第九話 声

帝国歴 5469年8月28日午後17時26分 


ゼクス帝国 帝都デットモルト北西 クルーバー区







 そんな時に、あの女神は再び現れた。




 「おう。久しぶりじゃの。」




 通りの端から聞こえた声。


 もう何年も聞いていなかったはずのその声の主を、ウルは直観した。




 あの時の声だ。




 振り返った視線の先には、つい先ほどまで誰もいなかったはずの場所に女が立っていた。




 咄嗟に思い浮かんだ記憶上の姿と寸分違わない見た目の姿。


 違うのはあの時血塗れだった片目の包帯が、眼帯に代わっている程度である。


 


 女は不気味にも笑みを浮かべた。


 暗く静かな笑み。




 ふと、ウルは急に周囲の街の騒音が一切聞こえなくなったことに気付く。


 目だけを動かして周辺の様子を探る。


 先ほどまで夏の夕方の明るい日差しに照らされていた世界が、青白い光に包まれていた。


 交通量の比較的少ない通りとはいえ、帝都の街中であるにも関わらず人の気配を一切感じない。 




 やはり、この女は普通のゼクス人ではない。


 異様な悪寒が彼を襲う。 


 


 


 「……何の用ですか。」




 顔だけでも平静を装いつつ、ウルが女に問いかける。


 問いかけながら、自身でも何の用かは理解していた。




 「まさか、今更復讐なんてのを…。」


 「ああ、よいよい。今日は思い出させに来ただけじゃからの。」


 「……?」




 ウルの言葉を遮って、女はそう言った。 




 「お主の答えは既に聞いておる。お主はそれを忘れておるだけじゃ。」


 「……どういう事、ですか?」




 ウルが尋ねる。


 女はため息を一つつくと、やや俯いた顔のまま視線だけをウルに向けた。 




 「…あの日、結局お主は仇討ちをとると即答したのじゃ。覚えておらんじゃろがの。」




 女神はそう告げる。


 


 


 瞬間、ウルを再び緊張感が襲った。


 そんな記憶は一切ない。




 確かに当時、自分はこの女の発言にまんまと乗せられそうになっていた記憶はある。


 ただ、あの時はこの女自身が自分の即決を断ったはずだ。




 だが、実際自分の記憶はそこで途絶えている。




 「じゃからこそ、今わらわが改めて迎えに来たのじゃ。」




 女は続ける。




 カバンにつけた母親の形見に目を向ける。


 本来銀色のそれは、周囲の光を反射してか異様に青く光っていた。 




 「お主がはっきりとそう答えたからこそ、今お主は生きておるのじゃ。」




 ウルの動揺を察してか、女神は更にそう付け加えた。




 「それがなければ、どのみちお主は傷口が元の病で死んでおるところじゃったのじゃ。お主がどうしてもと即答したが故、生かしてやったのじゃぞ。」




 一瞬の間があってから、ウルが言い返す。




 「……そんな記憶、僕にはないんですが。」


 「当然じゃ。わらわが記憶を消したんじゃからの。」


 「……そんな事が。」


 「容易い事じゃ。わらわは神じゃというたじゃろう。」


 


 女神は淡々と答える。




 「信じられんという顔じゃな。」


 「…当然ですよ。記憶を消しただなんて。第一、どうして…。」


 「消してやったのは、わらわのお主に対する慈悲じゃ。」




 女神は遮って答えた。




 「…え?」


 「あの時のお主は、とてつもない憎しみに満ちた目をしておった。……幼子にしては気持ちの悪い程にな。正直、そういう意味ではわらわの期待を随分越えておった。」




 そういうと女は自身の頬を指でなぞり始めた。




 「……幼子の頃からそのような者は、そのまま育ってもろくな者にはならん。じゃからお主の決意こそわらわは受けはしたが、一旦はお主の憎悪を半減させる為にも、その際の感情ごと記憶から消したのじゃ。」


 「……。」


 「お主はわらわの口に乗せられたのではない。あれはお主自身の真心から言うたことじゃ。」




 ウルは愕然とする。




 生きる選択をしなければ、自分も母親と同じようにすぐ死ねたのかも知れないのに。


 ここまで苦しんで、つまらない人生を送ることはなかったろうに。




 何故、何も分からない子供の時に、軽率にそう答えたのか。




 




 ……では、自分は死にたかったのか?


 




 


 違う。




 心の奥底で、自身の本音が徐に湧き上がり始める。




 この女の言うとおりだ。


 やはり自分は未だに人間に対して、押さえつけようのない憎悪を抱いている。




 世の中のゼクス人に対する絶望は、自身の感情を冷めさせたわけではなかった。


 むしろ、もっと大きな、世界そのものに対する……。







 「…ああ、もうわらわが話してよいか。」




 女神がウルに話しかける。


 ウルはハッとした様子で視線を上げた。




 ウルが無言で頷くと、女神はゆっくりと話し始めた。




 「今から五年後の夏の頃、この六ツ島の民と人間共の間で戦が起きる。そこから遠からずこの国は亡びる事になっておる。」


 「…予言ですか。」




 女神が頷く。




 「ああ、しかしお主がその定めを変え、人間共をひざまずかせるというのであれば話は別じゃ。」


 「……自分が?」


 「ああ。」


 「そんなこと……、出来るわけないでしょ。それは国家戦略の範囲の話ですよ。戦術面においても一個人が貢献できる範囲なんて、たかが知れ…」


 「いや、出来る。」




 女神が遮るように答える。




 「いや…、出来ませんよ。そんなのは政治家や軍部の仕事だ。その予言も僕なんかじゃかくて、もっと首相とかに…。」


 「いや、出来る。」




 再び同じ調子で女神は答えた。




 「あの時はあくまで慈悲で助けてやっただけじゃから、契りももっとも弱きものにしてある。今ここで改めてわらわと契りを交わしなおすのなら、あの際の約束通り、神の力を貸してやろう。復讐の傍ら、武人として功を挙げよ。」


 「……。」




 ウルは目を反らしつつ呟く。


 「…なんで僕なんですか。そもそも。」


 「今、わらわがもっとも接触しやすい下界の者がお主だからというだけじゃ。」




 変わらず、淡々とした様子で女神は答えた。




 「……え。」


 「なんじゃ。」


 「……非合理的だ。じゃ、論理的に僕だからこそ成功できるっていう理由なんか、客観的にみて何もないってことですか。」




 その言葉に、女はフッと鼻で笑った。


 それから、やや声を低く答えた。




 「ああ。そうじゃが?」


 「…え。」


 「笑わせるな。お主は我が者顔で世の理とやらを口にできるほど、それに通じているつもりか。神の御前で下民風情が分かったような口をきくな。ガキが。」




 豹変する女に、ウルはややたじろいだ。




 「仮に他により優れた者がおったとして、その者らが定めを変える事を諦めたとしたら、お主はそれに併せて諦めるのか。何故お主は、自らの定めを自分以外の人間に任せようとするのじゃ?」


 「………。」


 「お主に意志があるのなら、絶望の中であがいてみよ。一人でも多くの者を巻き込み、一人でも多くの人間に復讐を果たして一矢を報いよ。より多くの者に、お主の生き様、獣人としての爪痕を残せ。」

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