邂逅、後修行

 喉がずっとひりひりして、乾き続けている感覚に苦しみながら、家に帰ろうとしていた、その時、ざぁっと風が吹き、後ろで結んでいる髪が巻き上げられて、視界を塞いできた。

 首を振って髪の毛を振り払おうとした時、耳元で、ヒュッ。と、鋭い風切り音が鳴った。瞬間、じくじくと頬に熱い痛みが広がり、ぬるりとした血が制服を濡らした。腰が抜けて、どさっと音を立ててその場にへたり込む。振り返ると、夜の色に紛れて、真っ黒な化け物がそこにいた。

 ――真っ黒な化け物が、人間を食う。

 クラスの男子が話していた事を、思い出す。恐怖で全身が強ばって、声も出ない。下半身に、嫌な暖かさが広がる。

 それでも、化け物はじりじりと近寄ってくる。怖い、怖くてたまらない。でも、逃げられない。

 喋ることを忘れたように、ぱくぱくと開かれた口からは、僅かに空気が漏れただけ。それでも、何とか捻り出した微かな、助けて。の声は、闇夜に消えていった。

 ……でも、その声は、ただ消える事は無かった。

 全てを諦めようとしたその時、目の前の化け物の体に、銀色の線が走った。そのまま、ずるりと上半身が滑り、どしゃっと重い音を立てて、地面に落ちた。

 黒い煙に変わる化け物の背に立っていたのは、おばあちゃんだった。

「まったく、世話が焼ける」

 おばあちゃんは言いながら、私の手を取って、ぐっと引っ張りあげてくれる。

「ひとまず、家に帰るよ。後で親御さんに連絡するから、今日は泊まっていきな。話は後でいいね?」

 おばあちゃんの言うことに、私はただ頷く事しか出来なかった。

 家の電話番号を伝えると、おばあちゃんは問答無用で私の服を剥ぎ取り、風呂に投げ込んだ。

「親御さんには、友達の家に泊まってるって言っといたよ。洗濯しとくから、明日は家から学校に行きな」

 おばあちゃんにありがとうと告げて、血の固まった頬を撫でる。まだ少し痛んでいる頬が、まだ私が生きている事と、あれが本当に起きた出来事だったと教えてくれる。

 固まった血をなるべくうるかして流して、しっかり体を洗って風呂を出る。脱衣所には少し大きい着物が置いてあったけど、帯の結び方がわからないので適当に羽織って、おばあちゃんの所に行く。

「なんだい、その程度結べないと嫁さんに行けないよ」

 舶来の文化で、普段目にすることもほぼ無いのに結べって無理難題すぎない? おばあちゃん。

「あたしは料理も掃除もまったく出来ないばばだけどね、着物の帯だけはすぐに結び方を覚えたんだよ。なんでか分かるかい? そう、可愛いからさ」

 知らんがな。

 おばあちゃんは、少し痛いくらいにキツく帯を締めてくれた。それから、頬にガーゼと軟膏を塗って、来客用の布団を引っ張り出してきた。

「しばらく客なんて来てないから、押し入れ臭いのは我慢しとくれ」

 居間に敷かれた布団は暖かくて、おばあちゃんのいい匂いがした。

 ピピーッと、洗濯が終わった音がなり、おばあちゃんは綺麗になった私の制服を干し始める。いつの間にか、おばあちゃんも着物に着替えて、布団を並べてきた。

「さて、寝るかや」

 ……ねえおばあちゃん。

「んー、なんだい?」

 私、強くなりたい。

「……何を言ってんだ、嬢ちゃん」

 私、大好きな漫画があるの。それの主人公みたいになりたいって、昔から思っていた。どんな時でも、たった一人で、誰にも知られず悪と戦う、かっこいい主人公に。それに、おばあちゃんみたいにも。

「別にあんたは、それ以外に理由は無いだろう。今回襲われて、怖くって。それだけじゃ理由にならないよ」

 それでも、強くなりたいの。助けを求める誰かを助けられるくらいに。

「……50点」

 えっ?

「その答えじゃ50点だ。強さの意味、戦う意味。そして、理由。これを見つけなきゃ、あんたは変わることは出来ないよ」

 ……

「少しだけなら、稽古をつけてやる。勉強も面倒見てやる。だから、その稽古の中で百点の答えを見つけな。話はそれからだ」

 ……うん!

「んじゃ、明日は朝四時に起きるんだよ」

 うん! ……えっ、朝四時!?

「大して早くないだろ、ばばがいつも起きる時間だ」

 うへぇ……

 話が終わると、おばあちゃんはすぐに寝息を立てて眠り始めた。

 隣で眠るおばあちゃんを見ながら、おばあちゃんの言う百点の答えは何かを考える。けど、皆目見当もつかない。

 悶々としながら天井のシミを数えていると、外がだんだんと白み始めた。

 結局一睡も出来ず、しょうがないと起きようとすると、顔面をぶにっとした何かが踏みつけてきた。

 胸元に移動したそれは、

「にゃ」

 と、相変わらず愛想の無い短い鳴き声をあげて、早く起きれと頬をぺちぺちと叩いてくる。痛い痛いと起き上がると、猫は私の袖を引っ張って、どこかに連れていこうとする。

 時計を見ると、まだ三時半。おばあちゃんは起きていないので、静かに立ち上がって、ついて行く。

 居間を出て、おばあちゃんの部屋にこっそりと忍び込む。バレたら、めっちゃ怒られるだろうな。

 そう思いながらも、猫が指し示す先にあるものに、手が伸びていた。おばあちゃんの持っていた、あの剣だ。手に取ると、微かにとくんとくんと鼓動する音が聞こえる。見よう見まねで鞘から剣を抜くと、僅かな朝日が反射して、痛いくらいに眩しい刀身には多くの傷があった。

 じっとそれを眺めて、惚けていると、猫は一冊のノートを持ち出してきた。

 私がそれを受け取って、見ようとしたその時、

「何やってんだい、あんたたち」

 背後から現れたおばあちゃんがノートを奪い取り、結局中身を見ることは出来ずじまい。そのまま稽古を始めるまでみっちり叱られた。

 そして、剣も回収されて、庭に出ると、あんたはまずこれからだ。そう言って一本の棒を渡してきた。

「まずは体を作るよ。毎日素振りを限界まで。それからしっかり飯を食べて、ダッシュで学校に行く。まずはそれだけ」

 おばあちゃんは剣の握り方、構え方を教えながら、そう言った。それから、

「一、二、三。このリズムで、ひたすら同じ動きを繰り返す。動きは最低限でよし」

 刺突、袈裟斬り、横なぎ。その後、素早く構え直して逆袈裟、くるりと剣を回して持ち替えての柄打ち、逆手での逆袈裟。

 見ている分には簡単に思えた。しかし、実際やってみると全く上手くいかない。

「きっちり出来るようになるまで飯は抜きだよ」

 やったぁ。頑張って終わらせて自分でご飯作ろっと。

「細切れにするぞクソガキ」

 二人で楽しく罵りあいながら、少しずつ動きがわかってきた。おばあちゃんがやっていたものを、ゆっくり分解すれば、特段難しい訳でもない。刺す、斬る、持ち直してまた斬る。出来るようになると、どんどん加速して、楽しくなってくる。

「次はこの動きも加えな」

 おばあちゃんが見本と共に動きのおかわりをしてくる。その動きを取り入れながら、素振りを続ける。

 終わった頃には、汗がぼたぼた息がぜえぜえ。飯を作ることも無理そうなくらいに体が疲れていた。

「はしゃぎすぎだよ、まったく。じゃ、精神修養の一環として私の飯を食ってもらおうかね」

 酷い! 虐待だ!

「おーおーなんとでも言いなさいな。ちなみにあたしはトーストを焦がさず作れるのは一週間に二回くらいだからね、覚悟しろ」

 鬼! 悪魔! 鬼ばば!

「シャワー入って着替えときなー」

 シャワーを浴びて、着替えを済ますと、美味しそうな朝食が並んでいた。見た目は。

「大丈夫、変なもんは入れてないはず」

 はずって何?

 ……恐る恐る、口をつける。なんてことだ、美味しい。

 荷物も取りに行かないといけないので、一旦家に帰ることにした。その時に、毎日ちゃんと素振りしなさいと、さっきの棒を渡してきた。

 家に帰ると、これから仕事に行くというお母さんと鉢合わせた。かくかくしかじかと説明すると、

「ならそのばあちゃんに会えない日はうちの訓練所でやんなさい。護身術にもなるし」

 と、お母さんは私を鍛える気満々の答えをくれた。剣術はやったことないわねーなんていいながら、おっそろしい速度で棒を振り回し、笑うお母さんに少し恐怖を覚えながら、その日は走って学校に向かった。

 それから楽しい楽しい、地獄の修行の毎日が続いた。

 朝は三時に叩き起されて、素振りと筋トレ。学校には走って向かい、放課後はおばあちゃんの家で技を教えてもらったり、お勉強をしたり。

 おばあちゃんが用事でいない時や、土日はお母さんの所で格闘技を習い、痛みにも慣れとけと大人の男の人と殴り合いをさせられた。

 おかげさまでメキメキと体力が付き、成績も優秀になったが、急成長しすぎて先生に心配された。

 鍛えられたのは、肉体だけじゃなかった。

「今日は座禅を組んでもらうよ」

 座禅?

「東の国々の坊さんがやってる修行でね、足を組んで座って、じっと何も考えず、ひたすらに瞑想するんだ」

 ふむふむ。

「あんたは最近、身体も鍛えられたし、痛みにも強くなった。けどね、心が弱けりゃ全部台無しだ。だから、何があってもへこたれないように強い心を作るのさ」

 そういいながら、とっととやれと剣でつついてくる。言われるままに足を組んで座り、呼吸を整えて、目を瞑る。

「んじゃ、今から何をされてもじっと耐えるんだよ」

 そういいながら、おばあちゃんはまず組んだ足の上に猫を置いてきた。これはまだ耐えられる。次に、頭の上に本や色んなものを載せてくる。これも、まだ。

 意外と余裕かも? なんて考えていると、頬にぴっと冷たい、嫌な感覚が走る。途端に、頭にあの日の光景がフラッシュバックする。黒い化け物に襲われた、あの日のこと。

 びくっと体が跳ねて、頭の上の本がどさどさと落ちてくる。

「はいやりなおし」

 おばあちゃんの手には、細長い氷が握られていた。

 それから、棒で殴られたり、水をかけられたり、色々と心を揺さぶってきた。普通につらい。

 でも、しばらくすると、この座禅を組んでいる意味がわかってきた。何も考えようとせず、何も感じようとしない。心を鎮めて、呼吸を整える――

「――もういい、やめな」

 げしっと上半身を蹴り倒されて、ようやく戻ってきた。どれほど経ったか聞くと、なんと一時間も瞑想を続けていたらしい。何をしても反応が無いので、途中からお菓子を作りに行っていたようだ。

「ほら、クッキーでも食べな」

 このおばあちゃん、メシマズなのにお菓子作りは上手なんだよな……ふっしぎー。

 さくさくとクッキーを頬張り、夏休みの計画を立てる。

「夏休みはうちに泊まりな。んで、一週間に二回あんたの母さんとこで鍛えてきな」

 何でだろう、すごく嫌な予感がする。

 夏休みが始まるまでの一週間は、準備の時間と、日頃のオーバーワークの疲れを取るための休みに充てられた。ゆっくり本を読みながら、何をするんだろうなーと、恐ろしい考えが浮かんできて、この時ばかりは自分の妄想癖を恨んだ。

 夏休みの修行は、それはそれは恐ろしいものだった。

 知り合いの鍛冶師に作らせたという、刃の付いた本物の剣でおばあちゃんと本気で打ち合いをし、負ければ素振りを千回の後おばあちゃんのご飯を吐くまで食べさせられるという、虐待を通り越して死刑にも等しい修行をさせられた。

 加減はしてくれているのに、それでも毎日生傷が絶えなかった。運良く勝てた時に、自分で作る料理だけが唯一の救いだった。

 そして、お母さんの方も地獄だった。様々な武器を持った男複数人相手に、素手で戦って勝てという無茶振りを押し付けられ、二人とか三人は倒せても残りにボコボコにされた。

 相手の役の人たちは本当に情け容赦が無く、おばあちゃんとの修行で出来た切り傷を執拗に狙ってくるせいで傷が広がりまくった。

 そんな過激なトレーニングは、夏休み終了一週間前でようやく終わった。傷を癒し、ゆっくり休むことも大事だとおばあちゃんとお母さんと一緒に温泉旅行に行って、ようやく長い地獄が終わった。

 それが一年目。二年、三年と続くとより酷くなっていったが、私は何とか耐えた。

 そして、高等校へ進学が決まり、次のステップは友達作りと言われた。そう、何を隠そう私に友達はほぼいないのだ。

 元々一人でずっと本を読むことしかやることが無かったし、修行が始まってからより友達を作る機会が無くなった。

 友達作りなんて、何をすればいいんだろうか……そう考えて、まだ慣れない通学路を走っていると、

「やめてください!」

 と、誰かの声が聞こえた。

 声の方向に向かうと、同じ制服を着た女の子が、強面の男四人に囲まれていた。

「黙ってついてこい! 痛い思いはしたくねぇだろ!?」

「悪い気にはさせねぇからよ!」

「ぐへへへへへ」

「女だ女だ! 久しぶりのかわい子ちゃんだァ!」

 女の子は怯えた小動物のようにぷるぷる震えていた。よし、あのチンピラはボコそう。

 一番背の大きい男の背後に近づいて、足払いで脛を刈り取る。そのまま倒れてきた頭をキャッチし、振り回して他の三人をまとめて吹き飛ばす。私、強くなったんだなぁ。

 女の子の方に振り返り、大丈夫? と声をかける。女の子は、泣きながら

「ありがとうございます……!」

 と、何度も感謝をしてくれた。それから少し話してみると、この子もあの漫画が好きなのだという。センと名乗る彼女と、私たち二人はすっかり意気投合し、友達となった。

 それからと言うもの、ちょくちょくヤンキーやチンピラが学校に来るようになった。お相手は丁寧にも私を指名してくるので、毎度のように吹き飛ばしては、学校のみんなに感謝された。

 いつしか、趣味の合う友達や、私のファンクラブが出来ていた。あれ、なんか違うような気がする。

 ちなみに、この頃にはおばあちゃんに帯刀を許されて、学校にも許可されたので常に腰に剣を帯びて、暇な時やお昼休みの時には素振りをするようになった。

 さて、そんなこんなで私は長い修行を経て、とても強くなった。友達も出来た。でも、おばあちゃんの言う百点満点の答えは見つからないし、結局あの黒い化け物の事を何も教えてもらっていない。

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