第27話

 保健室に到着し先生がいないか尋ねてみると、どうにも見当たらないみたいだった。


 それどころか、あたしと秀吏以外には生徒さえ誰もいない。


 あたしの介抱なんか必要ないといった風に、秀吏は空いたベッドへ座って自分の頭を手で押さえていた。


「……ごめんなさい」

「いいよ。別に……単なる鼻血だけだったのに大袈裟だったとは思うけど」

「誤魔化さないでよ。来る途中、ふらついていたでしょ」

「ちょっとした脳震盪で平衡感覚鈍っただけだよ」


 貧血? あたしは秀吏の頭部に手を伸ばそうとして、手が止まった。


 秀吏との距離は近いのに心はとても遠くに感じて、あたしはちゃんと秀吏の顔さえ見ることが出来ない。


 頭の中は名状し難いモヤモヤの感情に満たされていて、とにかく秀吏に当たりたくなってしまって……秀吏が考えていることなんて全く疎かになっていた。


「怒らないの?」

「何に怒るんだよ」

「試合……秀吏はきっと……お嬢様のために色々しようとしたのに」

「那由多は邪魔していないし、俺が下手うっただけだよ」


 嘘吐き……あたしは思いっきり邪魔していた。

 これまでの練習した毎日も、台無しにするような行為をしていた。


「あたしが秀吏ばかり狙って投げていたこと、気付いている癖に……やめてよ」

「……だってさ、顔面に狙ったのはわざとじゃないんだろ? それに今のお前見て、怒れるわけない」


 目を擦ると、指に涙が垂れた。


「そんなの、関係ないでしょ」

「関係あるんだよ。いつも通りの態度だったら、そりゃ多少イラっとしただろうし、問い詰めただろうけどさ」


 態度の問題なんて関係ない。邪魔をしたという事実は変わらないんだから。

 あたしを糾弾する権利があるのに、そんな冷静な顔して優しくしないでほしい。


「これも演技で! 騙しているのかもしれないのに?」

「……お前は絶対そんなやつじゃないだろ!」

「…………」


 いつもなら喜んで受け取れる信頼の言葉が痛い。

 今のあたしには……罪悪感という心の穴を増やす毒針でしかなかった。


 秀吏が石倉と間接キスになる瞬間を見て……勝手にムカついて八つ当たりしたのに。


 白状できる訳がない。独占欲みたいな衝動的な感情に、あたし自身が耐えられない。

 だから、騙しているような罪悪感を抱えて……あたしは許されたくなかった。


「そんな……あたしをわかった風に言わないでよ!」

「ああ、そうだな」

「っ……何なのよ。言うことコロコロ変えないでよ!」


 そう言いながら、表情をコロコロ変えているのは彼女の方だ。


「那由多の全部はわからねぇよ。でも他人を騙すような奴じゃない事くらい知っている」

「そういうことをわかった風に言わないでほしいのに……やめてよ」

「那由多のことを全然理解していないよ。こんな殊勝な態度を見るのは初めてだしな」

「えっ?」


 きっと嘘……ううん、絶対に嘘。なのに……今の言葉に言い返したくなかった。


「俺はただかわいい女の子が心配してくれたのに、怒る気になんてならなかっただけだ。それでいいだろ……そういう事にしておけよ」

「…………」


 何を言い返せばいいのか、わからない。あたしは……かわいさでは、花音に勝てない事はわかっていて……多分、凛々しさをアピールしたかった。


 それもこんな姿見せたら……台無しだ。甘えてばかりで、情けなさに息が詰まりそう。

 これで同情されたら、耐えられない。


「石倉にトドメをさすのはお嬢様であってほしかったんだよ。邪魔して悪かったよ」

「謝らないでよ! 事実なんてあたしが秀吏を傷つけた以外に何も残ってないでしょ!」

「俺がわざと避けなかったことも事実だろ。だから、落ち着いてくれ」


 あの瞬間、秀吏が石倉を庇っているように見えて、どうしようもなく力が篭ってしまった事を思い返す。この結果はあたしの勝手な怒りが招いたこと。

 何もかもあたしのせいなのに――。


「普段は手を抜いている癖に、男子がいる時だけ頑張って、野蛮なプレイで秀吏を怪我させて……あはは、本当に性格悪いね、あたし」

「思い込み過ぎだ」

「そんなこと――」


 あるわけがない。

 あたしのことは、あたしが一番わかっている。


「そんな風に思う奴はいないはずだ。那由多の活躍だって確かなものだし、これは俺とお前の問題でしかない。例えば不知火とか活躍しただけ認められているだろ? だから、杞憂だよ……認めてくれる奴もきっといる」

「いないよ……秀吏だってうんざりしているんじゃないの?」


 認められたいわけじゃない。あたしは、秀吏に怒って欲しい。

 罵声でも暴力でもなんでもいいから、報いがほしい。


 迷惑かけておいて怪我までさせてこんな物言いにまで付き合わせて、怒ってるでしょ?


「もしかしたら、付き添ったのが石倉じゃなくて残念だったりするんじゃないの?」

「思ってな――」

「ごめんね、あたしで! でも、仕方ないじゃん! あたしは元からこんな性格で、男慣れしていない処女で、気が滅入るような我儘だって自覚くらいあるから!」


 薄っすら顔に熱が回っているのがわかる。

 そんなあたしに、秀吏はいつも通り優しい言葉をかけてくれる。


「落ち着けって……そんな事俺は思ってないから」

「嘘だよ」

「嘘じゃないよ。那由多がお嬢様のために練習していたことは近くで見ているし、怪我をさせても真っ先に駆け付けてくれたじゃないか」


 どうして優しくするの? どうして?

 今までの鬱憤だってあるはず。もう吐き出しほしい。優しさで癒えないほど痛みが恋しい。


「もういいよ。あたしはチヤホヤされたかったから、あたし以上に人気がありそうな石倉の顔を傷つけたくてあんなボールを投げたんだから」

「ちがっ……前言撤回するよ」

「何を撤回するって言うの?」

「俺は……那由多のことを理解しているつもりだ。だから、そんな苦しそうな顔で嘘を吐く那由多は嫌いだ」


 真っすぐに目を合わせられて、やっと欲しかったはずの言葉を受け取った。


 でも秀吏の言葉は罵声ではなくて、心配しているのが伝わってきて……辛くなる。


 秀吏はあたしの頭に手をあたしの方に伸ばして、叩いてくれるのかと思って目を瞑ったら撫でてくれる。いつもなら振り払っているはずなのに……今は拒めなくて力が抜けてしまう。


「やっと大人しくなったか」

「チヤホヤされたかった……それは、噓じゃないから」


 秀吏にチヤホヤされたかった……花音ばっかりじゃなくて、あたし自身のこともちゃんと見てほしかった。褒めてほしかった。


 ああ、やっとあの時の怒りの正体に気が付いた。

 試合中、あたしの心を満たしていたのはこの気持ちで……訴えたくて仕方なかった。


 やっぱりあたし……面倒くさい女だ。


「俺は那由多のことをよく知っていて、那由多も俺のことをよく知っているから……だからきっと俺が那由多をチヤホヤしたっておかしい事だし……恥ずかしい」

「……うん」

「だけど恥ずかしいだけで、俺は那由多の魅力も知っているつもりだ。だから自信を持ってくれないか」

「その魅力は、さっき言った『かわいい』なの?」

「一言にはできないな。恥ずかしくなるから……今は許してくれないか?」


 『かわいい』は……否定しないんだ。それでいて一言に出来ないって……そんなのズルい。


 あたしが許すことなんて何もありはしないのに。

 秀吏がそんなに甘いから、あたしは面倒くさいままなのに。


 こびり付いていた執着も気付けばふるい落とされていく。


「あたしも秀吏に褒められるとかむず痒いから……今は許します」

「ありがとな」


 心にもないあたしの言葉に、真心の篭った言葉を返してくれた。


 その言葉の意味が伝わってしまう……あたしが罰してほしかったように、秀吏はあたしに元気になってほしかったんだ。


「少し長居しすぎたし、あたしもう行くね? 秀吏はもう大丈夫?」

「最初から大丈夫だよ。まあ……もう少し休んでから行こうかな」


 あたしはすぐ保健室を後にして、トイレに駆け足で直行した。


 個室の中でやっと号泣する……悲しかったからとかではなく、秀吏の優しさに耐えられなかった感情をやっと表にだせたのだ。


 失望されてもおかしくないことをしたのに、魅力があるって言ってくれたことが嬉しくて、あたしはそういう言葉に滅法弱くて……涙が止まらなかった。


 やっぱり秀吏が好きなんだって、愛が止まらなかった。




 結末……残念ながらあのまま試合は、お嬢様が石倉に倒されて終わったらしい。


 何となくそんな気はしていた。最後に見た石倉の顔は、庇ってくれた秀吏に対してときめいている乙女のものだったから、勝って終わりたいという想いが芽生えたんだと思う。


 裏屋敷に帰ったあたしは、どうしても秀吏に顔を見せたくなくて部屋に鍵をかけて篭る事にしたのだった。今日会ったらだらしない顔を見せてしまうような気がして避けた。


 その代わりにあたしがやるべき事を思い出す。


 これ以上迷惑をかけないためにも、裏切らないためにも、以前から言われていた計画の役に立てるように決意を固める。『約束ノート』に強い筆圧で書き込んだ。


『那由多は、空奈と花音を助けない』


 それは、護衛係として矛盾したことかもしれない……きっと花音はあたしを許さないと思うけどそれも覚悟の上だ。


 達郎さんにノートが見られたら解雇されてしまうかもしれない。


 それでも、秀吏のやる事を応援したいと思った。例え、それが悪いことでも。


「だって、あたしは……秀吏の事が大好きだから」


 やっと、この想いが言葉に出せるまで身に馴染んできた。

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