その1.心躍るストーリー

 はい、まずこれです。何と言ってもこれなんです。


 もうね、4月の初演版を聴いた時から衝撃を受けっぱなしなんですよ。


 脚本を執筆されたうるう氏は、現役の演劇人。


 私ごときが脚本やストーリーの凄さを語るのは非常に烏滸おこがましいのですが、やはり心震える物語のことを書きたくて仕方がないのです。




【語ることなく世界観を表現していて凄すぎる】

 物語が進行する上で、世界観を読者や鑑賞者に説明するのは、とても難しいことだと思っています。私はカクヨムで小説形式の作品を書いていますが、未だに現代ではない世界を舞台に作品を書くことが苦手です。


 ましてや、声劇は全て演者の台詞と、効果音だけで表現される世界。どんな風に組み立てていけばいいのか、想像もつきません。


 本作を視聴した方は「産業革命が起こる前の中世ヨーロッパ」のようなファンタジー世界をイメージしたのではないかと思います。


 歌姫の伝統に対する父親の考え方。


 神に感謝を捧げる村の祭事。


 祭事が中断された際の村人たちの対応。


 馬車。


 医者が処方するのが薬草など。


 私が発見できた物語世界を表現する要素はこれくらいですが、これらがしっかりと世界観にハマっているからこそ、違和感なく作品を楽しめているのだと思います。


 自分が生きている訳でもない時代、旅行したこともない国の生活や文化、そこで生きる人たちの様子を詳細まで書ける人はほとんどいないはずです。


 特に異世界を舞台とした物語であれば、背景に映るちょっとした異物や言動の矛盾で、世界観が崩壊しかねません。


 分かりやすく言えば、日本の時代劇で懐中電灯を持ちながら討ち入りをする武士が出てきたら、もうそれは筋の通った作品として見られなくなってしまいます。


 『スター・ウォーズ』のようなSF世界に、現代と同じファッションのキャラクターが登場したら、一気に白けてしまいます。


 では、例えばですが、高度経済成長期の日本を舞台にした作品を書くと想定した場合、登場人物がお店で飲み物を買うとして、ペットボトル飲料を買うでしょうか?


 もし、反射的にペットボトルのお茶やジュースを連想した人は、残念ながら間違いです。日本でペットボトルが使用され始めたのは、戦後32年も経った1977年。飲料用として使われ始めたのは、更に5年後の1982年からです。


 対して、日本の高度成長期と呼ばれる時代は、一般的には1955年から1973年頃とされています。


 こういったちょっとした要素でさえ、物語世界に説得力を持たせてくれる大切な舞台装置の役割を果たしています。


 時代劇や、昭和中期以前を舞台にした多くの作品が、時代考証という面で多くの指摘を受ける理由は、こういった部分にあると私は思っています。




【完璧すぎるミスリード】

 視聴済みの方はみんな驚いたと思うし、私もひっくり返るくらいびっくりした、作品中盤のどんでん返し。問題の場面は言うまでもなく、歌姫・モニアが少女ではなく、少年であるということが明かされる場面です。


 初見でこの仕掛けが明かされた時、私は「やられた!」と声に出ました。


 「村の歌姫」というキーワード、演者も女性。これらの要素によって、完全にモニアを女の子だと思い込んでいました。


 でも、そう。伏線はしっかり張られていました。


 魔女の家での回想シーンまで、モニアの一人称が出でこないんですよ。対するハルの方は、最初から「私」と言い続けているのに。


 更に深読みをすると、うまなみ氏演じる父親が「歌姫は長女が務めるもの」という伝統を語る場面。確かに双子と言えど、出産の時に出てきた順番があるので、長女・次女の区別はあるでしょう。私は直感的にそう思い込みました。


 前提を間違えた、というやつです。そもそもハルが長女で、モニアが長男だったんですから。


 また、音楽の都の診療所でのやり取りなど、モニアを一目見て「女の子」だと思わせる演出もあり、ここまで提示された登場人物の情報を疑う気すら起きません。


 しかし、森で出会った魔女の一言で、この前提が全てひっくり返されるわけです。その衝撃は、視聴した方なら言うまでもないでしょう。


 ミスリードを誘うのは物語の王道ではありますが、こんなに綺麗に引っ掛けられると、もはや清々しさすらありました。




【子どもと大人の見事な対比】

 本作の物語が持っているテーマ性は、極めて普遍的なものだと感じています。普遍的だからこそ、誰もが没入し、夢中になれた作品だったのではないかと思います。。


 それは「子どもから大人になること」だと、私は感じました。


 モニアが「声変わり」という現実に直面して感じた、自分が要らない存在になってしまうのでは、もうこれまでのように歌えなくなってしまうのでは……、という未知数の恐怖は、形や対象を変えて、全ての人間が経験すると言っていいかも知れません。変化は人間を自ずと臆病にさせます。


 また、作中の描写をかんがみても、男性の歌姫というのが異例であったことがうかがえます。高い声が出なくなった歌姫の処遇など、決められていなかったことでしょう。


 上に挙げた「大人になるに連れて変わっていくこと」が、彼にとっては存在自体の否定=自分の世界の崩壊と直結していたんです。


 魔女の家で、ようやく本音が言えた時の安堵感はいかばかりか。その恐怖の真っ只中にいたからこそ、モニアの台詞である「大人になんてなりたくなかった」という言葉が、痛いほど私には響きました。


 ちなみに、初演版でも、再演版でも、私はここで涙腺が決壊しました。早い話がめちゃくちゃ泣きました。スマホ片手に涙と鼻水が止まらない成人男性の完成です。文字に起こすと一気に怪しくなるのはなぜでしょう。


 しかし、ここで登場するのが魔女です。彼女の姿は「変化を受け入れ、変化を楽しむ」という、大人の理想像のひとつであると私は感じました。


 実際、大人になると仕事で大変そうだな……、と思っていた人の中にも、大人だからこそ楽しいということはたくさんあるんじゃないかと思います。


 本作に登場する魔女は、かつてダンスをしたり、ガーデニングをしたり、蜂蜜しか食べない時期があったりと、300年の人生の中で様々なことを楽しんできました。


 自分の見た目も、趣味も移ろっていく。それらを前向きに捉えて、「いま、ここ」を最高にエンジョイしていた魔女。その経験があるからこそ、変化を前に恐れるモニアにとっては、非常に心強い存在に映ったと思います。


 モニアの本心、それを知ったハルとの和解、そして子どもの自分とお別れをする勇気を、大人である魔女が与える。この一連のやり取りと見事な対比が、魔女の家の場面には凝縮されていたと感じました。




【再演時に追加されたエンディング】

 7月22日にこのエンディングを聞いた時、「そう来たかー!」と思いました。というか声に出ました。私は声に出さないと気が済まない性分らしいです。


 冒頭で登場したshibu氏演じるストーリーテラーがおらず、更に『Con:Fine』という本も存在しないとは!


 このエンディングを聞いて真っ先に思い浮かんだのは、私が敬愛してやまないミヒャエル・エンデのファンタジー作品『はてしない物語』でした。


 詳細は割愛しますが、『はてしない物語』でも別世界への入り口として「本」が登場します。しかし、主人公が別世界から現実世界へ帰還した時、本は跡形もなく消えてしまうのです。


 『Con:Fine』でも同様でした。最初から本が存在しなかったことになっている。これについては、かつての自分の読書体験と大いに重なることもありビリビリに痺れました。


 締め方がオシャレ……!


 そして前回はなかったエンドロール後のエピローグ……!


 まさに映画の最後の最後で、短い後日談が挿入されるようないきな幕引き……!


 ただでさえ鷲掴みにされていた私のハートは、このエンディングで見事に粉砕されました。もちろん、めちゃくちゃいい意味で、です。

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