第6話 女傑カフネ(3)

 一通り無言で睨み合った後、ルオさんとカフネさんは揃ってアトリエの方へ向かった。私はというと、彼の仕事に関する事はまだ何も分からないので、一人キッチンに残り、今日の晩御飯の準備でも取りかかろうかという所だった。


 まだまだ私は、このルオさんの仕事について、この世界について、そして、何よりも自分自身の事に対して、知らない事ばかりだ。むしろ知らない事しかない。


 ルオさんがどんな風に仕事をするのか、新しく描き上がる肖像画はどのようなものなのか。気になる事ばかりだ。


 この家には、ルオさんが描いたという肖像画は一枚も無かった。当然の事だが、完成品はどれも依頼人の元にあり、未完成のもの以外、ここには残っていないのだという。だから、私は完成した彼の作品がどんなものなのかという事を、まだ分かっていない。


「初めての依頼人っていうから、色々ワクワクしたのになあ……」


 まさかとても私の口からは言えない悪口の応酬を浴びる事になるとは思ってもみなかった。もっとこう、穏やかなご婦人が、うふふと笑いながら肖像画を依頼する……等とぼんやり想像していたのが、私の淡い期待は、あっさりと崩れ落ちてしまった事になる。


「ま、落ち込んでても仕方ないか。次はちゃんとした依頼人が来るよね」


 自分に言い聞かせるように、敢えて明るく口に出した。気分転換にと、締めていた窓を開ける。それと同時に、肌に触れる風は、どこかじわりとした湿度を纏っていた。先程まで気前よく晴れていたというのに、この辺りの天候は非常に変わりやすい。それさえなければカラッとしていて住みやすい所なのだが。


「雨降りそうだな……あ、洗濯物、早く取り込まなきゃ!!」


 一度もたもたしていたらシーツがびしょ濡れになって、ルオさんに大目玉を食らった事がある。あの時のルオさんは怖かった。その二の舞になるのはなんとしても避けたい。


「さ、やるぞ!」


 色々あるけれど、結局私は私に出来る、目の前の仕事から片付けていくしか無いのだ。それが今の私の生きる道なのだから。両頬を手で叩き、気合を入れ直して、私は駆け出した。


 

 その後、やるべき事を一通り終え、一息ついていた所に、渦中の二人が険悪な雰囲気のまま戻ってきた。彼等の雰囲気から察するに、どうやら監査は終わったらしい。

 二人の間に会話は無い。互いに無言のまま、互いに何か切り出すのを待っているようだった。


「……あの、結果はどうだったんでしょう?」


 私が聞かなきゃ進まないぞこれ……と悟り、恐る恐る声に出して訊ねてみる。それに、カフネさんは目を細め、明らかに不機嫌な表情を見せたが、直ぐに大きなため息を吐き出した。


「非常に癪だけれど、問題ないわ。本当に、不本意だけれども」

「あ? なんだババア、やるか?」

「今のその発言を問題にしたっていいのよ」

「すぐに喧嘩しないで下さい!」


 どうしてこうも一触即発なんだ! と私が叫びそうになった寸前で、窓の外から、思わず跳ね上がる程の轟音が辺り一帯に響いた。


「!! か、雷?」


 思わず背後にあった窓へと視線を向け、近くまで駆け寄る。その瞬間、瞬きしても光の痕跡が残る程の閃光が、私の瞳を貫いた。空は暗く淀み、重い雲が全てを覆っている。そうして十秒も経たないうちに、勢い良く大粒の雨が降り始めた。


「うわッ、やっぱり降り始めた」


 窓は締めたし、洗濯物も取り込んだし、大丈夫だよね……と頭の中で指折り確認を繰り返す。この辺りの雨は勢い良く、一晩中降り続く。しかもある程度予報されているとはいえ、どこで降り出すのかは未だ完璧に明かされていないそうだ。近所の人々は、雨の精の悪戯なんて事を言っている。


「……困ったわね」

「へ?」


 顎に手を添えて、カフネさんがそう呟いたのを、私は聞き逃さなかった。


「どうしてですか?」

「これ以上雨がきつくなったら、帰りの便が無くなるわ。これから帰る予定だったのに」

「え、晩御飯食べていかないんですか?」

「悪いけど、そんな悠長にしている時間は私には無いの」


 そう言うや否や、てきぱきと荷物を纏め、その流れで家を出て行こうとするカフネさんを、私は何とかして引き留める事になった。


「ま、待って下さい! この雨じゃ、きっともう海は大荒れですよ! 今外に出たら、風で吹き飛ばされちゃうだけです!」


 あたふたと懸命に止めるが、それでもカフネさんは止まらない。私の説得虚しく、部屋の扉に手を掛けた彼女の後ろ姿へ、それまでずっと黙っていたルオさんが、初めて声を上げた。


「おいババア」

「……何かしら?」


 ゆっくりとカフネさんはルオさんのいる方へと視線を移す。


「アンタが出て行こうと勝手だが、それでその老い先短え身体に傷がついてみろ。難癖付けられるのはこっちだって、分かってんのか?」

「…………」

「どっちみちこの雨じゃもう船は出てねえって、そこのちんちくりん娘も言ってただろ。……諦めて俺の依頼人になっておけよ」


 それから、カフネさんが、とても嫌そうな表情を隠す事も無いまま頷くまでには、長い時間が必要だった。


 

 非常に気まずい雰囲気の中、三人での晩御飯を終えた。私達の間に会話は無く――正確には、私が何か話しかけてもあっさりと無視された――ただ沈黙だけが悲しいスパイスだった。


 カフネさんが客室へと入っていったのを見届けた後、細々とした明日への準備を済ませ、私ももう寝るか……と洗面台に向かおうとしたところで、私はルオさんに呼び止められた。薄暗い廊下で灯りも無しに彼が立っていたので、思わず短い悲鳴を上げてしまった。


「静かにしろ!」

「悪いのはルオさんのせいですよ! ……それで、一体なんでしょうか?」


 並んで歩きながら、リビングの方へと移動する。


「あのババアの事に決まってるだろうが」

「まあ、そうだとは思いましたけれど」

「あの偏屈ババア、もう俺が何言っても聞きゃしねえ。それなりに付き合いはあるからな。癪だが、その辺りの事は分かってるんだよ」

「確かに、とても頑固、いや、自分の意思がはっきりしてそうな御方ではありますが」

「言いように言い換えるな……そこでお前の出番という訳だ、イーディアス」

「どういう訳ですか?」


 文章に繋がりが無いんですが、と言うよりも前に、ルオさんは勢い良く、私に指を突き差してこう言い放った。


「どんな手を使ってもいい。……あのババアを、その気にさせろ」

「そ、れは、肖像画を描かせるようにしろって事ですか?」

「その通り。物分かりが良くて助かるわ」


 うんうんと頷くルオさんに、私は返す言葉を失った。彼の中では、これは既に揺るぎない決定事項らしい。


「滅茶苦茶難易度高くないですか!? 私、記憶無いのに!」

「それは関係ねえだろ! 俺がやれと言ったらやれ」

「横暴だ……」

「黙って従え助手さんよ」

「いつから私助手になったんですか」

「たった今からだ」


 ルオさんの瞳にはなんの曇りも無い。ただ真っ直ぐな瞳で、こちらを見つめている。こんなに邪悪に澄んだ瞳がこの世に存在していたのか。存在していて、いいのか? 後世の為にも、澱ませておいた方が世の中の為になるのではないだろうか。


「そりゃ、誰も長続きしませんよ、この仕事……こんな、こんな……」


 今までも無茶ぶりをされてきたのであろう事は想像に難くない、歴代の前任者達の事を思い、私は心の中で涙を流した。


「いいか、失敗したら殺すぞ」

「偉い人に訴えたら私勝てますよこれ」

「うるせえよ……いいか。明日一日をお前にやる。だからそれまでに、あのクソババアをこっちの仕事に協力させろ。失敗は許さねえからな」


 一体どこの暴君だ! と言うよりも前に、はっきりと言葉を突きつけられて、私はいよいよ頭が真っ白になった。


 さて、私の明日はどっちだ?

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