第二話 砂海に光るしずく
帝国歴 5466年(革命歴 195年) 5月28日午前7時16分
ティエンタン共和国 テガリス居留地 第二地区東方 海龍通付近
銃撃事件 約五分前
市街地の東端に程近い、これからの店開きを静かに待つ商店らが軒を連ねるこの大通りに、朝日に照らされた影が伸びている。
土を突き固められただけの未舗装の道を行き交う者はなく、道の片側に流れる細い水路から用水の流れる水音だけが聞こえてくる。
この古めかしく小汚い商店街は、昼間においても特段に繁盛してはいない。
むしろ一年前に市街地中心部に百貨店が出来てからというもの、通りへの客足がめっきり遠のいている。
この半年でたたまれた店も、少なからず出た。
前世紀、犬獣人から成る“ゼクス帝国”が、人間の大陸での戦役で勝利を収めた。
人間による一方的な世界支配に終止符を打ったのだと、本国を中心に帝国では今なお大々的に宣伝されている。
条約によって獲得された20キロ平米程度の土地には、帝国の威信を示す事を兼ねた都市開発が積極的に行われており、現代的な商業用建築物が雨後の筍のように建てられて続けている。
モダンなデザインのビル群は、現代的な都市設備に溢れた居留区に住まう犬獣人と区域外に住む貧しい人間との関係性を残酷に象徴し、犬獣人の優越感と現地人の人間の劣等感を焚きつけるかのように聳え立っていた。
しかしながら、ゼクス人も等しく一様に富と文明の精華を謳歌しているわけではない。
帝国の警察力が行き届く比較的治安の良好な中心市街地の地価は膨れ上がり高所得者に溢れる一方で、現地人との衝突が懸念される居留地の外縁地域では、初期に本国から移民してきた者達の子や孫らが治安の悪さと物価の高騰に苦しめられつつある。
海龍通も、今やそうした対比の“悪い方”の典型的な例のひとつであった。
「えっと、昨日は魚をあげたんだし、今日は…」
裏路地に繋がる薄暗い暗い小路と海龍通が交わる交差点に面する角地の、住宅併用の商店の勝手口を開けて、明るい毛並みの少年が食料棚を物色している。
多くの同種族と同じような無邪気な表情でやや口を開け、丸い目で棚の左右の端の奥をきょろきょろと伺っている。
が、何かを思い出したようにピクリと動きを止めた。
「あ!そうだ!肉は…どうだろう。干し肉ってかたいけど、食べられるのかな…。」
少年は指の爪をかけて上の棚を覗き込み、干し肉の入った麻袋を手に取ろうとする。
瞬間、勝手口の扉が開いた。
「ッ!!?」
驚いた少年は飛び上がり、反射的に背を向けながら食用棚を隠す。勢いよく閉められた棚の戸が、却って大きな音を立ててしまった。
中から出てきた女性と、少年の目が合ってしまう。ふっと女性が視線を下にやると、少年が後ろ手に何かを隠しているのを見えた。女性が厳しい目つきに変わり、少年をしかりつける。
「ウル! 何を取ったの!」
「い、いや…! ちょっと今お腹がすいて…。」
「嘘おっしゃいな! また野良猫に餌をあげるつもりじゃないでしょうね!?」
少年の頭の上の耳がぴくりと動き、視線が左右に振れる。
「い、いや…、これはほんとに僕が食べたくて…。」
「干し肉を食べたいの? そのまま? あんたが?」
「……。」
半ば呆れ顔で淡々と問い詰める母の顔に、ウルは俯いた。
「…あのね。何度も言ってるでしょう? 野良の猫に餌をやったら、ご近所の皆さんにも迷惑がかかるのよって。」
諭しかけるように、母親はウルの前にかがんで顔を覗き込む。
「あんたがいない時はお店の食べ物を取りに来るようになるかも知れないし、他所でおしっこもしてくるようになる。あんたにはこの通りや、町に住んでいる猫全部のお世話、出来るの?」
母親の言葉に、ウルはパッと顔を上げる。
「…ぼ、ぼくがエサあげてるのは一匹だけだよ! 他の猫は関係ないし!」
「じゃ、あんたのその子が他の友達を呼んだら? 子供が産まれたらどうするの?その子達にはあげないつもり??」
「……。」
再び言葉に詰まり、ウルが苦い表情を見せる。
母親はため息をつきながら立ち上がった。
「…とにかく! 猫に餌はあげない事! あんたが半端にエサをあげて、ご飯の捕まえ方を忘れたら困るのはその猫ちゃんなんだから。袋も戻しておきなさい!」
そう言いつけながら母親はゴミを集めた籠を手に取ると、ウルに背を向けた。
「…本当に、イジワルなババアなんだから。」
ウルは干し肉の袋を棚に返す素振りをしながら、サッと一枚引き抜いた。そのままデタラメに片手で折りたたみ、ズボンの中に突っ込む。
棚の戸を閉め、勝手口を飛び出すと、母親に見つからないように反対の方向に向かった。母親は大通りに交差する小路のゴミ捨て場に向かっているので、ぐるりと家を半周する形で遠回りをすれば、大通りに出るところを見られる事はない。
ウルは大通りに出ると、自身の家から数えて2軒目の店と3軒目の間の小さな敷地に建てられている祠の前に向かった。
再度大通り全体の様子をキョロキョロと確認してから、祠の左後ろを覗き込み、ウルは小さく呼びかける。
「…おーい。出ておいで。ごはんだよ。」
犬獣人の見慣れた顔の少年がかざす干し肉に釣られ、一匹の白猫が顔を出す。ウルはサッとしゃがんで猫に目線を合わせた。
訝しげに自身の顔を斜め下から覗き込む猫とのにらみ合いに若干の気まずさを感じ、ウルは思わず猫の前に干し肉を放り出した。
「はい、これ。今日のごはん…なんだけど。食べてみて。」
放り出された肉を、猫はサッと手で押さえこみ、顔を近づけて食べだした。 カリカリと牙が肉をひっかいた音の後に、ぴちゃぴちゃと水っぽい咀嚼が始まる。
「…どう?食べられる?おいしい?」
猫は一瞬だけ顔を上げてウルの方を見るとミャアと小さく鳴き、再び黙々とした食事に戻った。
「…よかった。」
ウルはニンマリと満足げな表情を浮かべ、ふと祠を見上げた。
この区画で祭っている神の祠ではあるが、長らく放置されたそれはうっすらと煤をまとっており、蜘蛛の巣が張られている。侘しい雰囲気のこの祠は、たまに近隣の住人が掃除しているようではあるが、それ以外でこの前で足を止める者はほとんどいない。雑草も茂り、祠の背後の草はしゃがんでいるウルの頭よりも高く伸びている。 それ故に野良猫がしばしば身を隠す場所としては非常に役に立っているように見える。
視線を下に戻すと、ウルは猫の背中に語りかけた。
「…これからはどうやって君のご飯を持ってこようか。大人たちはみんな猫に餌をやるなっていうんだもんね。」
白猫は無言でシャクシャクとエサを齧っている。
「でも、そんなのは僕たちや大人の勝手な都合なんだよね。」
ウルはそう言って猫の頬を撫でた。瞬間、猫はビクッと驚いたように身を震わせたが、すぐにまた咀嚼し始めた。
「先に僕たちゼクス人が町に住んでいるからって、大人はひどいよ。獣人の都合で、君たちを野良猫にしたり、猫には餌をやるなってイジワルしたり。君たちは君たちなりに生きていかなきゃいけないのにね。」
急に猫は咀嚼を止め、ウルの顔をジッと見上げた。
今度はそれにウルが少し驚く。が、改めて猫の頬に手を当てると、猫の目にやや力強く微笑んだ。
「僕はこれからも君にごはん、絶対に食べさせてあげるからね!」
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