【03】

 朝霞とキスをしたのは、出会ってから三年が経っていた。税理士をしながらも書いている僕は、一年に三冊ほど出せればいいほうで、固定のファンもつくようになってきた。人生で初めてファンレターを貰ったとき、とても嬉しかった。変なものばかりしか書けない僕だけれど、自分のしてきたことは間違いではなかったのだと、認めてもらえたような気がした。

 朝霞と会うごとに、緊張は人見知りのそれから別の気まずさへと形を変えていった。出版社のブースに行くたびに、女性社員からチロチロ見られたり、からかわれたりして、それが何度も続くと、うんざりするより、そわそわ落ち着かない気分になるのだった。

 インターネットと同じだ。

 たびたび同じ情報を得ていると、それが僕のなかに染みついて、真実味を帯びてくる。朝霞とどうこうなるのが、世界全体から催促されているような、そうなることが、青信号を渡るように当然のことであるような、そんな考えになってきたのだった。

 朝霞も気まずそうにしていた。いや、向こうは相変わらず平然とした表情を崩さずに、不安定な僕を眺めていた。けれども、キスでもしてみるかと冗談混じりに提案してきたのは、彼からだった。

「いっそ、しますか」

「しま…………せん」

「ですね」

 じゃあ、握手だけ。と朝霞は言った。変なの。生暖かい手の感触は、手を離したあとも僕に残った。

 実際に唇を重ねたのは、彼が僕の家に来たときだった。

 大学を卒業してから一人暮らしをするようになった僕は、家に人を招くのが嫌いで、今まで恋人や業者以外を入れたことはなかった。が、その日はたまたま、急遽の修正があり、近場を回っていた朝霞が、僕のところまで来ることになった。

 朝霞は僕に詫びたあと用事を済ませ、それから、「ところで、」と切り出した。

「多能さん、うち以外で書いてませんよね」

「出してませんよ」

「インターネットにも?」

「……………」

 売れるためのものではない作品を、いや、売り物にはならないレベルの文章を、僕は以前から小説投稿サイトに出していた。ペンネームも違うし、文体だって違う。よくよく構成を練っていないから矛盾もあるし、単なる誤字脱字さえ多い。よくある、ド素人の書いたような作品。

 それなのに、どうしてバレたのか。

 朝霞の見せてきたスマホのディスプレイには、僕の作品(それ)が表示されていた。

「どうせなら売り物にしてください」

「お金に変換したくないんです」

 何故ならば、それは私小説だったから。僕は叔父とのことをそこにほぼ全部書いてしまっていた。どうしても書かずにはいられなかった。けれど、リアルな人間関係の相手には、絶対に知られたくなかった。

「どうしてわかったんです」

 僕は聞いた。朝霞は答えた。そういった投稿サイトは、出版社の人もよくチェックしているらしい。多能初雪と、本名を作中にさらけ出していたのは自分自身だったと、言われてから気付いた。

 馬鹿だ。

 でも夜詩くんのことは夜詩くんと書きたかったし、初雪を雪ちゃんと呼ばれることが大嫌いだったことも、だから叔父が僕のことを世界でただひとり、ハツと読んでいたことも書きたかった。多才なのは夜詩くんなのに、多能という苗字を持つのが僕だったことも、彼の苗字が叶であることも僕は書きたかった。思い出の全てを文字にして残しておきたかった。そうしていつまでも忘れずにいたかった。どうせ忘れられないのに。

「どこまでが本当の話なんですか」

 僕は朝霞の質問に答えない。なんで怒りが沸くんだろう。僕はBL作家であることを母や友人に話したことはない。遠くの見知らぬ他人にはむしろ読んでくれと願うくせに、リアル人間関係の相手には知られたくなかった。

 特に夜詩くんとの物語は。

 怒りとは通常、不安から来るものだが、きっと今回のは恥からきている。叔父と変な関係であったこと。奇妙ではあっても、僕にとってはいまだに大切であり続けていること。

「勝手に知るな」

「勝手に書くな」

 商業作家なんだから矜持を保ってくださいと言われ、初めて僕は朝霞と口論する。大人なので、喧嘩とは言わない。

「書いたものには価値をつけるべきだ」

「そんな評価、要らない」

 僕たちは散々話し合った末に、疲れて沈黙する。

 要らない、を繰り返し朝霞に伝えた僕は、まるで夜詩くんみたいだ。要らない。要らない。要らない。身近な人に知られることを、欲しくなんてなかった。夜詩くんとのことを金銭に変えてしまえば、思い出のきらめきを失いそうで、それも嫌だった。要らない。要らない。要らない。朝霞の言葉も聞きたくない。

 もう何も望まないから、楽にしてくれ。

「あの人を愛してた」

 僕はもう過去形で話せるようになってきている。夜詩くんがいない日々を過ごし、いないことに慣れ、ときどき安直な悲しみに浸る。

 朝霞は僕の肩に触れた。僕はわざと彼にもたれかかる。本当はそこまで弱っていないのに、この人を試してみたい衝動にかられる。わざと弱ったところを見せて、しなだれかかり、当然彼が更に慰めてくれるのを期待していた。行動で彼を支配してみたい気持ちがあった。朝霞は友人にする程度の抱擁で僕を抱きしめ、それから僕の顔を見た。僕は泣いてはいなかった。ただ、目が合うと朝霞は自然に唇を重ねた。この人はキスをするとき、両手で相手の頬を包み、するのだと僕は初めて知った。

「あなたは新しく人を愛するべきですよ」

 朝霞はそう言った。その相手になるのは自分ではないのだと、彼は言葉を続けないことによって僕にわからせた。

「要らない」

 そう答えてしまいたかった。けれど夜詩くんもよくそう言ってたなと思い出して、そしたら不意に泣けてきた。涙は二、三粒でおさまったが、心はざわついていた。

 好きになるなら、この人がいい。

 朝霞がいい。

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