第六話 沼
帝国歴 5466年(革命歴 195年) 5月29日午前17時21分
ティエンタン共和国 テガリス居留地 第二地区東方 東部第五診療所内
銃撃事件から 約34時間後
西の窓から入る日光が、やや古びた雰囲気の部屋の中を照らしている。
ガランとした室内には、等間隔に並ぶベット以外のものはほとんどなく、タイル張りの床が日光を受けて僅かに輝いているのがかえって哀愁を誘っているようである。
(……子どもの方は、うまくいけばまだ何とかなるかも知れません…。……はい…、腸のあたりがひどくやられているんですが……、明らかに大きな血管を撃ち抜いているという事もありませんでしたので……。血圧もなんとか…。…はい…)
(……しかし母親の方は……、ほとんど銃撃されたタイミングから息をしていなかったのではないかと……)
………遠くで声がする。知らない大人の声……。
夢……?
突然フッと息に詰まる感覚を覚え、ウルが目を開けようとする。
仰向けに寝たまま左側に顔を傾けていた為に、まぶたを開ける前から仄かに明るかった視界が、目を開けた瞬間に強烈な光線に蝕まれた。
眉を顰めつつ、ウルはギュッとまた目を閉じた。
「お、気付いたか。」
顔の前方から声がする。再びウルはゆっくり目を開け始めた。
窓の外からの日光の手前で、誰かが影になっている。 数秒かけて、逆光の中で少しずつその姿が浮かんできた。
…知らない女の人。見たことのない人。
白色の、大昔の人が来ているような服を着ている。
こちらに俯きかける顔の陰が、最後に取れていく。
女の片目には血の滲んだ白い包帯が巻き付けられている。
「……誰?」
ウルが問いかける。
女はニヤリと笑った。
「わらわは神様、じゃ。死にかけておったお主のために、わざわざ会いに来てやったのじゃ。」
…神…さま。
………死にかけた?
目覚める前の記憶を思い返す。
母親の血…。撃たれる直前の母の顔。引きつった顔…。
そして撃たれた瞬間の、腹をひっくり返すような衝撃。最後にはほとんどなかった意識。
意識が途切れる前、誰かに母親の助けを頼んだような気がする。
「…死んだんですか?…ぼく。」
自称“神”に無意識に問いかけた。
人間に襲われたのも、血を流す母親も、ウルにとってはすべてが非現実的な気がする。
神だと言われても、そういうものかと受け入れられるような気がした。
深く物事を考えられるほど、頭はすっきりしていない。
女が答える。
「まだ死んでおらん。死にかけた、というておろう。」
そういってから女はウルから目を反らした。
「…ただ、母親は死んだがの。」
瞬間、ウルの頭の中の思考のもやが一気に晴れるような気がした。
同時に頭のてっぺんからサッと血が引いたのが分かる。
なんとなく無意識に避けていた情報が、女の言葉を介して、頭の上から一気に押しつぶしてきたような感覚に陥った。
「…………ッ」
殴られたような衝撃が収まり始めた後、喉の奥の方から大きな感情が湧き上がってくる。
どうして、そんな事になったのか。
最後のやりとりが、あんなつまらないことになるのか。
怒られてばかりで、まだ何も母親を喜ばせる事をしてこなかった。
記憶を辿るたびに、自責の念が大きくなる。
ボロボロと大粒の涙をこぼし始め、うずくまったウルを見ながら、女は語りかけた。
「…つらいか。無論つらいじゃろうな。…しかし、お主は助かったんじゃぞ。その一命、上手く使え。」
少年は一応二度ほどコクリと頷いたように見えたが、それが泣きながらの生返事である事は誰の目にも明らかであった。恐らく、今は溢れ出る自らの感情を処理するのに追われているとみえる。
女神はウルを憐れむような表情でしばらく眺めていたが、やや間があって再び話しかけた。
「………それに、わらわは神様じゃと伝えたろう。いずれは母親の方もどうにか出来るかもしれん。だからの…。」
「…ヒッ…ウグッ……、ほ……ほんと……?」
その声にウルがぐしゃぐしゃの顔を上げる。
その顔をみて、改めて女神は躊躇うような顔を一瞬浮かべたが、再び口を開いた。
「…ああ、やってはみよう。しかし、今のわらわには無理じゃ。まずお主にはやってもらう事がある。というよりお主自身にとっても為さなくてはならぬ事じゃ。」
「……?」
ウルが自身の話を聞き入ったのを見計らって、女神は再び口を開いた。
「……仇討ちじゃ。お主はまず仇を討たねばならん。諸事情あって、わらわが力を借りたいのもそれについてじゃ。」
女神がそういってスッと背を伸ばす。
「今回、お主と母親を殺しに来たのは人間じゃ。奴らがお前の今までの生活を奪った張本人じゃ。あやつらの為に、お主の人生はつい昨日から大きく狂った。」
「……。」
……人間。
あの毛のない顔、筋肉質に張りつめた太い腕、大きな体、よくわからない言葉、銃声、血……。
殺されそうになる瞬間が、人間そのものの記憶と併せてよみがえる。
「……。」
「恐ろしいか。」
「………うん。」
「心配するな。何も、仇討ちも今すぐ行えというのではない。それに、やるというのであれば、わらわの力を貸してやる。」
「……………うん。」
ウルは重ねて頷いた。
仇討ちの意味は分かる。でも、どうやってそんな事がやれるんだろうか。
そもそも彼らはなぜ撃ってきたのか。
失意の中で、もはや難しい話をしたくないし、されたくもない。
色がある世界であるにも関わらず、写真のような白黒の世界をみている時のような不思議な感覚に襲われた。
実際、この女が言うように、自分の人生の道筋は大きく崩れた。
ウルを女手ひとつで育ててきた母親がいなくなったのだとすれば、自分の居場所はもうどこにもない。
本当に、何もかもがどうでもいいように思えた。
この女性が本当に神だったとしたら、本当に母親を生き返らせるかもしれない。
仮に嘘だったとしても、それで人間相手に刺し違えて再び殺されれば母のもとへ行けるではないか。
自身の人生を一旦この女神に委ねることで、しばらく考える事を先延ばしに出来るのなら、それでよいように、ウルには感じられた。
「ぼく、お姉さんのいうこと、信じます。お姉さんが神様だってことも。…信じたいです。」
ややあって、ウルはそう呟いた。
女神はジッとウルの俯く横顔を見つめてから、それに答えた。
「……そうか。分かった。」
女神はウルの手を取ると、何かをそれに握らせる。
ウルが手の上に目をやる。
見覚えのあるものが握られていた。
「…あ。」
そこにあるものはウルの母親がつけていた首飾りであった。
「それはお主の母の代わりじゃ。取っておくがよい。」
「…………。」
ウルはジッとそれを見つめた後、ギュッと握りしめた。
「…お主、今、真剣に考えておらんかったじゃろう。」
女神が語りかける。
「…まあ、無理もないか。わらわも鬼ではない。幼子に一方的に殺生をするようにけしかけるような事は出来んのでの。」
そういって女神は背を向けた。
急に、ウルは自身の意識が再びゆっくり遠のき始めるのを感じる。
意識の途切れる寸前、ウルは彼女の声をきいた。
「…しばらく暇をやろう。再び目が覚めたら、己の意志でどうしたいか、改めてよく考える事じゃ。」
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