第9話 イーディアス、悪戦苦闘(1)
ルオさんの朝食を準備している間、カフネさんは「ちょっと席を外すわ」と告げて、部屋へと戻っていった。 それを待っていたように、ルオさんは口を開く。
「……あのババアがここにいるって事は、上手くいったのか?」
「ええ、まあ。なんとかなった、って思いたいです」
カフネさんが言っていた依頼料の事が今ばれたら大変な事になりそうなので、それとなくぼかして、私は彼が眠っていた間の顛末を話した。取りあえず、カフネさんがここに残る、という事だけ伝えられればそれで良い。
「ま、それだけできりゃ上出来か」
大きなあくびをしながら、ルオさんは大きな口で焼いたばかりのパンを口に放り込む。一口で半分が無くなってしまう。同じ人間の食事じゃないみたいだ、と毎回思う。
「凄く頑張った私にご褒美とか無いですか?」
「あー? じゃあ、足りねえ絵具を買いに行ける権利をやろう」
「それ、いつもの私の仕事じゃないですか!」
かなり頑張ったのに! とぶつくさ言っている私なんて眼中にないらしく、パンをぺろりと平らげた彼はあっさりと立ち上がる。
「じゃあ、ババアが部屋から出て来たら、俺も仕事を始めるとするか……」
ルオさんは大きく伸びをして、寝起きの身体を慣らそうとしている。肖像画家なんて、筋肉が不要そうな仕事をしている割に、彼の体つきは、かなりがっしりしている。腕の太さなんて、目視だが、恐らく私の二倍はあるだろう。一体何処で鍛えているんだろう? と考えるが、中々答えは浮かんでこなかった。
「なんだ? 俺に何かついてんのか」
「いえ、なんでもないです! すみません……」
じろじろと不躾に見ていたのがあっさりと見抜かれてしまい、申し訳なさと、ちょっとした羞恥心で、私は彼からすぐに顔を逸らす。
だから、カフネさんが部屋に戻ってきた事に、直ぐに気付けなかったのだ。
「張り切ってる所悪いけれど、私はイーディアスの依頼を受けると言っただけで、肖像画を依頼したわけじゃないわよ」
氷を割ったような、きっぱりとした声が部屋の中に響き、私とルオさんは揃って声の聞こえた方向に視線を向ける。
「おい、話がちげえじゃねえかイーディアス」
すぐさま私に二つの冷たい瞳が向けられる。いや、だって!
「私が言った事を承諾するって事は、つまりそういう事じゃないんですか!?」
「違うわ。それは全く別の話よ」
「で、でも、今日と明日は、ここに残るって……」
「残るけれど、依頼をするとは言っていない」
はっきりとそう言い切ったカフネさんを前にして、私は(ああ、視界が真っ暗になるって、こういう事をいうのかもしれない……)なんて事をぼんやりと考えてしまった。
じゃあ、どうしたらいいんだろう? カフネさんの意思はてこを使っても動かなさそうな程固い。どうしてそこまで頑なにルオさんの依頼人になる事を拒むのかがさっぱり分からない。
「で、でもカフネさん。ルオさんの肖像画が嫌いなわけじゃ、ないんですよね?」
焦ってしどろもどろになりながら、それでも私は問い掛ける。先程聞いた彼女の話、そしてその時の表情。それらから、嫌悪感といったものを感じ取れなかったからだ。むしろ、確かな好意すら感じられた――私にはそう思えてならなかった。だから、上手くいったと思ったのに!
「……ええ、そうね。別に、嫌っては無いわ。本人は嫌いだけど、作品に罪はないもの」
「おいさらっと俺に暴言を吐くな」
思わず口を挟んだルオさんの事なんて見えていないかのように、カフネさんは続ける。
「でも、それとこれとは話が別よ。好きだからこそ、依頼をしたくない事だって、あるの」
カフネさんは私から視線を外さない。何か言わなければ、何度も頭の中ではそう考えるのに、その視線に焼かれて、発されるべき私の言葉はたちまちに溶けていってしまう。
どうしよう、……どうしよう? その五文字だけが、眼球の裏に浮かんでは、たちまちに何の解決策も見出せないまま消えていく。
きちんと両足で立っているはずなのに、地面がぐにゃぐにゃと無造作に揺れるようだ。言葉がつっかえて、喉の奥が痛い。全てが初めての事で、ますます脳も身体も混乱する。まともに思考が出来ない。私には、カフネさんを説得する言葉がない!
――そして、そんな空気を一刀両断したのは、やはり彼の言葉だった。
「……あー、分かった分かった。ババアの言い分は、まあ一応分かった。何があったのかはあとでこいつを締めるとしてだ。とりあえず。俺の依頼を受けねえなら、日中は家を出ろ。作業の邪魔だ。観光でもしてろクソ野郎」
頭をがしがしとかき回して、実に面倒くさそうに、ルオさんは告げる。提示されたこれからの事に、なんとなく、揺れていた視界が収まったような気がする。
「イーディアス、お前は買い出しついでにこの偏屈頑固ババアの案内でもしてろ。……俺の依頼人じゃねえから、多少は雑に扱ってもいいぞ」
私に向けて発された言葉に、ようやく我に返り、黙って頷く。私は思わず唾を飲み込んだ。
「ババアも、コイツになんか言われたんだろ。それでいいだろう?」
「……まあ、いいわ。アンタの案を飲んであげる。イーディアス、案内してくれるかしら?」
「あ、はい! 勿論です! とはいっても、私もまだまだ知らない事だらけですが、それでもよろしければ!」
「それで構わないわ」
そう告げた後、「準備してくるわ」と、再び部屋へと戻ったカフネさんの後ろ姿を見送ってから、私も急いで自室に戻る事にした。
隣に立っていたルオさんの顔は、恐ろしくて見れたものじゃなかったので、出来るだけ見ないように、顔を逸らし続けながら廊下を早足で歩いた。
アメリアさんに頂いた、遊びに行く用の白いワンピースをクローゼットから引っ張り出して、わたわたと着替える。初めて袖を通すが、サイズはぴったりだった。もう何度目か分からない感謝を、今も病院で働いているであろう彼女に捧げる。
「出来るだけ、隣に並んでいても浮かないような格好にしないとな……」
まあ、何も無い私がどれだけ付け焼き刃で着飾っても、あまり効果はない気がするが。それでも、出来る範囲の事はしなければならない。一緒に歩きながら、少しでも話を聞いてみよう。それしかない。
「上手くやらなきゃ、今度こそ殺されるぞ、イーディアス!」
姿見の前で、気合をいれるために、両手で頬を叩く。
どうして私は雇い主に殺される事に怯えなければならないのか……と冷静な思考の部分が、呆れながら私の事を見ている。それをなんとか見て見ぬ振りをしながら、私は自室の扉を開けた。
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