第4話

「……そ、それで、逃げちゃったのよね?」

「まあ、そうだな」


 俺は目を逸らした。今日の天気は……何とも言えない。


「どうすんのよ……お嬢様の方は」

「うーん、問題ないだろう…………でも、色々問題だな」

「はぁ、どっちなのよ。てか、スマホ持っているなら花音にも事情伝えた方がよくない? あの子ならお嬢様に対して上手くフォローしてくれるでしょ」


 あんまり花音に負担をかけるような真似はしたくないが、確かに安全策ではある。

 でもな、俺は更に安全性を上げておきたいんだ。


「那由多だって、お嬢様の友達だろうが。フォローしてくれないのか?」

「それは……もしお嬢様に秀吏の悪口言われたら、居心地悪いじゃない? 同業者として」


 そこは慣れろよ……と言いたいところだが、那由多の優しさを否定する訳にもいかない。


「一理あるな……那由多はすぐ感情に出るし」

「はあ? そんなわけないでしょ!」

「……そういうところだって」


 俺が人差し指で顔を差すと、口をへの字にして見せてきた。指摘が当たったから、というよりも最初から仕組んでいた口車に乗せられたことがイヤなのかもしれない。


「ごほん。そうみたいね。花音に任せっぱなしは忍びないから、あたしもフォローしておいてあげる」

「そりゃ、ありがたい。じゃあ、俺はこれで……」


 いなしながら去ろうとすると、耳を引っ張られて逃走を阻止されてしまった。


「いや、帰っちゃダメでしょ。何かあったらお嬢様は抑えるから、残って!」


 えぇ……でも竹刀で叩かれたら痛いんだぞ?

 また逃げるのは勘弁してもらいたい。


「そんなに俺と一緒に戻りたいのか?」

「そういう言葉がペラペラと出てくるの、本当に意味わかんない」

「おい耳引っ張るな! あ、那由多の耳が赤……それ以上引っ張ったら痛くなる」


 毎度、那由多は暴力の制限だけは上手だ。

 いや痛いけど、そこまで痛くないというか……くすぐったいラインが絶妙なのだ。


 俺としては、是非お嬢様に那由多の技巧ワザをごきょうじゅしてほしいと思わざるを得ないな。


「ところで、那由多がここにいる理由は何だよ」

「…………」

「手に持っている袋、何だ?」

「あたしの制服」


 ああ、つまり体操着の袋か。まだ着替えずに、それを持っているという事は、ここで着替えようとでもしていたのかな。


「那由多……どうして教室で着替えないんだよ。もう時間少ないぞ」

「何処で着替えても、あたしの勝手じゃない。デリカシーないんじゃないの?」

「……そう言われると立つ瀬がない。失言だった」


 那由多の事が心配になって口走ってしまったとは言えない。何よりも、那由多の発言が正論過ぎて弱腰になりそうだ。


 それでも、探られたくない訳ではないのだろう。聞いてほしそうな顔だ。


「なあ、それなら、お詫びに話を聞いてあげよう。悩み事があるんだろ?」

「上から目線。偉そう」


 いつもと変わらないだろ。


「その反応、図星か。誤魔化してもわかるぞ。話してくれるなら、午後の授業もきちんと受けよう」

「……そう。別に大した話でもないけど、そういう事なら話してあげてもいい。だけど、着替える時間が惜しいから、ここで着替えながら……ね?」


 なんだそれは。

 時間が惜しくても尊厳はないのか?


「俺が後ろを見なきゃいいって?」

「そういうこと! さっきのデリカシー無かった分、挽回してよね」

「わかった。悲鳴が上がろうと振り向かないさ」

「それは万が一ありそうだし……助けなさいよ」


 普通、女の子はこういう状況に神経質になるものだと思っていたけど、本当に俺がいていいのかな。

 まあ信頼と捉えれば気分が悪くないけど。


 ……着替える音に聴覚が研ぎ澄まされてしまうのは、許してほしい。


「……秀吏も知っている通り、あたしは友達いないし。多くの視線が飛び交う中で疎外感があって、むなしいの」


 なにか言い訳するように那由多は話し始めるが、いよいよ訳がわからない。友達ならいるじゃないか。


「友達って、お嬢様と花音がいるだろ」

「所詮、仕事仲間と護衛対象でしょ。ずっと一緒にいて、弛んでいたら本当に危ない時に役に立てなくなりそう」


 自信なさげだ。


「それは……本心か? 俺は、那由多がそんな弱い奴には見えないけどな。むしろ、遠ざけようとする方が危険だと思う」


 那由多の心配も理解できるけど、もう少しシンプルに考えた方がいい。

 今の考えでは、悪手を選んでしまうだろう。


「…………」

「そこで黙るのは、顔が見えない分だけ悪手だぞ。他に理由があるんじゃないか?」

「……ちょっと、避けられているだけ。お嬢様を巻き込めない」


 いくら使用人と言えど、気を遣いすぎというか、考え過ぎというか。


「それなら、どうして俺に頼らないんだよ。俺は男子だけど、相談くらい乗らせろよ」

「それは……迷惑だろうし」


 迷惑……? いつもかけてるだろ。


「どうして? 那由多にしゅしょうな態度を取られる方が調子狂うんだが」

「言い方、わざとでも気分悪いからやめてくれる? ここまでの話だって、あたしの弱音で……本来聞かせたくないものなんだから、察してよ!」


 捻った言い方は、残念ながら今の那由多に通用しなかった。からかったことに対して反発しないのは、那由多が落ち着いていることのしょうなのだろう。


 那由多は単純に弱い自分、しおらしい態度を見せたくなかったのかもしれない。

 でも、それは男の子にとって、頼りにならないと思われているって勘違いしてしまうものなんだ。


「……すみません」

「ううん。あたしも怒ったように聞こえたよね……ごめん」


 やっぱり那由多は考え過ぎだ。


「それで、訊いていいのか? 避けられているだけ……じゃないよな?」

「うん。さっき疎外感って言ったけど、一番の理由は陰口……かなぁ」


 するように悲観の声色が伝わってくる。


「どんな内容なんだ? 俺は、笑ったりしないよ。顔を見せていない訳だから、説得力はないだろうけど」


 今度こそ恐る恐る慎重な物言いで訊いてみる。しかし、那由多はそんな懸念なんて元からしていないと言わんばかりに、滔々と話してくれた。


「ううん。そこは信頼してる。内容は、一番心の刺さったのが『黛さんって、モテなそうだよね』だっけ。みんながワイワイ楽しい声で話している中で、サラッと言われたの」


 ……それだけ? 


「確かに酷いし陰口かもしれないけど、それが理由? 那由多の気にし過ぎじゃないのか?」


 那由多に蔑まれるような要素はないし、虐めのエスカレートでもないんだから、どう考えても嫉妬じゃないか……と考えていたけど、那由多は強い反応を返してきた。


「ッ! あたしにとっては、気にすることだったの!」

「あ、ああ……すまん。そうだよな」


 ナーバスになり始めた那由多に対して、軽く言うべきことではなかった……何だかんだ、顔が見えないのは良かったのかもしれない。


 那由多が適切に自分自身をセーブしているのがわかり、その分ストレスの行き場が顔色に表れていてもおかしくないからだ……俺なんかに、見られたくないだろう。


「納得していない声色。例えば……あくまで例えば、の話だけど、秀吏が花音にそんな感じの台詞を言われたら、どう思う?」

「それは、告白もせずに失恋……って、何を言わせるんだよ!」

「秀吏、花音のこと好きなんでしょ」


 サラッと答えられた言葉に、俺は固まってしまう。

 まさか気付かれているとは……。


「一緒に住んでいるんだから、当然。秀吏に対して花音を例に出したのは卑怯かもしれないけど、言われたら自信無くすの……わかるでしょ?」


 うーん、那由多には、好きな男子でもいるのかな……? 今度こそ空気の読める俺は言葉にしなかったけれど、それは乙女のこいわずらいにしか思えなかった。


「自信……か。ある意味、お嬢様と同じ悩みだな」

「そうね」


 お嬢様は、先ほど俺を襲ったように剣道を習っている。


 しかし、本当は秘密にしなければならないことなのだ……あまりに世間一般のお嬢様像からかけ離れている為、お嬢様本人も悩んでいる。カミングアウトする自信が持てないのだ。


 だから俺には、木刀を振り回したことを秘密にする代わりに先ほど見られたことを黙ってもらうという対応策があった。後は花音が誤魔化しくれるだろう。


 なので俺の方はどうにかなると考えていたが――。


「そう、そういうこと? ……あたしも自己完結するしかないのね」


 どうやら那由多も自分の悩みに糸口を見つけたような表情を見せる。


「それは、そうなるな……解釈の問題なんだし。それでもダメそうなら――」

「ダメそうなら?」

「簡単な話だ。お嬢様に相談すべきだと思う」

「……え?」


 困惑されるが、あまりにも簡単な答えだろう。


「もちろん、友達としてだぞ。きっと同情してくれるし、慰めてくれる。同様の悩みだってお嬢様の口から剣道のことを話してくれるかもしれない。それこそ、俺達の目的だろ?」


 俺達にはお嬢様の使用人としてそれぞれ役割が存在する。

 だが役割とは別に、俺達の雇い主であるしおみねたつろうから三人まとまって与えられたがある。それが、お嬢様の自信を取り戻させることだ。


 しかし、那由多は即座に肯定してくれなかった。


「いや、とんだマッチポンプみたいでイヤなんだけど……わかった。秀吏の言う通りにしてみよっかな。まずは自己解決を図る努力をしてみる」

「ああ。罪悪感は、俺のせいってことで消化しておいてくれ」


 那由多にとって、それが一番手っ取り早いストレス解消法だろう。


「そうね…………ありがとう」

「どういたしまして」


 那由多を勇気づけることに成功したのだと考えれば、俺も気分が良い。すると那由多が着替え終わり肩を叩いてくれて、振り向いた。


「てか、秀吏は体操着のままだけど、どうすんの?」

「痛い所を突くな……机の横にかかっている筈だから、取ってきてくれないか?」

「はいはい。よく言えましたっ!」


 俺が頼ることが珍しいからか、とても満足そうなご様子だ。


「あとさ、那由多……次から独りで着替える場合には、せめて空いている更衣室か鍵のある教室で着替えるように」


 独りで着替えないで済むことが一番だけど、逃げ道は残しておいた方が少しは気が楽だろう。けれど、俺の気遣いに対して那由多はニヤリと笑った。


「約束する。なんだったら、『約束ノート』に書いてあげる」

「なら安心した」


 那由多は記憶力が悪い訳でもないのに、マメにメモと称して『約束ノート』というメモ帳を持っている。

 花音も含めた俺達の約束を忘れないための控え……言わば裏屋敷のルールブックだ。

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