第7話 イーディアスの提案

 翌朝、普段よりも三十分は早く起きて、私はカフネさんが目覚めるのを待った。寝坊でもして、朝一の船で帰られたらそれこそ明日以降の私の命は無いだろう。昨晩のルオさんの言葉には、本当に“やる”という凄みがあった。


 昨晩の大雨が嘘みたいに、窓の外は晴れ渡っていた。空には雲一つ無く、遠くで名前を知らない鳥の声がする。誰が見たって爽やかな朝だ。私の気分を除いては。

 部屋のベッドで横になってからも、私は直ぐに寝付けなかった。


 カフネさんを引き留めると言っても、一体私に何が出来るのだろうか。


 私から見れば、多少強引なれど何だって出来そうなルオさんがさじを投げた時点で、それは諦めるしかないのでは? と思わずにはいられない。


 色んな案を頭の中に浮かべても、この世界の何もかもに未だ慣れている最中の私にとっては、どれも無理な事なのではないだろうか? と後込みしてしまう。


「まあ、取りあえず私に出来る事をするしか無いか……」


 本当は心底不安だけれども、やらねば明日の私の命は無い。本当に、とんだ人の所に就職してしまったものだ。それ以外に選択肢がなかっただけとも言うが。


 目下私の悩みの種そのものであるカフネさんが部屋から姿を現したのは、そう言ってから十分も経っていない頃だった。


「おはようございます」


 キッチンに立って、朝の支度をしながら私がそう声を掛けると、彼女からも「おはよう」と、案外穏やかな声で返ってきた。


「これから朝食を作ろうと思うんですけど、何かリクエストはありますか? とは言っても、まだまだレパートリーは少ないので、カフネさんのお眼鏡に合うかは分かりませんが」

「何だって構わないわ……ルオは?」

「まだ起きてきてません。いっつも遅いんです」

「ああ、そう」


 そのままカフネさんはダイニングの椅子に腰掛け、私の方に目線をやった。今を見逃すわけにはいかないと、私は再び声を掛ける。手に持っていた包丁はまな板の上にきちんと置いたまま。


「あの、本当に今日、帰ってしまうんですか?」

「その予定だと昨晩から言っているじゃない。私からしてみたら、今この状況がイレギュラーなのよ」

「そこを何とか、心変わりして頂けませんかねえ……?」

「どうしたの、貴女。昨日はそんな媚びるような態度じゃなかったじゃないの。そんな事を言われても、予定に変更は無いわよ」


 怪訝そうな顔で、カフネさんは私の事を見つめる。仕方ないだろう、私だって殺されないように必死なのだ。


「そんな! お、お願いします! そこを何とか! ここでカフネさんに帰られると、私殺されちゃうんです!! 多分ルオさんに! 何卒、お慈悲をどうか……!」

「貴女、どうしてここで働いているの……?」


 そんな事、私が一番聞きたいが!? と彼女の目を気にせずに叫び出したいのをぐっと堪え、縋るようにカフネさんを見る。凄く嫌そうな顔をしているけれども、そんなのは今は気にしていられないのだ。


「いい事? 私にとっては、ギルドの仕事が全てなのよ。仕事もしないでこんなところで休暇だなんて、考えられないわ」

「……つまり、ここに滞在する事が、仕事であれば、帰らないって事ですか?」

「まあ、それはそうかもしれないわね。まあ、何を言われようと、仕事は滞りなく終わってしまったので、予定通り帰るのだけど」


 ……今、言質は取った。後は、上手く事が運ぶ事を祈るだけだ。


「じゃあ私が、カフネさんに依頼をします。勿論、ギルドの仕事としてです……これなら、どうですか?」

「依頼って、貴女、何を頼む気?」


 私は今、彼女が何を考えているのかが手に取るように分かる。差し詰め、何を言ってるんだこの小娘は……といったところであろう。それには私も大いに同意する。でも、これしか、ちっぽけな今の私には思いつかなかったのだ。


「簡単な事です。実は私、二ヶ月程前に目覚めてから、それ以前の記憶がさっぱり無いんです。……だから私に、この世界の事、そしてルオさんの事を教えてくれませんか? これだったら、お仕事の依頼になりますよね?」


 言い切った! と思うと同時に、カフネさんがすう、と冷たい目をしていくのが嫌でも分かって、背筋が凍った。今だったらどんなに熱い料理でも平らげる事が出来るかもしれない。


 私のこのとんちきな依頼を受ける合間に、ルオさんの仕事が進めば。それが今考えられる一番の最適解だった。


「貴女、私がどんな立場の人間か、分かってる?」

「自分なりに、理解しているつもりです。きっと、カフネさんはこの世界の酸いも甘いも全部知っていると踏んでの依頼です」


 カフネさんは黙り込んで、じっと私の瞳を見つめている。まるで私を試すかのように。


「私は今、何も知らない。世界の事も、私の雇い主である、ルオさんの事だって。だから、今私の知っている中で、一番世の中の事に詳しいと思われるカフネさんに、お願いしたいんです……本気です」

「そりゃ、貴女の命が掛かってるそうだからね。……はあ、いいわ」

「……へ?」


 十秒ほど前とは打って変わり、ふっと笑みを口元に浮かべた彼女に、私は思わず間抜けな声を上げてしまった。


「貴女のその、可笑しな依頼、受けてあげる。私に直接依頼してきた人なんて、初めてよ」


 今までの雰囲気は何だったんだ? と思ってしまう程あっさりと、カフネさんはそう告げる。私は提案した側だというのに、驚きが隠せなかった。


「私は経営者として、誰もしてこなかった事を初めてした人間の願いは出来るだけ叶えるようにしているわ。その代わり、二度目はないけれど……って、どうして貴女の方が信じられないって顔をしているのよ」

「いや、受けてもらえるとは、思っていなくて……」

「さっきまでの度胸はどこにいったのかしら。そんなんじゃ、私への依頼料を知った時にひっくり返るわよ。最初に言っておくけど、高いわよ」

「あ、それはルオさん宛で請求書を切ってもらえればいいので」


 さっぱりとそう言い切った私が、何故かカフネさんの笑いのツボを刺激したのか、そのままこれ以上ないってくらい、快活に彼女は笑った。


「はあ、笑ったら益々お腹が空いたわ。何か用意して貰えるかしら」

「はい! もうすぐ出来ます!」


 私は包丁を再び手に取り、そっと、これで直近の死の運命からは少しだけ遠ざかったぞ、と胸をなで下ろした。


 まだ、ルオさんは夢の中だろう。私の苦労なんて一つも知らずに!

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