第五話 契り、祈り




 湖畔の水面にやわらかく蓋をするように、濃い霧が立ち込めている。


 対岸側では木々の葉が生い茂り、そのために鮮やかな緑が水平方向に深い白銀の色を遮って延びている。



 幻想的に薄暗く輝く湖の岸に、女が一人佇んでいる。


 長髪の、犬獣人の女性。


 広い水面や向こう岸を、遠い目でぼうっと眺め続けている。


 濃霧の中に溶け込むような澄んだ白色の長衣に身を包み、あたかも古代人のような雰囲気を醸し出している。



 彼女の閉じられた左目があるはずの位置からは、真紅の血がドクドクと溢れ出していた。



 「…なるほどの。」


 ふと長い沈黙をやぶるようにして一言、彼女はため息の後にぽつりと呟いた。


 「つまりそろそろ本腰を入れて動かねば、わらわ自身の存在もいよいよ危うくなるという訳か。」


 女はそういってゆっくり屈みこむと、自身の衣の裾を少し割き、自身の左目を覆うように巻き付け始めた。


 左目にあてた個所から、括り付けが終わらないうちにじんわりと血が滲み始める。


 「まったく…、世知辛いもんじゃのぉ。」



「いかがですか。何か収穫となるような情報はございましたか。」


 湖畔に転がる大きめの岩に腰かけた男が、女の背後から問いかける。


 どこかいたずらっぽい笑みを口元には浮かべながらも、その声には僅かな自信のようなものさえ感じられる。


 女はゆっくりと振り向きながらそれに答えた。


 「ああ。ある程度はな。期待しておった程度の収穫はあるようじゃの。ほめてやろう。」  


 女は無表情のまま、淡白な声調で答える。


 「うぬのような下等の者の為に、片目をくれてやった事自体はそれでも気に食わんがの。」

 

 「まあ、契りとはそういうものですので。何卒ご容赦を。」


 「むう…。然れどもなんせ、わらわのこの美しき顔を損ねたのじゃからのう。」


 女は髪を束ねながら子供っぽい表情で頬を膨らませつつ、絡むように答えた。


 「…ええ…まあ。そうかもしれませんね。」


 男が苦笑を浮かべる。


 「それで今回新たに得られたこのお力、どのようにお使いになる事をお考えで?」


 男の問いに、再び女はスンと無表情に戻った。


 「…さあの。まだ今度得た能力のすべてを把握しておるわけではないのじゃ。これから試してみて次第のことじゃろ。それに、わらわにはわらわなりの事情もある。うぬが余計な詮索をせんでもよい事じゃ。」


 「…そうかも知れませんね。」


 男の問いに一転、女は相手の顔を見る事もなく突き放すような答えを返す。


 彼は苦い笑みを浮かべながら自身の話題の振り方を若干後悔するように俯き、目を反らした。



 「…まあ、じゃが、一旦今一先ず考えておることとしては。」


 「?」


 男が再び視線だけを上げ、女の顔を覗き込む。


 先ほど女が不器用に頭に巻き付けた自身の包帯が、もう垂れ下がりつつあった。


 女は右目の上をクイと親指で押し上げながら、男の方に顔を向ける。    



 「一度、下界へ行ってみようかと思っての。」


 神妙な顔もちでそう告げて、女はゆっくりと去っていった。

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