第13話 安堵
それから先は、あっという間だった。目の前の惨状を見たルオさんが何か唱えると、私を掴んでいた無数の手は、たちまちの内に音も無く消滅していった。
呆然としたまま、私はその場に蹲った。一体何だったんだ、今のは。とてつもない安堵と、強烈な疑問が同時に私を襲う。ただ、怖かった。何かに巻き込まれたのは分かったけど、それが何なのかが全く掴めなくて、不気味だった。
床を見つめていた私の視界が不意に暗くなり、私は顔を上げる。
「……あ」
思わず情けない声が出るくらい、目線の先に見えたのは恐ろしい悪魔のような顔をしたルオさんだった。
「おい」
とても低い、ドスのきいた声で、ルオさんはそれだけ私に言った。思わず縮こまる。顔を再び伏せようとするが、彼は目敏く私の顎を勢い良く掴んで強制的に顔を上げさせた。ものすごくつり上がった眉が私の事を見ている。
「何をしてた」
「そ、それは、その……」
「入るなと言ったはずだが? お前はそんな単純な命令も守れない程馬鹿だったのか?」
まさか、声が聞こえてきて、あなたが少女を監禁しているんじゃ無いかと疑っていましたとは言える雰囲気ではない。というか、この状況じゃまともに声が出せない。
ぐっと、ルオさんが掴む力が強くなって、私は眉を顰めた。それでも、先ほどのような不安はない。いや、これからのお叱りを考えると震え上がる程恐ろしいのだが、それはまた違う恐怖だ。まさかこの人の存在にこれほどまでに感謝する日がくるとは。
「ずみまぜん……」
気付けば、ぼろぼろと涙があふれ出していた。大粒の涙が、私の顎を掴んでいたルオさんの手にまで伝っていく。それにぎょっとして、彼は手を離していた。だって仕方ないのだ。確かに人の温度を感じられて、どうしようもなく安堵してしまったのだから。
彼は黙って私の情けない姿をじっと見ていた。もっと何かを言われると思って身構えていたのに、想像よりもずっと静かだった。
「……何があった?」
はあ、とため息を吐き出して、彼はそう尋ねた。涙があふれて止まらなくなってしまった私は、目を何度もこすりながら、しどろもどろになりつつ答える。
「えっと、声が聞こえてきて、それで、その声は地下室から聞こえてきて……だから、助けなきゃって、思って、開けようとしたら、勝手に開いて、手が……」
支離滅裂な私の話を、ルオさんはどこか神妙な顔をしながら聞いていた。全くまとまりの無い私の言葉を全て聞き終えた後、彼はようやく口を開いた。
「そりゃ、魔力の暴走だろうな」
「ぼうそう?」
「地下室は俺が描いた肖像画の没作品なんかが仕舞ってあるんだが。それが何かの影響で暴走したんだろう。俺の肖像画には魔力が込められてるからな」
「は、はあ……」
淡々と何が起こったのかを説明されると、動揺しきっていた私も少しずつ落ち着いてくる。
「普通にしてたら暴走する事なんて絶対にねえはずだが。おおよそお前が馬鹿やらかしたんだろう。それしか考えられねえからな。……くそ、あのババアおいて来ちまった」
がしがしと頭を掻きながら、ルオさんはそう吐き捨てた。そういえば、彼と一緒にいるはずのカフネさんの姿が無い。
「今、カフネさんは……?」
「ちょっと待ってろっつって、置いてきた。どっかの誰かの情けねえ声が聞こえてきたからな」
「じゃ、じゃあ、私を助けに……?」
「そういうこった。一生感謝しやがれ」
はっ、と吐き捨てるように、それでいて私に見せつけるように、ルオさんはそう言った。そんな彼を見ていると、再び私の身体から力が抜けていったのが分かった。
「よ、良かった……見捨てられるかと思った……」
「誰が俺に恩のある都合のいい使用人を放り投げると思ってるんだ」
「それでも良かった……ありがとう、ございました」
力が抜けたまま、深々と頭を下げた。そうだ、私は手に引き摺られて好き勝手されたことも恐ろしかったけど、何よりも、――起こしてしまった事で、ルオさんに見捨てられる事の方が怖かった。だって、私が頼れるのは、この人しかいない。
「くそっ、何か言ってやろうと思ったが、気が変わった」
毒気を抜かれたような声がルオさんの口から聞こえてきて、私は驚いて顔が上げた。暫く一緒に暮らしてきて、初めて聞いた声色だったからだ。
「……今日の晩飯はとびきり豪勢にしろ、いいな」
「~っ! はい!」
結局、私を襲ったあれが何だったのかは分からない。分からないが、こうして何も変わらない日々をまた過ごせる事が、何よりも私を安心させた。
その日の夕食時、カフネさんが珍しくとても楽しそうにしていたので、理由を聞いてみたら、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「今日はいいものが見れたわ」
「いいもの?」
「おいババア、絶対にその話をするな!」
「知った事ですか。この男がね、突然立ち上がったかと思ったら、酷く焦った顔をして、貴女の名前を――」
「言うなって言ってるだろ!」
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