唯一の出来事
「ご馳走様でした。今日も美味しかったです」
「そう」
夕食を終え、目の前にいる作り手と食に感謝を込めて手を合わせる。
作り手はというと、僕の方を一切見ることなく、食器を重ねて持ち上げ、食卓から去っていった。
「僕が皿洗うよ」
「結構です」
他人が聞けば、怒っているのではと勘違いされそうな低い声で僕の申し出を断った彼女は黙々と皿洗いを始める。
だが、これはいつものこと。
そして、これもいつものこと。
「今日さ、佐藤が北海道から帰ってきたんだ。夜景がすごい綺麗だったって自慢げに言ってきて……見に行ったことある?」
「…………」
「それでさ、今度休みが重なった時に一緒に行きたいんだけど……どう?」
「…………」
…………またダメかぁ。
ここからでは凛の表情は見えないが、どうせ顔色ひとつ変えていないのだろう。
これで何度目かの無言拒否。
百までは数えていたが、敗北の回数を数えることが馬鹿らしくなってやめた。
今となってはやめておいて良かったと思える。
「シャワー浴びてきます」
聞いているかどうか定かではないが、凛に伝えるだけ伝えて、僕はシャワーへ向かった。
どうすればいいんだろうな……
結婚生活を始めて二年が経った。
話しかけてはいるが、凛は必要以上のことを話さない。
まあ、僕を嫌っているのだから当然のことではある。
関係を改善したいとは思うが、凛に無理をさせたくはない。
それゆえに、個人的な誘いをするのは一日一回までと自分の中でルールを定めている。
佐藤から相手に合わせられるだけの知識を蓄えろと言われたが、凛が好きなものがわからないので、手当たり次第に女性が好みそうなものを挙げている。
明日は何に誘おうか……と熟考していると、いつの間にかドライヤーで自分の髪を乾かしていた。
体と髪を洗ったかはっきりしないが、髪がしっかり濡れていることから大丈夫だと確信する。
鏡にはパンイチの僕が映っていて、溝の埋まった自分の腹がそこにはあった。
バキバキだった頃に比べて締まりの無い体に落胆してから、さっさと寝巻きに着替えようと、ドライヤーを切ったそのときだった。
「しないって言ってんの!」
凛の声だよな……何かあったのか?
耳を澄ますが、凛の声は聞こえない。
寝巻きに着替えて、抜き足差し足でリビングまで近づく。
リビングと廊下を隔てる扉まで近づくと、話し声のようなものは聞こえるが、内容まではわからない。
「だいじょ――」
恐る恐るリビングの扉を開くと、電話越しに話をしている凛が俺に向けて静かに、と人差し指を顔の前で立てて睨んできた。
「それは命に対する冒涜でしかないと思うけど」
『命に対する冒涜』という言葉からして重い話だと容易に想像できる。
他人の僕が突っ込んでいい場面ではないのだろう。
「知ってるよ。うちの会社が右肩下がりで、坂本さんとの取引が仕事の四割以上を占めているのは知ってる。それでも、関係を安泰にするためにっていう理由だけで絶対にやりたくないし、彼やその子に対して失礼でしかない」
凛の言う通り、凛の親が経営する会社は衰退の一途を辿っている。
ゆえに、うちの会社との取引が消えれば、倒産の危機を迎えることにはなるだろう。
「会社の利益のために生まれる子どもがいていいの?その子がそれを知った時に、その子は悲しまないでいられるの?」
なるほど、僕と凛との間に子どもができればより強固な関係ができると凛の親は言ったのだろう。
政略結婚をしている今の時点で両社に十分な信頼関係ができているはずなのに、不安になってしまって、より強固な関係を求めてしまったのだろう。
それを理解してか、凛は決して声を荒げることはなく、堂々と相手に自分の意見をぶつけ、説得を試みている。
だが、抑えきれなかった怒りが表情に反映されていた。
「あたしは、親が子どもを利用するなんて真似はしたくない。あたしのことを思って言うなら、あたしの考えを組んでよ」
本当にその通りだな。
親の道具として生まれた子どもの気持ちは分かっているつもりだ。
親から離れたくても離れることができない子どもという立場がどれだけ不自由で、どれだけ弱いのか。
だからこそ、子どもを作る時は両親から離れて、愛情を注げる環境が良いと思っている。
まあ、そんな日が訪れることはないだろうけど……
「ありがとう……はい、おやすみなさい」
電話を置くと、凛は俺に対して向き直る。
「聞いていたと思うけど、そういうことだから。離婚するなら親に言って。いい理由になるだろうから」
俺のことを思っての発言だろう。
俺も凛も親の道具として生まれた身。
ここで別れると言ってしまった場合、凛はどうなるのだろうか?
それに、俺だって実家という牢獄に戻されることになる。
それは絶対に避けたいし、それに凛を手放したくはないし……っていうのは本人には言えないけど。
「それはないよ。俺にとっても、凛にとっても、この現状に利益があるならこの生活を続けたいと俺は思ってるよ」
「そう……ありがとう」
目を合わせることなくそれだけ言うと、凛は自室に入っていった。
俺が唯一、凛という女性が怒っているところを見た瞬間だ。
それ以降、凛が感情を顕にしている瞬間を目の当たりにする機会は訪れなかった。
だからこそ、このことは鮮明に思い出せるし、凛と神崎さんの怒っている姿が似てると思った。
確信できるだけの証拠がないと有耶無耶にしていたが、料理の味が一緒で、イタリア語が話せて、成績優秀で、怒り方も似ているのに、赤の他人とはならないだろう。
そもそも、転生した証拠というのは絶対に存在しないのだから見つけることは絶対にできない。
これまで何を疑っていたのだろう。
どうして、気にしていなかったのだろう。
どうして、その可能性を忘れていたのだろう。
神崎さんは凛だ。
神崎さんのことは好きだし、凛のことも好きだ。
だから、同一人物だってわかって嬉しい。
そうだよ、嬉しいんだよ。
嬉しい……のに、どうしてかな……
汗ばんで体に貼り付いたシャツの鬱陶しさに俺は涼める場所を求めて階段を下りた。
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