第8話 ルオとカフネのこと

 貴女の依頼を受けて、後であの小僧が吠え面かくのもまた一興だわ、とカフネさんは先程までとはうって変わって邪悪な笑みを浮かべた。


 結局私がルオさんに殺されるかもしれない未来は何も変わらないような気がしないでもないが、これでも今の私にとっては非常に大きな一歩である事には変わりない。これが最善の道だ。


「――それで、貴女は何を知りたいの? あのガキは私に“三日は滞在しろ”と言っていたから、貴女に残された時間は最長でも二日しかないのよ。時間は効率的に使わなければ。最も価値のあるものじゃない」


 私が作った朝食を食べ終えたカフネさんは、指を顎の下で組む。そのまま蛇が獲物を睨み付けるようなじっとりとした、品定めするような視線で、私をじっと見る。


 私は紅茶を二人分用意して、彼女の元へ持っていく。溢さないようにゆっくりと歩きながら、私は言った。


「本当のところを言うと、今自分が何を知っていて、何を知らないのか、それも良く分かってないんですよね」

「へえ、そうなの」

「目覚めてからこの世界の事を意欲的に調べるようになったのは、ここ一ヶ月ぐらいの事でして。ルオさんからは良くお前そんな事も知らねえのかってどやされます」

「……貴女も大変ね。あの男、腕は一級品かもしれないけど、口の悪さもそれ相応だから」


 私からすればカフネさんも大概ですよと言いたいのを押さえ、私は本題に入る事にする。


「だからですね、まずはルオさんの事について教えて頂きたいんです。あの人、私が色々聞いても軽くあしらうだけで何も教えてくれないので」

「私が、彼の?」

「はい。ちょーっと、仲は悪そうな……いや、気心の知れた感じがしたので! 過去に何があったのかなって。聞けるのって、ルオさんがまだ寝てる今の時間しかないと思うので」


 どうですか? と目で訴えると、カフネさんは実に嫌そうにこめかみを二本の細い指で摘まみ、逡巡していた。


「あ、勿論、嫌でしたらもっと別の案を考えるんですけど!」

「いえ、構わないわ。……はあ、あのガキねえ。少なくとも、私と初めて会った時から、アイツは生意気の権化だったわ。もう何年前の事になるかしら。十年? いや、それ以上か」

「やっぱりそうなんですか?」


 彼の性格は一朝一夕のものじゃないだろうとは思っていたが、そんなに前から不遜だったのか。腑に落ちて、ふんふんと頷きを繰り返す。


「突然の春の嵐のように、彼は突然表舞台に表れたわ。普通、新人の画家がその界隈で話題になる時なんてね、そんなのは鳴り物入りの巨匠の弟子、なんて時しかないのよ。でも、彼は突然変異みたいに突然、あの世界に誕生した。最初から新人とは思えない実力と、態度を伴ってね」


 カフネさんは目を細め、訥々と語り出した。私はそれにじっと耳を傾けている。


「そうしてある日、美術ギルドのマスターから今回みたいに泣き付かれたの。自分ではとても手に負えないから、一度、私の方からお灸を据えてくれないかって。アイツ、あまりにも生意気すぎて、敵を作りすぎたのよ」

「嗚呼、容易に想像が出来てしまう……」

「そしてすぐ、私は彼に出会った。髪が短かった事以外は、今と大して変わらないんじゃないかしら。昔から、触ったら傷になってしまいそうな、恐ろしい瞳を持った小僧だった。ま、最初からそんなのだったけど、描く事に関しては、昔から真摯だったわ。らしくないけどね」

「カフネさんは、ルオさんの肖像画を見た事があるんですか?」

「ええ、勿論。……恐ろしい程に良く出来ていた。見るだけで、描かれたその人物の事を理解できたと思う程に」

「そんなに凄いんだ……」


 結局のところ、私はこれまで一度も彼の描いた肖像画を見た事が無い。この家にも、私の目に入る範囲には飾られていないし、アトリエには私は出来るだけ足を踏み入れるなと強く言われている。という訳で、私はアトリエと地下室は、未だに中にどんなものがあるのかを知らない。とても掃除したいが。ルオさんの事だ。きっとアトリエは乱雑極まっているに違いない。


「貴女、それを知らずに働いているの? ……てっきり、貴女も画家を目指しているのだと思っていたわ。そうでもなきゃ、アイツの元で働く理由がないもの」

「私もそうだったらどんなに良いかと常々思ってるんですけどねえ。私多分、芸術の才能ってものはからきしです」


 数日前、カフネさんがやってくる前にルオさんから突然「何か描いてみろ」と画用紙を手渡され、意気込んで描いた渾身の一枚は、彼に「これは何だ? 人類に敵対する魔物の怨念か?」と珍しく真面目に疑問を投げかけられる結果に終わった。私がそれは犬ですと説明したら、ひとしきり笑われてしまって、雇用主である事を忘れ、殴ってやろうかと本気で思った。


「私、ルオさんに拾われたんです。全く覚えてないんですけど、どうやら町の路地裏に倒れていたらしくて。そこを偶々通りがかったルオさんが助けてくれて、病院まで運んで頂いたらしく、治療費と入院費まで出して頂いて……というわけで、あの人、命の恩人にあたるんですけど、私にかけたお金を回収するという名目で働かされているわけです」

「なるほど……最初を聞いた時はアイツがそんな殊勝な事を? と思ったけれど、最後まで聞いたら納得だわ。性格悪いから」


 ……カフネさんにそこまで言わせるなんて、本当に彼は何を言ってきたんだろうか?


「でも、機会があれば一度見せてもらったらいいんじゃないかしら。彼の肖像画に取り憑かれた人達は、昔から多いから」

「昔から、ルオさんは肖像画だけを?」

「そうね、頑なにそればかり描いていた。他の、風景画の依頼なんかが来ても、全て断っていた。理由を聞いた事もあるけれど、なんだったかしら。……これが唯一の手段だった、とかなんとか言っていた気がするわ」

「唯一の、手段……」

「何の手段かは興味なかったから聞いてないけどね。結局のところ、美術作品は、それ単体で評価されるのが一番健全だと思っているから」


カフネさんはそこまで言って、私が数分前に差し出した紅茶を一口飲んだ。その仕草一つ取っても上品さがにじみ出ている。


「でも、ある日突然、ルオは表舞台からはさっぱり身を引いた。昔は都で身一つだけで肖像画を描いていたのに、突然この町に引きこもって、今の彼のスタイル、と言われているもので作品を作り上げるようになった。その時も、私は美術ギルドに泣き付かれたわ。彼を止めてくれって! 結局失敗してしまったから、彼は今あんなに私を嫌っているわけだけど」

「へえ……」


 今までは知らなかった過去に相づちを交わしながら、私も紅茶を一口含む。少し冷めてしまっていた。


「まあ、私が知っているのはせいぜいこのくらいよ。むしろあの暴れ馬画家と一緒に暮らしていける方法を私が教えて欲しいくらいだわ」

「あ、はは、コツは心を無にする事で……げ!!」


 私が突然奇声を上げたので、カフネさんは何事? と眉を顰めながら、私の視線の先である背後を振り返った。


「おい、家主が寝てる間に、随分と人の悪口で盛り上がっていたらしいなイーディアス? 何時の間にそんな身分になったんだ?」


 カフネさんの背後には、たった今目覚めたのであろう、寝起きで分かりやすく機嫌が悪そうなルオさんが経っていた。その表情から発される言葉は、いつもより五割増しで低音だ。


「ご、誤解です! 誓って悪い事はしてませんから、どうか、どうか情けを!」

「情け無用! さっさと朝飯を準備しろ」

「はぁーい、ただ今!」


 どうしてこんなにタイミングが悪いんだ! と思いながら、私はわたわたとすわっていた椅子から立ち上がった。

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