第15話

「なんで……」

 切られた通話画面にそう呟いて、じわりと浮かんだ涙が意地でも零れないよう、私は顔を顰めた。胸が苦しいのは、発作のせいだけではなさそうだった。重い喘鳴でひゅうひゅうと喉が鳴り、慌てて傍の引き出しから吸入薬を取り出した。瞳を閉じて咥え深呼吸すると、肺に薬が流れる代わりに目の端から涙が零れた。一度流れ始めたらもう止められなくて、私は薬を抱えて声を押し殺し、ベッドの上で泣いた。

 本当だったら、やめようだなんて言いたくなかった。私だけでなく彼も心血注いできた花火の打ち上げに『こんなこと』だなんて、絶対に言いたくはなかった。

 しかし心を引き裂かれるような思いをしてでも言わなければ、ジェットはその後の人生をなげうってでも目の前の道楽に身を委ねようとするだろう。私がその彼の怠惰に凭れかかってはいけないのだ。だって私と違って彼には、この後も続く未来があるのだから。

 それなのに、電話口で浴びせた言葉はジェットを非難するものしか出て来なくて、私の意図はこれっぽっちも伝わらなくて、結局仲違いという最悪の形で関係が切れてしまった。もう花火に携わることができないことより、かけがえのない大切な人を失ってしまったことの方がよほど悲しかった。ぽっかりと空いてしまった心の傷の深さに、心底驚きもした。

 思っていたより、私、ジェットと友達でいたかったみたい。

「う……あああ」

 止まれ、止まれと願っても涙は後から後から流れて、掌を、パジャマを濡らした。

 窓を叩く鈍色の雨が、今日はやけにうるさかった。



 どれくらいそうしていただろう。日が暮れかかっているのか、薄暗い空はさらに明度を落としていた。泣きすぎて頭に血が上ったのか頭痛がする。

 ふと壁時計を見ると、もう三時。気付けば五時間近く泣いていたらしい。我に返り、鼻を啜る。部屋に備え付けられたティッシュで盛大に鼻をかみ、そこでようやく気が付いた。

 そういえば今日、シーシャに会っていない。

 もう一度時計を見る。三時十一分を回ったところだ。いつもなら二時ぴったりに扉が開くはずなのに。実は昨日も彼女は来なかったのだが、お互い入院中の身なので検査が入ることもあるだろう、と深く考えないでいた。しかし来ないなら来ないで、気になってしまう。

「……『乗車』」

 鼻声で呼んだ電動車椅子は、部屋の隅からするすると滑るようにやってきた。病床の高さを調整して椅子の座面に合わせ、後ろ向きに腰掛けるように乗車する。お風呂とトイレ以外でこれに乗ることは稀だ。

 個室に完備された洗面所で顔を洗い、幾分かマシな顔になったところで部屋の戸を開けた。廊下には、配膳係が入室を躊躇ったのかワゴンに乗った食事が用意されていた。

 このまま誰とも会わないでいると、何だか孤独に押し潰されてしまいそうだった。

 感謝しなさいよシーシャ、今日は私が会いに行ってあげる。

 彼女の部屋がどの辺りなのか、おおよその見当はついている。私の部屋に来た時に、自分がどんな部屋にいるのか、そこから何が見えるのかよく教えてくれたからだ。車椅子を操作してエレベーターで降り、六階奥の個室へ向かう。

 部屋へ向かう途中、小児病棟らしく子供の声があちこちからしていた。カテーテルを引いて歩く幼稚園くらいの小さな女の子や、松葉杖をつく中学生くらいの男の子。ここでは様々な年代の子供達が病や怪我と向き合っている。本来であれば私もここの住人なのだけど、集中治療室に近い今の部屋の方が勝手が良い。それに、人との関わりは少ない方が良い。

 シーシャは寂しがるだろうから、誰かと相部屋にしたらいいのに。

 そこまで考えて、はたと立ち止まる。個室ということは、治療や緊急時に個別対応ができるように部屋を分けられた患者だということだ。ましてや彼女は一ヶ月前に別の病院から転院してきたばかり。その理由は、聞いたことがなかった。

「……っ」

 頭に浮かんだ嫌な予感を振り払い、車椅子を走らせる。濃い消毒液の臭いのするリノリウムの床の上を、音もなく進んでいく。

 大丈夫、大丈夫と言い聞かせ、廊下の奥が近付いた。大丈夫。あの部屋を覗けばきっと、いつもの彼女の笑顔が――

 そう、思っていた。でも忘れていた。私に『いつも通りの明日』なんて来ないことを。



 戸が開け放たれた個室に主はいなくて、二人の看護師がベッド脇に立っていた。一人はベッドシーツを新しいものに代えていて、もう一人は、部屋の荷物を鞄に詰めているところのようだった。シーツを敷き込んだ女性が、目の端の涙を拭う。

「……終末期、とは聞いていたけれど……本当に、あっという間だったわねえ」

「ええ……あんなに小さい子が……ご両親のことを思うとやりきれなくて……」

 そのやりとりだけで、私はこの部屋で何が起こったのかを理解した。荷物を片付けるのは、ベッドが空いたからだ。新たな患者のために、その場所を譲らないといけないから。いつか私にも来る、終わった後の光景。

 心臓が早鐘を打ち、少しずつ息が荒くなっていく。視界が白く瞬いて現実を受け入れまいとしていた。いやでも、ここがシーシャの部屋だっていう確証はない。きっと部屋を間違ったんだ。

 しかしあるものを見つけて、そんな淡い期待も打ち砕かれてしまった。ベッドサイドの小さな机に置かれていたのは……記名のない、算数のドリルだった。見覚えのある、『小学四年生』の文字――

「シー……シャ」

 口の中で呼んだ名前に、しかし応える者はいなかった。車椅子で後ずさり、暗い廊下に出る。突きつけられた事実に、これ以上耐えられなかった。蓋をしていた感情が、堰を切ったように溢れ出していく。もう、止められない。

「なんで……どうしてあの子が」

 死ななくちゃならないの。本当なら私が先のはずでしょ。あの子には夢があって、大人になるって夢があって……得意そうに水煙草を燻らせて、振り返って笑顔で迎えてくれて、それで、それで……。震える手で頭を抱えた。

 死は平等に訪れる。病の進行により遅い早いはあるけれど、それが必ず順番を守ってくれた試しなんてない。今までだってそんなこと、分かっていたはずなのに。だから、関わらないようにしてきたのに。

 シーシャはいなくなってしまった。もう「また明日」って言ってくれるあの子はいない。二度と、あの子のいる明日は来ない。ジェットにも電話を切られてしまった今、私は一人ぼっちに逆戻りしてしまった。

 私は……また、あの部屋に、ひとり……?

 嫌だ、怖い、嫌だ。慣れきっていたはずの、忘れ切っていたはずの孤独と死の恐怖が背中をなぞった気がして、私は車椅子の上で頭を抱えて蹲った。震えが止まらず、喉の奥の嗚咽を必死に押し留める。今叫び出したら、もう、そのまま気が狂ってしまうかもしれない。

 感情を抱えきれなくなった心臓が悲鳴を上げる。どくん、と大きく波打つように身体が揺れて、息ができなくなって、そのまま車椅子から崩れ落ちてしまった。痛い、苦しい……私はこのまま、死ぬの……?

 息を吸えも吐けもしないのに、鼓動は不規則に暴れている。酸欠に喘ぎ、胸を押さえ藻掻いた。冷たい床で見上げた部屋のネームプレートは白紙だった。視界が暗転する。


 最後まで、私がシーシャの本名を知ることはなかった。

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