第3章 百合也の世界

第5話

 通話を終えると、我慢していた咳が込み上げてくる。ああ、やだな。天気が崩れる前は決まって調子が悪くなる。

 白いベッドの上で胸を押さえ、身体を折り畳む様にうずくまる。最後にいつ切ったかもう覚えていない色素の薄い長い髪が薄水色のネグリジェの肩から零れて、さらさらとシーツに降りかかった。

 いくつか咳き込んで、呼吸を整える。もういつから使っているのか分からない、いつもの吸入器を傍の引き出しから取り出して咥える。

 すー、はー。

 深呼吸と共に薬が肺に流れ込み、いくらか胸の苦しさが和らいだ。この薬で落ち着いている間は、まだ元気な証拠。使う薬が健康のバロメーターになっている辺り、病院生活が板に付いている感じがする。本当、嫌だ。

 吸入器を元通りに仕舞い、スイッチを操作してベッドの背を平らに戻す。窓の向こうの海がゆっくりと遠ざかり、視界一杯に空が広がった。無機質な窓ガラスには、私の白い顔が顰め面をして映っている。

 清潔な掛け布団を手繰り寄せ、私は何度目かの溜息を吐いた。

 これだけ医療が発達しても、この不自由さはどうしようもない。まったく、人間が病気にならないよう進化しなかったせいだ。

 白い腕に無数に開いた注射痕を見つめ、あったかもしれない未来を夢想する。

 年頃の少女のように、高校に通ってみたかった。友達と与太話に花を咲かせて、一緒に帰ってみたかった。好きなところに、自分の足で歩いて行ってみたかった。

 神様はそんな些細な願いも叶えてくれない。私には身分不相応とでも言うのだろうか。

 実際のところ、高校は通信制で一度も通学した事がないし、自分の足で歩いた回数なんて片手で数える方が早い。

 両足で地面に立ち、一歩ずつ前に進む。そんな二歳児にもできる事が、私にはできない。

 生まれつきの疾患が十七年間、私をベッドに縛り続けている。

 移動は専ら電動車椅子。でも病院の外へは出られない。たとえ出られたとしても、薬の投与がなければ二日と生きていられない。風邪なんて引けば命取り。体力もないから、日差しを浴びるだけでクラクラする。

 だからこうして、無菌状態で空調完備、紫外線対策にも余念がない病室の住人でいるしかないのだ。


 ここが私の世界。

 ここだけが、私の世界。

 そう思ってた。あの動画に出会うまでは――



 ◆



百合也ゆりやちゃんって、花火見たことある?」

 ひとつ前の秋。血圧のモニターを見て手元にメモを記しながら、看護師の桜田さんは聞いた。ベッドに横になり、いくつもの機械に繋がれた私は怪訝そうに目を細めた。これはいいえ、の合図。人工呼吸器を付けていて喋れないからだ。

 少し濃い化粧の顔をふっと弛め、桜田さんは続ける。

「そっか……私もね、小さい頃に見たきりなの。でもね、凄いのよ。音と光が空から降ってくるの。今でも覚えてるなあ」

 多分彼女がそんな話をするのは、私が退屈しているとでも思っているからだろう。それか憐れんでいるのかもしれない。こうして口が利けなくなるような発作はもう日常茶飯事だから、パパもママも今更面会になんて来ない。見舞いに来るような友達なんていない。病院内にも友達を作ってみたことはあったが、誰も彼も退院して皆私の事を置いていった。だからか、この中堅看護師は暇な時間を見つけては、私の個室に入り浸り思い出話や病院の外の話を聞かせた。

 それが羨ましくもあり、ただ眩しすぎるのもあり。一言で言うと少し疎ましい。特に今みたいに最高に体調不良の時なんかは邪険に追い払いたいくらいだった。

 けれど身体は動かない。火照る身体と胸の苦しさ、何本ものチューブと測定機器が私をベッドに縫い付けている。

「それでね……この間これ、動画サイトで見つけたの。見て見て」

 私の思いをよそに、桜田さんはポケットから携帯端末を取り出して私の顔の前に画面を向けた。観たくなかろうと、首が動かないので強制的に両眼は画面を見つめることになる。

 真夜中の空に視点が固定されたそれは、一見するとのっぺりと暗い画面を見せられているようでもあった。カメラの暗視機能が弱いのか、星も見えない。

「見ててね……あ、ほら。上がった」

 ひゅるるるる、と頼りない口笛のような音を立て、画面の中心に向かって煙が上がる。次の瞬間、画角に収まらないほどの光の花が咲いた。無数の黄金色の光が、空一杯に尾を引いて球体を描く。遅れて爆音が響いたと思うと、あっという間に光は夜空に吸い込まれて消えていった。

「ね! 綺麗でしょう?」

 桜田さんは楽しそうだ。私が物珍しいと思うと思ったのか、淡々と花火が上がっては消えていくだけの動画をそのまま流し続けた。

 画面に視点を固定しながらも、私は馬鹿馬鹿しい、とすら思っていた。動画タイトルは『記録映像 花火(十五)』。記録映像ということは、二十年前の娯楽産業規制法が施行される前に文化保護のため残された映像だ。しかし動画のアップロード日は先週。そして二十年前に撮影した映像にしては、画質が綺麗すぎる。

 つまり何が言いたいかというと、これは法の目を掻い潜って最近違法に打ち上げられた花火とその映像ということになる。大人がこんな映像を見てるなんて、桜田さんはどうかしてるんじゃないだろうか。そんな懸念を視線に込めて睨め付けるが、彼女はどこ吹く風で動画を流し続けている。

 タイトル末尾の数字は十五本目の動画、ということだろうか。この投稿者はこんな動画を十五本もせっせと拵えてアップしているのか。誰が見ているとも分からないのに。

 一連の打ち上げ映像が終わると、桜田さんは看護服のポケットに端末を仕舞い、悪戯っぽく笑った。

「ね、綺麗だったでしょう? 百合也ちゃんは、子供扱いするなって思うかもしれないけど……でも、楽しみだって思える何かがあると、きっと明日が来るのが待ち遠しくなるから。元気になったらまた一緒に観ようね」

 点滴の残量を確認し、彼女はそれだけ言って病室を後にした。

 静かになった病室に、血圧モニターの無機質な電子音だけが響く。

 その通りだ。子供扱いしないでほしい。未成年の子供には、豊かな情緒の育成に必要なんだとかでいくら娯楽に触れさせようと構わないことになっている。

 自分が見たいから、子供の私を免罪符に見せて来たんじゃないかとも思った。本当、大人って嫌。でも子供扱いされるのはもっと嫌。だから早く大人になりたい。でも未来に希望なんてない。どうせここからは出られないのだ。

 微かに動く指で、シーツに爪を立てる。

 出られないのに……待ち遠しい明日なんて来ないのに……夢なんて見させようとしないでよ……。

 濡れた溜息でマスクが白く曇る。少しだけ滲んだ視界を消すように、無理やり目を瞑って眠ることにした。

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