第14話
土砂降りの音で目を覚ますと、既に時刻は午前十時を回っていた。いつの間にか眠っていたようだった。どうせ今日は授業がない日だ。大学生らしく惰眠を貪っても罰は当たらないだろう。
ベッドの脇のテーブルから、大量の郵便物が零れ落ちていた。無機質な文字が並ぶ広告やダイレクトメールは、すべて昨日回収したポストの中身だった。ゴミ箱に突っ込む気力も湧かなくて、こうしてただ積み上げられ崩れ落ち、床に散乱している。
その中に埋もれる封筒を横目で見遣る。ほぼ手付かずの紙類の中で、それだけは雑に封を開けられた跡があった。宛名には『桐島隼人様』とある。
樹の言う通り、俺にも届いていたのだ。就職決定通知書が。書類によると、俺は再来年の春にはこの近くの地方自治体の市役所で公務員として働くことになるようだ。ご丁寧に職場の住所と配属先の詳細が記載されている。末尾には『貴方と働く日を楽しみにしています!』と綴られていた。
「一ミリも楽しみじゃねえよこっちは……」
自分の行く先が決まったことに、何の感動もなかった。国のお偉いさん達は俺のどこを見て公務員に推したんだ、と馬鹿馬鹿しくなる。こんな自堕落に日々を貪る男に勤まるとは到底思えない。
一度就職すれば向こう四十年を超える長い長い時間を職場に捧げることになる。毎日同じところに通い、同じ仕事をして同じ時間に帰ってくる。既に三年目になる大学生活ですら飽きているのに、真っ当に社会人をやれる気が全くしなかった。
窓の外で雷がひとつ鳴って、一瞬薄暗い部屋を照らした。床の封筒を見なかったことにして、枕元に転がっている携帯に手を伸ばす。どうせ今日は外には出られないから、ネットの世界に意識を飛ばそうと決めた。のに。
五件の着信履歴の表示に眉を顰める。昨夜から三十分前にかけて連絡を寄越していたのは全部リリイだった。メッセージの方にも未読三件。大方、返信がないから直接連絡してきたのだろう。メンタル激重の彼女か。
渋々『何』とだけメッセージを送る。人と話したい気分ではなかった。
しかし送った一文字に一瞬で既読が付き、容赦なく電話がかかってきた。耳元に当てるのも億劫で、シーツの上に携帯を放り、スピーカーモードにして寝ながら通話ボタンを押した。
「……働けよ社会人」
「うるさいわね! 何回掛け直させるのよ」
「へいへい……で、お忙しい中お電話してきた敏腕社会人のリリイ様が何の用だよ」
「何か腹立つわね……」
俺の煽りに小さく咳払いをして、リリイは用件を語り出す。
「来週末、晴れの予報だけど行ける? って聞いたのよ。メッセージ見てないでしょ」
言う通り。全然見てないけど多分そういう連絡だろうと思って放っておいた。
「ああ、それな……」
とうとう彼女に伝えねばならない。今後の活動について。告げる前から既に腹の底が重たくなるような心持ちがして、気分が沈む。それでもどこかで伝えなければならない。どうするかはまた後で考えればいい。
なるべく平静を装い、さっきの調子を思い出しながら口を開く。
「花火さ、しばらく作れなくなるかも」
「……どういうこと?」
「材料を調達してるところが廃業になるらしくてな……ま、あと一回分はストックあるから行けるには行けるけど……何かまた別のところ探さないとな」
「そう……」
納得するような声を漏らすが、リリイの声は明らかに沈んでいた。それはそうだ。調達先について何の見当もついていない今、無期限の活動停止を告げるようなものだからだ。リリイは二の句を継げなかった。俺もそれ以上に状況を変える打開策が今のところ浮かばず、ただ十数秒間沈黙が流れた。
重たい空気を晴らそうと、馬鹿みたいに明るい声を出して話題を変える。
「あと話変わるけど、俺、市役所勤めになるらしいぜ。笑うよな、俺がだぞ?」
「……就職?」
「ほら、就職決定通知書だよ。お前も昔届いたんだろ? あれ来てさ」
リリイの反応は薄かったが、俺はそのまま話し続ける。
「はー、もう何もしたくねえよ。就職も何もかもかなぐり捨てて、ただ花火の打ち上げだけやりてえわ。わざと留年しよっかな」
我ながら良いアイデアのようにも思ったその言葉に、電話の向こうの空気が凍るのを感じた。深く溜息を吐く音がする。何か言ったか? 俺。
「何であんたは……選べるのに選ばないのよ……」
それはこれまでの調子とは明らかに違う、重く響く低い声だった。何か地の奥底から染み出すような圧に、少し怖気づきながらも問い返す。
「は?」
「何が留年よ! ふざけないで! 何でそんな贅沢が言えるわけ!?」
「何、急にどうしたんだよ」
凄い剣幕だった。戸惑う俺を置いて、リリイは激高する。
「あんたの前には、無限に広がってるじゃない! 手を伸ばせば何にでも届く未来が!」
突然の喧嘩腰に、思わず応じてしまう。
「広がってねえよ! 現にこうして法律とか世相とかに雁字搦めじゃねえか」
「生きて将来があるだけで贅沢だって言ってるの! こっちは――」
そこまで言ったところで、リリイは激しく咳き込んだ。気管に何か詰まらせでもしたのか、ゼイゼイと苦しそうな呼吸が聞こえる。
「もう、やめよう……こんなこと」
「やめるって、何をだよ」
「……花火、打ち上げるの」
荒い呼吸を繰り返しながら、彼女はぽつりと吐いた。苦しいのか何なのか、その声は震えていた。
「これ以上……ジェットの人生の足枷になんてなりたくないの……。私はもう、手伝わないから。感謝して残りの人生を……生きると良いわ、贅沢者」
「意味分かんねえ! 急に何なんだよ! ……そうか、お前がやりたくなくなったんだろ!」
何が贅沢者だ。爺ちゃんの葛藤も、職人達の無念も、それを見ることしかできない俺の無力感もお前には分からない癖に。
「手伝うの嫌ならそう言えよ……もう俺ひとりでやるから」
電話口から何か言っているのが聞こえたが、俺は返事を聞く前に電話を切った。
急に静かになった部屋に、雨が窓を叩く音だけが響く。
「くそ! 何だよリリイの奴……!」
やり場のない怒りに任せて携帯を宙に投げ捨てると、壁に当たって跳ねたそれは部屋の隅に転がる火筒にぶつかった。
打ち上げのことを、リリイだけは勝手に理解してくれていると思っていた。それが……実際はどうだ。のめり込んでたのは俺だけで、あいつは本当は嫌々やってたんだろう。今更捕まるのが怖くなったのかよ。そんなもんお互い承知済みのはずだったろ。
ひとしきりベッドの上で怒りを叫び、治まらず、俺はそのままふて寝することにした。雨の音が責め立てるリリイの声と重なり余計に煩わしくて、布団代わりのタオルケットを頭から被った。
捨てた携帯は振り返らなかった。
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