第8話

 病室の扉が控えめに開いたとき、私は新たな道順ルート選定のためパソコンを開いてうんうん唸っているところだった。扉に手を掛けた人物は私のそんな様子を伺ってか、いつまでも入室を渋っているようだ。

 壁の時計を見れば、午後二時ちょうど。本当、いつも時間通りね。おどおどとした視線に溜息を吐いて、私はパソコンを閉じる。

「……シーシャ、入るなら入ってきなさいよ」

 言い終わらないうちに白い引き戸が開かれた。戸の向こうで待っていた電動車椅子の少女は、ぱっと笑顔を咲かせ急いで部屋に入ってきた。痩せたピンクのパジャマの少女。ニット帽から溢れる茶色の人工毛が、肩口で可憐に揺れる。

「百合也ちゃん、おはよお」

「……もう昼よ」

「そうかなあ、うん。そうかも」

 そう言って彼女はにへら、と笑う。その無垢な笑みに、細かいことを追求する意欲を削がれてしまうのもまた、いつものことだった。

「今日は調子良さそうだねえ」

「ええそうね。シーシャも」

「こないだの検査、前回より数値良かったからねえ。シーシャだいまんぞく」

 えっへん、と誇らしげに胸を張るシーシャ。小学生らしいその様子に、何だか私まで笑ってしまった。



 シーシャは小児がん患者だ。いくつかの病院を転々として、この病院に来たのが一ヶ月ほど前。私と違って頻繁に両親が見舞いに来ているようだが、それでも十歳の少女はまだ、病気と闘うたったひとりの時間に耐えきるだけの精神は持ち合わせていないようだった。

 そんな時、看護師の誰かから私の話を聞いたらしい彼女は、電動車椅子を走らせて一目散に私の部屋にやってきた。

 長期間入院している患者の中でも年頃の近い私は、彼女の目には孤独の時間を生き抜いてきた大先輩か生存者サバイバーとでも映ったのかもしれない。隙を見つけては、目を輝かせて話をしに来るのだ。

 大げさだ。ただ十七年間死に損なっているだけなのに。

 だから最初は来訪を突っぱねていた。私の持っている時間は全部花火に注ぎ込みたいし、小学生の女の子と何を話すことがあるのかとも思うし……それでもシーシャは気付けば毎日戸口に立っていた。

 何度断っても来る彼女に痺れを切らし、私は『来るのは午後二時から二時間だけ』という条件を付けた。その約束を馬鹿正直に守り、シーシャは今日も二時ぴったりに訪れたというわけだ。

「今日はねえ、こんなのを持ってきました」

 彼女は車椅子の背中に隠していたドリルを取り出した。『小学四年生 算数』の四角い文字が大きく踊っている。またか、と私は額に手をついた。院内学校から課された宿題で分からない所があると、シーシャは決まってここに持ってくるのだ。私は家庭教師になった覚えはないけれど。

「持ってきました、っていうか宿題じゃない……」

「うんそう。シーシャ、今日は小数の筆算がわかんないの……百合也ちゃんに聞けばらくしょう!」

「他力本願もいいとこじゃない……どの問題よ、見せなさい」

 器用に片手で車椅子を操作し、シーシャはベッドの傍までやってきた。私と同じ、消毒液の臭いがふわりと漂った。

 閉じたパソコンを脇の机に押しやり、小さな手が差し出すドリルを受け取る。『ここが宿題』と目印にメモが挟まれたページを開くと、小数の足し算と引き算の数式が手付かずで整然と並んでいた。

 私は横目で軽く睨んで、溜息を吐く。

「真っ白じゃない……さてはあんた、自分で解く前に持ってきたわね」

「バレた? だってえ、答え聞くほうが早いじゃん」

 彼女はどこ吹く風で髪の毛をいじっている。こんな小さなうちから楽することを覚えてたら、碌な大人にならないわよ。

「そんなんじゃ宿題の意味ないじゃないの。ほら、鉛筆貸して。この問題はね……」

 シーシャの膝の上に乗るペンケースから削りたての鉛筆を一本奪い、邪魔な髪を耳に掛けた私はまっさらなドリルに向き合った。筆算の読み方、位を跨いだ数字の計算方法など、順を追って小さな子にも分かるように解説する。

 当の少女はというと、ベッドの柵に甘えるように凭れかかり、分かっているのか分かっていないのかよく分からない相槌を打ちながら私の顔と手元を交互に見ていた。遮光窓で調光された日差しがやわらかくシーシャを照らしている。その横顔は、何だかとても楽しそうだった。

「……こんな感じ。理解した?」

「すごおい! 百合也ちゃんは美人なうえに天才だねえ!」

「現役高校生を舐めないでほしいわね……さあシーシャ、今度は自分で解いてみなさい」

「うげえ」

 ドリルと鉛筆を返すと一転して彼女は苦い顔をして受け取った。膝の上でドリルを開き、たった今教えた問題の隣の数式に取り掛かり始める。拙い文字が新しく紙の上に生まれていくのを、私は静かな心で見守っていた。

 もし私に年の離れた妹がいたらこんな感じなのかもしれない、と思い、すぐに頭を振る。まったく、いつから私はこんなにお人好しになったのかしらね。

 ジェットと花火を上げることになってから、ほんの少しだけ他人に対して優しくなれている自分に驚いてもいた。人と関わることに、私自身が慣れ始めているのかもしれなかった。それまでは本当に、医師も看護師も来ない両親もすべての人間に対して不満の捌け口でしかなかったから、こんな穏やかな時間の中に身を置くことになるなんて、去年の秋までは想像もできなかった。

 シーシャとの会話もまた私の日常になりつつあることに、呆れながらも笑うしかなかった。


 そうね。これも私の世界の一部分だ。 

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