、好きな場所に設置済みだ。今日のコースは
いつもはリリイが装置の設置場所のリサーチとコース選定を担っている。けど打ち上げより長くパルクールをやって来た身としては、「こっち行きたいのに」と思わなくもない瞬間がどうしてもある。
だから今日は、俺による俺の為の花火を、俺の自由に打ち上げてやろう。誰にも文句は言わせない。
設置ポイントと行きたい場所を線で繋いだ道順を脳内に思い描く。宙に身体を投げ出す感覚を背中が思い出してゾクゾクする。久しぶりの打ち上げだ。ポケットからラムネを取り出し、口に放った。ブドウ糖の甘さが脳内を駆け巡る。
パーカーの黒いフードを被り、暗視ゴーグルのスイッチを入れる。視野は明るくなったが、いつもリリイが送信している道順やその他の項目は表示されない。
「風よーし、雲よーし、航空機よーし」
空を指差し、ラムネ容器を傾けて粒を口に放った。しゃがんでクラウチングスタートの態勢をとり、シューズのスイッチを入れる。
ここまでひとりで準備しているが、
「……いや、やるって決めたろ」
両頬を叩き、目的地の街灯りを見据える。心の中で三・二・一と数え、身体に纏うぬるい空気を切るように暗闇へ駆け出した――が、
「うおっ!?」
突如、坂の下から乗用車のヘッドライトが迫ってきた。自動運転の運転席で驚いたような顔をする男性と目が合う。
その場で
狙った道順じゃないからか、うまくスピードに乗れない。足元のエンジンを最大まで唸らせ、街を駆け下りながらとにかく加速する。
噛み締めた奥歯でラムネの欠片が砕けた。粗い粒が喉を流れていく。癇癪玉を投げる余裕も無い。
何とか最初のポイント、小学校に辿り着いた。装置は今回も屋上に設置してある。こないだは二宮金次郎像を踏み越えて直接飛んだが、今夜はその脇をすり抜けて校舎の奥へ向かう。
敷地内に建て増しをしたのか、二つの建物が二メートルも離れずに隣接している。ここは今まで通ったことがない。
シューズのエンジンを再びフルスロットルで回転させ、目まぐるしい速度で左右の壁を交互に蹴って飛び上がる。ダダダダダダ! と濡れた壁を荒々しく踏み抜く音が校舎に響いた。
「はは! すっげー気持ち良い!」
風を切り、高速エレベーター並の速度であっという間に五階相当に達する。動画でもアップしたことのない大技だ。一回やってみたかったんだ、これ。
すぐそこに迫る屋上の金網を掴もうと、手を伸ばしたその時――突如、シューズのエンジンがぴたりと止まった。
「え」
推進力を失った身体は、重力に従って自由落下を始める。意図しない不快な浮遊感で内臓がぞわりと震えた。
壁の何かを掴もうと伸ばす手は雨樋に弾かれ、加速をつけて真っ逆さまに落ちていく。
ヤバいヤバいヤバいマジで死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死――
咄嗟に三階辺りで壁を蹴り勢いを殺したが、為す術なくそのまま砂利の上に背中から叩き付けられた。
「ぐ……う……!」
全身に衝撃と、言葉にならない痛みが走る。息ができず、視界がチラチラと瞬いていた。目指していた屋上は高く遠く、曇天に聳えている。あそこから落ちたのか……。ぽつりぽつりと予報になかった雨粒が頬に当たる。
ようやく一息吸うと、脇腹と左腕に激しい痛みを覚えた。
「うぁ……いってぇ……!」
あまりに鮮烈な痛みに、虫のように悶えることしかできなかった。背中に刺さる砂利も勿論だが、これはヤバい奴だ。多分折れてる。
息をするのも辛いが、そろそろここを離れないともっとまずい。巡回と思しき懐中電灯の光が、慌ただしくこちらへ向かって来ていた。
「ああもう……」
身体を引き摺り、痛む腕を庇って火筒を拾い、何とか校舎を後にした。口の中にあったはずのラムネは、落下の衝撃でどこかへ飛んでいってしまった。
その日、街に花火はひとつも上がらなかった。
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